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青い熊は遅れて現れる



「――春菜? ああごめんね、起こしちゃって」

「……お母さん……、いや、今、え⁉」


 次に目が覚めた時、病室には母親が訪れていた。

 死神の姿は影も形もなく、春菜は夢だったのかと押し黙る。だが自分は確かにあの低い声と翼の音を耳にした。それに――


「ちょ、え、どうしたの春菜、そんな必死に口拭いて」

「ち、違うの! その、なんか、ちょっと」


 あの行為を思い出した春菜は、寝着の袖で赤くなるまで口元を擦り続けた。他のことに関する記憶はおぼろげなのに、何故か感触だけはっきり残っているからたちが悪い。


「そんなに気になるなら顔洗ってらっしゃい。ほら、リハビリにもなるし」

「そ、そうだよね! ちょっと行ってくる。ついでにうがいしてくる!」


 点滴の容器をキャスターに移し変え、春菜は逃げ出すように病室を出た。


(……だから夢だって、……夢。……リアルな夢だって!)


 洗顔――特に口元周辺を念入りに洗い、前世が蛙かと思われそうなほどしっかりとうがいをして、春菜はようやく満足した。

 夢だというのに、どうしてここまでリアルな感触が残っていたのだろう。

 そんなことをぼんやりと考えていると、ナースセンターの前に見知った人影があった。横に二本ラインの入った黒のジャージ。運動部らしく短く切った黒髪に、人目を引く長身は紛れもなく、あの人の背中だ。


「津田先輩⁉ あの、どうしてここに……」

「四宮。いや、その」


 突然声を掛けられたことに驚いたのか、津田と呼ばれた青年は言葉に詰まった。

 津田篤史――春菜の一つ上の学年で、剣道部のエースだ。

 黒い髪と同じくらい真っ黒な目。遠くからでも目立つ身長と寡黙な性格のせいか、高校生には思えない妙な迫力と落ち着きがある。

 だがその実態は非常に優しい人で――今まで口にしたことはないが、春菜がずっと思い続けている相手だった。


 喜びを隠しきれない春菜を前に、津田はしばし主人を見失った大型犬のようにうろうろと視線を泳がせていた。

 だがはあと息をつくと、持っていた紙袋を突き出す。


「見舞い」

「えっ⁉ あ、ありがとうございます!」

「休んでいた時のノートの写しらしい。お前の友達から頼まれた。あと森山からも」

「え、純君? ……その、何か言ってました?」

「『リレー止まってんだけど』と言っていた。お前達、運動部の真似事でも始めたのか?」


『リレー』とは文芸部で始めた合作小説のことだ。二人一組になって書き進め、一か月後に発表するのだが、春菜が入院してしまったせいでまったく進んでいない。


「いえ、そういうわけでは……。あのところで、どうして津田先輩がわざわざノートを?」

「練習ついでに寄っただけだ。ここは学校から離れているし、この近くを通ると言ったらお前の友達から頼まれた」


 それを聞いた春菜の頭の中に、にやにやと親指を立てる友人たちの顔が浮かんだ。ついでと津田は言っているが、おそらくこれは彼女たちの故意の犯行に違いない。


「じゃあ俺はこれで」

「え、あ、あの、津田先輩!」

「なんだ」

「試合、頑張ってくださいね!」


 すると津田は一瞬目を大きく見開き、ほんの少しだけ微笑んでみせた。肩に掛けていた胴着入れと竹刀を軽く持ち上げ、ああと短く答える。

 それだけで春菜の心には、花が咲いたような喜びが宿った。

 津田を見送った後、春菜は病室に戻り紙袋の中身をいそいそと確認する。中には結構な量のノートの写しとプリント、友人たちからの手紙、そして何故か手の力を鍛えるハンドグリッパーが入っていた。


(……? リハビリに使えってことかな……)


 一応何度かぎっぎっと握りしめた後、そっと棚の上によける。最後に出て来たのは水色のテディベアだった。首には濃い青色のリボンが可愛らしく巻かれている。


(あれ、まだ何か入ってる)


 テディベアの傍らに小さいカードを見つけ、春菜はそれをひょいとつまんだ。そこには綺麗な筆致で『面会代理』と書かれている。

 この文字には見覚えがある――おそらく後輩の純が書いたのだろう。


(可愛い。純君、わざわざ買ってきてくれたのかな)


 予期せぬお見舞いに浮かれつつ、友人たちからの手紙を読んでいると、母が病室に戻って来た。手には空の花瓶が握られており、あれと春菜は眉を上げる。


「お母さん、もう片づけしてるの?」

「さっき谷崎先生に聞いたら、週末くらいから自宅療養に切り替えだっていうから。少しでも片付けておいたほうが後々楽でしょ」


 そっかーと答えながら、春菜はベッドに横たわる。

 そこでふと先ほどのテディベアを思い出した。


(せっかくだから少しだけでも飾っておこうかな)


 慌ただしく体を起こし、テディベアをどこに置こうかときょろきょろと見回す。

 だがそこで、一瞬春菜の思考が止まった。

 先ほどまで花瓶があった位置に何故か――大きな黒い羽根が置かれていたからだ。


「お母さん! こ、これ、この羽根! 一体どこからこんなもの……」

「ああそれ? 窓の傍に落ちてたから拾ったのよ。大きいわよねえ、それに真っ黒だし。カラスかなーとも思ったんだけど、こんな大きなのいるわけないしねえ。もしいたら人間くらいの大きさってことになっちゃうでしょ」


 のんきな母親の言葉も耳に入らぬまま、春菜は震える手で羽根に触れる。根元から羽先まで、不思議な輝きを孕んだ漆黒の羽根。

 およそ三十センチほどあり、春菜は寒気を感じてそろそろと指先を離す。


(まさか、この羽根……あいつの?)


 夢では、無い?

 幾度となく聞いていた鳥のような羽音。

 それが今こうして、目の前にあるということは――


(あいつは本当に、ここにいた?)


 思わず口を手の甲でぬぐう。あの屈辱的な仕打ち。そして『契約』という言葉。

 すべて――すべて夢ではなかったのだとしたら。


「……春菜? 大丈夫? 気分悪いの?」

「あ……ううん、なんでもないの。……少し寝るね。来てくれてありがとう」


 不安げに声を掛ける母の目から逃れるように、春菜は布団を頭から被った。遠ざかる足音を聞きながら強く目を瞑り、全身を丸め強張らせる。普通に吐き出している息が、動いている心臓の音が――すべて偽物に思えてきた。


(どうしよう。私やっぱり、死んでたんだ。そして――)


 死神と『契約』してしまったんだ。



 

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