春川と谷崎と鴉の再来
「――はいはい、感動の再会はそこまで」
「た、谷崎先生!」
春菜は慌てて手を引っ込め、掛け布団を引き寄せた。放置された手を名残惜しそうに戻しながら、直人もまた白衣の医師に向き直る。
医者にしては砕けた態度の彼は――谷崎久志。
ここ谷崎総合病院の跡取りであり、通称『若先生』と呼ばれている。年若いながらも非常に優秀らしく、子どもからお年寄りにまで大人気の先生だ。
元々母の行きつけの病院だったため、春菜も小さい時からここに何度も通っていた。初めて知り合った時はまだ、谷崎は高校生で春菜は小学生だったはずだ。しかしいつの間にかこうして立派なお医者様となってしまった。
それを知った当初、春菜は少しだけ委縮していた。だが当の谷崎はまったく変わっておらず、以前と同様にからかわれているうち、自然と距離を感じることはなくなったのだ。
一見すると普通の黒色だが、光が差し込むと緑色が混じる不思議な虹彩をしており、本人には一度として言ったことはないが、春菜は彼の目が大好きだった。
「こんにちは」
「どーも。つーか春川、講義はいいの?」
「今日は午後からの分しか選択して無いんです」
ふーんと興味のなさそうな返事をし、谷崎は春菜の傍に歩み寄った。手首を軽く掴んだり瞳孔の反応を確認した後、ぽんと頭に手を乗せられる。
「大きな異常はなし。この分だと週末にも通院に切り替わりそうだな」
「え、じゃあ、家に帰れるの⁉」
「何なら俺の家に一泊していくか?」
「セクハラは営業時間外にしてもらえますか、先生?」
突如割り入った返答に春菜が隣を見ると、谷崎の軽口に対して、ものすごい笑顔で応答している直人がいた。言葉は丁寧だが、これは明らかに怒っている。
だが谷崎も引く気はないらしく、直人の目の前で春菜の頭をぐりぐりと撫でた。あんまり髪をぐしゃぐしゃにしないで欲しい、と春菜は眉を寄せるが、同時にたまらない安心感に包まれる。
小さい時から変わらない、大きな谷崎の手。
熱で苦しんだ時も、お腹が痛くて泣き叫んでいた時も、いつも『若先生』は春菜の頭を撫でてくれた。
不思議なことに彼に触れられるだけで、どんなつらい治療も頑張ろうという気力が湧いてくるのだ。
「しかしまあ、本当に良かったよ。お前、どんな魔法を使ったんだ?」
「魔法?」
「搬送されてしばらくは、間違いなく心臓止まってたぞ。それが突然動き出して……さすがの俺も、あんときだけは神様を信じかけたな」
「……え、えと」
(神……『死神』……)
春菜は思わず言葉を詰まらせた。それに気づいたのか、谷崎は『悪い悪い』とくしゃくしゃと彼女の頭を撫でる。
さっきより少しだけ優しいそれは、まるで春菜がここにいる――生きていることを確かめるかのようだった。
「つーわけで、明日の診察で問題なければ自宅療養。ただ定期検査にはちゃんと来いよ。俺が相手してやるから覚悟しろ」
「心配しなくても女の先生に代わってもらえるからね、春ちゃん」
直人と谷崎の間に、再びばちりと不穏な空気が流れた。その光景をどこか懐かしみながら、春菜は苦笑する。
(この二人……相変わらず仲悪いなあ……)
春菜の共通の知人でありながら、二人の相性はあまり良いものではなかった。たしかに見た目も性格もまるで真逆で、春菜がいなければ知り合うこともなかっただろう、と双方の口から聞いたことがある。
最初の頃は春菜もたびたび仲裁していたものの、ある時から二人はこの関係性が楽なのだと気がついた。
谷崎が言うことは大概冗談だし、直人はそれに過敏に反応しすぎる。
「いいよ直兄、来た時に空いてる先生にお願いするから。谷崎先生も忙しいでしょ」
「バーカ、俺の女を他の奴に任せておけるか。さて、午前の面会は終了終了。春菜はもうしばらく横になってろ。そして直人は帰れ。二度と来なくていい」
「じゃあまた、家にでも顔出すね。どうせ隣だし」
「直人……お前な……」
「う、うん! ありがとう。勉強、頑張ってね」
再び不穏な気配を感じ取った春菜は、慌ただしく直人に手を振った。直人は返事の代わりに春菜の髪を撫で、最後に谷崎に笑顔の牽制をしてから部屋を後にする。
「ぴりぴりしてんなあ……まあ、仕方ねーか」
「先生?」
「いや、こっちの話。いいから寝てろ」
反論の余地なくベッドを倒され、同時にぐいと額を押される。むうと頬を膨らませる春菜を見て、谷崎はにやりと笑った。
やがて谷崎もいなくなり、病室は春菜一人になる。
中庭にいる見舞い客のかすかな話し声に、遠くで鳴っている小学校のチャイムの音。年季の入った車の走り去る排気音に合わせて、分厚いカーテンがわずかに揺れた。
ぽかりと空白になってしまったかのような静寂の中、春菜は天井を仰ぐ。
(……あれはやっぱり、夢だった……?)
