[if.]谷崎久志の場合2
春菜の上空から、黒い半球が地表までを覆いつくした。春菜と谷崎はその中に閉じ込められ、眼前に辟易とした表情の死神が現れる。
「……貴方は馬鹿ですか」
「この人を生き返らせて。私にしたように」
「記憶を奪って、ですか? 貴方自身も感じたはずです。この契約は、契約者自身が一番苦しめられるのですよ」
「わかってる。だから契約に条件をつけさせて」
「条件?」
「この人から奪う記憶は『私の記憶』だけにして。足りない分は、私の記憶をいくらでもあげるから」
真剣な春菜の視線を受けながら、死神は訝し気に眉を寄せる。
「貴方は……自分が何を言っているのか理解しているのですか?」
「……」
「いったい何のために、彼の記憶を残したのです」
「……それは」
好きだったからだ。
谷崎のことが好きで、どうしても忘れたくなくて、他の人を犠牲にした。
「なくした記憶は二度と戻りません。貴方は……一番好きな人から、その存在を忘れられるのですよ?」
「それでもいい。先生を助けられるのなら、……私のことを忘れていても、いいから」
「……わかりました」
これ以上の問答は意味をなさないと判断したのか、死神は膝をつく春菜の前にゆっくりと歩み寄った。そのまま春菜の額を手で覆う。
ガク、と身体を震わせた後、春菜はすぐに意識を失った。それを一瞥した死神は、続けて虫の息になっている谷崎の頭に手を伸ばす。
(……これは)
死神は一瞬驚いたような表情をしたが、すぐに目を伏せた。長い睫毛の下から海色の瞳が現れ、不思議な声色で言葉を発する。
「契約者『谷崎久志』――送還法特例措置契約に関して、対象者『谷崎久志』の生体状態を保ち第三世界へ残存させる。代償として、契約者の『代行者に関する記憶』のみを失うものとする。代行者は『四宮春菜』。当人の承認は得ている」
死神が唱えるのに合わせて、白い燐光が谷崎の全身を覆った。すると先ほどまで苦悶の表情を浮かべていた谷崎の容態が、少しずつ落ち着いていく。
やがて自発呼吸を確認したところで、死神は覆っていた黒い半球を解除した。
「人というものは……本当に、理解しがたいものですね」
完全に魂が乖離した状態ではなかったため、春菜の時よりは少ない代償で済みそうだ。足りない分は自分の記憶をと春菜は言っていたが、それに至らなかったことは不幸中の幸いかもしれない。
そこでふと、死神は谷崎を見下ろした。
(これだけの割合を占めていて、ただの患者であるはずはない。……自分の事に一番鈍い男だった、というわけですか)
契約に際し、谷崎の記憶を垣間見たところ――彼はその容量の大部分を『四宮春菜』で埋め尽くしていた。
その量が多かったからこそ、春菜の記憶を奪うに至らなかったともいえるだろう。
契約の履行が完了したのを確認すると、死神はその背にあった黒い翼をばさりと広げた。優雅な仕草で二、三度羽ばたくと、足元に横たわる二人を見つめた後、空高く舞い上がる。彼の姿がなくなったところで、ようやくがやがやとやじ馬が集まり始めた。
漆黒の羽根が一枚、赤い水たまりの上に落ちる。
しばらくすると砂のように変質し、ぼろりと崩れ去った。
神よ、我らが愛しき神よ。
何故私をお忘れになられたか。
私の稚拙な踊りを楽しそうに見ていてくださったではありませんか。
神よ、私は私自身を見て欲しかったわけではありません。
私はこの拙い踊りを見て欲しかったのです。
醜く地味な私が舞う、踊りを見ていて欲しかったのです。
私など、見なくても良かったのです。
私の踊りだけを、見ていてくださればそれだけで、私はとても幸せなのです。
そして季節は廻った。
緩やかな春風が、癖のある黒髪に桜の花弁を運ぶ。当の本人はそれに気付く様子もなく、手にしていた煙草を口元へ持ち上げた。
「ここにいたんですか、谷崎先生」
「休憩中だ。言っとくが、こないだみたいに突然『外傷性脳損傷への入院前トラネキサム酸投与の有益性について』とか聞くなよ」
「分かってますよ。私も少しだけ休憩もらえたので、ご一緒してもいいですか?」
そう言うと歳若い看護師は、ベンチに座る谷崎の隣に腰掛けた。
長い髪を結い上げ、化粧もほとんどしていない清楚な横顔で手元に視線を落としている。その手には看護師が読むには相当難解と思しき医学書と、担当している患者の資料があった。
「お前も真面目な奴だな、四宮。そんなに人助けたけりゃ医者になりゃ良かったのに」
「そう思ったこともあります。でも私は、それ以上に『ある一人』を助けたいので」
「……? 家族、とかか?」
「ふふ、秘密です」
探りを入れるような谷崎の問いかけには答えず、春菜はぱらりと資料をめくった。谷崎はしばし春菜を見つめていたが、再び紫煙をくゆらせる。
――次に目が覚めた時、春菜は谷崎のことを覚えていた。
何故覚えていたのかは分からない。
谷崎の持つ記憶だけで契約が完了したのか。それとも――契約が結べなかったのか。
最悪の想像をした春菜は近くにいた母を捕まえると、すぐに谷崎の所在を尋ねた。言われた病室には谷崎が横たわっており、春菜は恐る恐る接近する。
(先生……先生……)
祈るような気持ちで、谷崎の顔を覗き込む。額や腕などにたくさんの包帯が巻かれ、腕からは点滴の管が伸びていた。だが谷崎の静かな息遣いが聞こえ、春菜は全身の力が抜けてしまいそうなほど安堵する。
「……よ、か……った……」
春菜の目から、ぼろぼろと涙が零れる。鼻腔を伝い、喉にかすかな塩辛さを残しながら、留まる事を知らず流れ続けた。繋がる管を動かさないよう、慎重に谷崎の指先を握る。
彼が握り返してくることはなかったが、生きていることを証明するかのように、しっかりとした暖かさがあった。
均一な電子音。
閉め切られた窓からは、穏やかな陽光が差し込んでいる。
静かに続く谷崎の呼吸を聞きながら、春菜は神に感謝した。
春菜が資料を見ていると、小児科に入院している子どもが中庭に出てきた。それに気づいた谷崎は、吸いかけの煙草を早々に携帯灰皿に押し込む。
やがて、ぼんやりとした様子で谷崎が空を見上げた。
「この木、桜だったんだな」
「突然どうしたんですか?」
唐突な谷崎の言葉に、春菜は出来る限り自然に答える。
「いや、今まで知らなかったなと。……もしかしたら忘れていたのか、と思って」
雪のように降りしきる花びらを見つめていた谷崎の鼻先に、ひらりと花弁が落ちて来た。谷崎は器用にそれを掴むと、ゆっくりと手を開く。
少し折れ曲がった桜を前に、谷崎はぽつりと続けた。
「昔、ちょっと派手な事故に遭ってな。それ以来――ずっと、何かを忘れている気がするんだ」
「……」
「まあ多分、気のせいなんだけどな。検査でも何も異常は無かったし」
――当然のことながら、谷崎の意識が戻った時、彼は春菜のことを一切覚えていなかった。
契約だから仕方がないとは理解していたが、受け入れるまで春菜も相当の時間がかかったのを覚えている。
詳しく調べた結果、谷崎の中で『四宮春菜』という存在が、最初から『存在していない』ものとして扱われているようだった。
二人の仲の良さを知っていた両親や、谷崎の父親からもひどく心配されたが、無理に記憶を思い出させようとすると、間違った記憶を植え付けてしまう可能性が高いと言われ、春菜はそれ以上の処置を望まなかった。
やがて高校を卒業した春菜は進学し、看護師の道に進んだ。きっかけは、谷崎の事故の時に味わった無力感であったことは間違いない。
そうして多くの勉強や実習を乗り越え、ようやく希望通りこの病院に勤務できるようになった。配属された時、春菜は数年ぶりに谷崎と再会する。
その第一声は『はじめまして』だった。
「きっと、気のせいですよ」