つい先日まで死にかけていたとは、とても信じられない。
やはりあれは夢だったのだ。臨死体験をした人の証言に『暗いトンネルを歩いた』とか『浅い川を渡った』というものがある。おそらくその類だろう。
掛け布団を肩まで引き上げ、春菜はもぞりと横を向いた。病院独特のシーツの匂いに包まれながら、そっと目を伏せる。
(……家に帰ったら、読み途中の本を読んで、早く学校にも顔出したいな……純君が怒っているだろうし、あと津田先輩に、試合の……)
つらつらと浮かんでいた思考が、複雑な組紐を編むかのように混ざり始める。混沌とした意識の中に落とされた春菜は、やがて小さな寝息を立て始めた。
ふと、気配を感じた。
誰かが病室に入ってきた。そのままベッドに歩み寄ってくる。起きなくては、と春菜は力を入れたがどうしても力が入らない。
それどころか瞼一つ動かすことが出来ない有様だ。
(か、金縛り……⁉ というか誰? もう面会の時間は……)
春菜が言いようの無い恐怖を感じている合間にも、侵入者はなおもこちらに近づいてくる。やがてぎし、とベッドの軋む音が聞こえ、点滴の管がわずかに揺れた。
(お母さん? 直兄は今大学に行っているはずだし、谷崎先生が戻って来たの……?)
恐れを紛らわそうと、必死になって春菜は思考を整理する。
だが瞼越しに感じていた明るさがさっと陰った。どうやら侵入者が春菜の両眼を手で覆っているらしい。
感触から、素手ではなく手袋をしていると分かる。
やがて侵入者は、静かに言葉を発した。
「……こんにちは。見ないで下さいね」
それは、紛れもない――暗い闇の中で聞いた『死神』のものだった。
そう確信した途端、春菜の脳内は一瞬で混迷する。
(なに、なんで⁉ ……あれは、夢じゃなかったの……⁉)
だがいくら全霊で叫んでも、春菜の声帯はぴくりとも動かない。死神は春菜の訴えが聞こえているのかいないのか、ただつらつらと言葉を続けた。
「契約の確認に参りました。契約者――『四宮春菜』。送還法特例措置契約に関して、現第三世界への残存を希望する代わりに、自身の記憶をその対価とする。……間違いは無いですね?」
聞き覚えの無い単語が次々と流れていく。
だが春菜の朧げな記憶の中、確かに死神は言っていた。
『記憶を代償に、生き返りたいか』と。
(私がそれを……契約を、した……?)
「本当はあんまりしないんですけどねえ。上司にばれたら面倒ですし。まあ契約した以上、最後まで責任を持ってお付き合いくださいね」
(待って! 意味がわからないんだけど……)
「ああ、時間ですね。またお会いしましょう。私の……契約者殿?」
すると死神はそのまま春菜に身体を寄せ、その唇に自身の唇を触れ合わせた。振り払おうとしたが、体は相変わらず鉛のように動かない。
(――っ!)
死神は春菜の目を覆い隠したまま、しばらく角度を変えて口づけを堪能する。やがて息苦しさのためか、春菜が無意識に唾液を嚥下したことを確認すると、ようやくその唇を離した。
(なんで……こんな……!)
屈辱に歯噛みする春菜をよそに、ようやく死神の手が目元から離れた。衣擦れの音とともに強い花の香りがする。百合、だろうか。
そのまま気配は病室のドアではなく、窓際の方へ向かっていく。窓枠に足を掛けるような音がしたかと思うと、一拍おいて翼を広げる音がし――それを最後に、春菜は気絶するように意識を失った。