資料を持つ手が震えそうだ。その動揺を悟られないように、春菜は少し声の調子を上げて会話の終わりを目指した。
今の春菜はただの同僚。一人の看護師にすぎない。
何より――思い出すはずはないのだ。
「でもなあ、考えてみたらちょっとおかしなことがあるんだよな」
「おかしなこと、ですか?」
「高いところが平気になったらしいんだよ。その事故の後から」
春菜の体がこわばった。たしかに以前の谷崎は、ひどい高所恐怖症だった。そうなった原因は紛れもなく春菜にある。
「親から驚かれてな。『どうして脚立に上がれるんだ⁉』って。何言ってんだと思って聞いたら、どうやら以前の俺はかなりの高所恐怖症だったらしい。……って言われても、何のことかまったく分からねえ」
「原因を克服したとかじゃないんですか?」
そう言いながらも、春菜はその理由に見当がついていた。
おそらく春菜についての記憶を忘れた結果、木から落下した時の恐怖心も失ったのだろう。当の谷崎にとっては、どうして高いところが苦手になったのか、そのきっかけさえ思い出せまい。
すると谷崎はううん、と眉を寄せた。
「原因か……それは何となく分かるんだよな。小さい時、この木に登って落ちたんだよ、俺」
「えっ⁉」
春菜は手を強く握りしめた。
もしかして――記憶が戻っている?
だが春菜のわずかな期待は、谷崎の苦笑によって否定された。
「でも、何で登ったのか覚えてねえんだよな。別に木登りが好きだったわけでもねえし、……ただ」
「ただ?」
「誰かが、いたような気がするんだ」
「木の上にですか?」
「ああ。俺より小さな……多分女の子。でもだめだ。顔も名前も思い出せない。入院していたのか外来だったのか……何で木に登っていたのかも分からない。……でも、その子は泣いてた」
遠くで子ども達の笑い声がする。時折叱るような女性の声がして静かになるが、またこみ上げるように笑いが広がった。
空にはゆっくりと雲が流れ、その合間を縫うように桜の花弁が二人の頭上に舞い落ちる。
「泣いていた。名前も顔も知らない小さな女の子。俺はその子に……笑って欲しかった。だから、そんな無茶をしたんだと。なんとなく思っている」
名前も顔も知らない、小さな女の子。
君が、泣いていたから。
「まあ本当に曖昧な記憶だから、俺の勘違いの可能性が高いけどな……って、おい、なんで泣いてんだ」
「……何でもありません」
「何でもないって……目赤いぞ。花粉症か? あんまり強くこするなよ」
短く笑う谷崎の声を聞きながら、春菜はこみ上げてくる涙を何度も拭った。
美しい思い出のように、谷崎はただ愛し気に『春菜』を語る。
谷崎がそれを大切に語る相手もまた『春菜』であり――二人は谷崎の中で、決して同じ人物にはならない。
(……私、複雑な片思いをしている気がする)
ライバルは他でもない、昔の自分自身なのだから。
ようやく春菜の涙が止まりかけた頃、慌てた看護師の声が中庭に飛び込んできた。
「谷崎先生、急患です! すぐ来て下さい!」
その言葉に谷崎は一瞬で医師の表情に戻り、慌ただしく立ち上がる。春菜が手にしていた資料を畳んでいると、谷崎がその手を春菜に向かって差し出した。
「人手がいりそうだな。お前も一緒に来い」
「……はい!」
颯爽と院内に向かう谷崎の背中を、春菜はまっすぐに見つめた。以前は見送ることしか出来なかった、この背中。
でも今は違う。
春菜は谷崎を追いかけるように、足早に歩き始めた。
すぐに追いつけるわけではない。それでもいつか――その隣に並べるように。
私は、貴方の力になりたい。
私は、貴方を助けたい。
だって貴方は、私を助けてくれたから。
【谷崎編 了】
これで[if.]の物語はすべてです。
こうみると死神の契約変更率が高すぎてやばいですね。査定は大丈夫かな紅野。
明日の総括まとめの更新ですべて終わりです。
お付き合い下さりありがとうございました!




