[if.]谷崎久志の場合1
【▼記憶が抜け落ちていく中、春菜は谷崎への恋心を自覚する。谷崎に告白するが、多忙な彼の返事は聞くことが出来なかった】
――日も随分と落ちた頃、ようやく病院にたどり着いた。
待合室を歩きながら、きょろきょろと視線を巡らせる。
「……いた」
中庭のベンチに、休憩中らしき谷崎がぼんやりと腰掛けていた。やがて入院着を着た子ども達が、何かを持って彼の前を訪れる。わいわいと賑やかなその中心で、谷崎はとても穏やかに笑っていた。
その光景を見て、春菜の胸はひどく締めつけられる。
(どうしてもっと早く、この気持ちに気づかなかったんだろう)
このままでは、いつか谷崎のことも忘れてしまうかもしれない。ようやく気付いたこの気持ちを伝えるべく、春菜はこくりと息を吞んだ。
「谷崎先生!」
「春菜か。どうした? デートのお誘いか?」
そんなとこ、と軽口を叩きながら、春菜は谷崎の隣に腰かけた。子どもたちは次のターゲットを探しに行ったらしく、全員いなくなっている。
「ここの中庭、私が小さい時から変わってないね」
「ああ、親父の指示だ。お前は随分大きくなったな」
「おかげさまで」
小さかった頃、身体の弱かった春菜はよくこの病院に運び込まれた。入院していた時期もあり、この中庭で谷崎と遊んでもらったことを覚えている。
「ほら、あの木。お前、あれに登って降りられなくなったよな」
「あっほんとだ! でもあの時って、先生が助けてくれたんだっけ……」
「助けに行ったけど、お前を助ける前に俺の方が落ちたんだよ。体中めちゃくちゃ痛いし、お前の泣き声は頭にがんがん響くし……いや、あれは忘れようがないわ」
はは、と谷崎は短く笑うと、周囲に子どもが居ないことを確認して、こっそり煙草に火をつけた。
秋の空に細い煙が一本たなびく。
すると突然、谷崎が静かな声で問いかけた。
「どうした。何か泣きたいことでもあったのか?」
「ど、どうして?」
「お前がわざわざ俺に会いに来る時は、手術の前とか検査の前とか、不安な時だけだったろ。だからなんとなく経験で、だな」
煙草のにおい。
さほど好きではないのだが、谷崎のものだと思うと、少しだけ好ましく感じてしまうのが不思議だ。控えめに吐き出された紫煙を見つめ、春菜は覚悟を決める。
「……私、谷崎先生が好きです」
「……」
いつまで続くのかと思われるほどの沈黙。
一瞬、言わなければ良かったという気持ちが春菜の心をかすめたが、この感情をなくしてからでは何もかもが遅い。
「突然こんなことを言って、本当にごめんなさい。でも、どうしても、言っておきたかったから」
「……俺は」
だが谷崎の言葉が続く前に、血相を変えた看護師が中庭に飛び込んできた。
「谷崎先生! 急患です、急いで第二手術室へ来て下さい!」
その瞬間、谷崎は医師の顔つきに変貌した。看護師に容態と手術までの処置、別棟の医師も呼ぶ手配をしたあと、春菜の方を振り返る。
「明日来れるか? その時、答える」
反射的に頷く春菜を確認した後、谷崎はあっというまに院内へと戻って行った。誰も居なくなった中庭で、春菜は電池が切れたかのようにベンチにへたりこむ。
(告白……しちゃった……)
本当に良かったのだろうか、という不安が春菜の中に湧き上がる。同時に谷崎の医者としての表情を思い出した。
ほんの一瞬垣間見せたあの顔つきは、紛れもなく『医師』のものだった。春菜だけに構うことは出来ないし、してほしいとも思わない。
「……帰ろう」
今の春菜では、何の役にも立たない。
谷崎を助けることも出来ないし、ここに居たところで邪魔になるだけだ。
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【▼死神との契約も無事完了し、春菜はようやく自由の身となる。だが――】
――すると死神は、静かに口角を上げた。
「おめでとうございます。契約は完了です、私の契約者」
「完了?」
ええ、と高度を一定に維持するため、時折ばさりと羽ばたきながら死神は笑う。
「私は以前、貴方に申し上げました。『一番大切な人の記憶だけは、残してあげましょう』と」
「う、うん……」
最初の契約の際、死神は確かにそう告げた。
だからいらない記憶、必要の無い記憶から選んでいけばいい、と。
「貴方の残した一番大切な記憶を、どうぞ大切にして下さい。他の全てを犠牲にして得たものなのですから」
「……」
全てが終わったのだ。これ以上誰かを忘れることもないし、心配させることも、困惑させることもなくなる。
それなのに――何故こんなに不安に襲われるのか。
「私はこれでお別れです。さようなら、私の契約者」
死神が、春菜のいる窓際まで下りて来た。
そのまま顔を傾けると、触れるだけの口付けを落とす。その一瞬の出来事に、春菜はしばし呆然としていた――が、すぐに顔を真っ赤に染め上げる。
それを見た死神は、にこと目を細めた。
「もう二度と会うことはないでしょう。きっと……その方がいい」
「あの……、ありがとう、その」
私を助けてくれて、と春菜が礼を告げる暇もなく、死神は力強く羽ばたくと夜の闇へと消えていった。
完全に姿がなくなったのを見届けてから、春菜は窓を閉め、静かにベッドへと横になる。
(これで契約は終わり……もう大丈夫……だよね?)
目を瞑ると、もやのように蠢く闇が広がる。その安寧に取り込まれるように、春菜はいつしか静かな寝息を立て始めていた。
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――気付いてしまった。自分の気持ちに。
その日、春菜は無言で体を起こした。外を見ると細かな霧雨が降っており、少し肌寒い。セーターを着こむと、いつものように階下へと向かう。
部屋の中には崩れた形のベッドといくつかのぬいぐるみ。病院で拾った黒い大きな羽根は、いつの間にかその姿を消していた。
朝食を終えて自室に戻った春菜は、コートを着込んで玄関へと急いだ。傘立てから自分の傘を引き抜いていると、母親があらと声をかける。
「春菜、どこに行くの?」
「病院。ちょっと谷崎先生と約束してて」
「寒いから暖かくしていきなさいね」
はあい、と返事をした春菜は、ゆっくりと玄関を押し開いた。母の言葉どおり、一歩外に出ると体の芯まで冷えるような寒さに襲われる。
雨は降りやむどころか、どんどん強くなっているようで、枯葉の欠片が濁流に飲まれながら道路を滑り落ちていた。
(……告白の返事、聞きに行かないと)
病院に着く頃には、春菜の靴はすっかりびしょびしょになっていた。天候のためかどこか物寂しい病院に入ると、看護師と医師の姿が数人見受けられる。
(今は診察の時間だろうから、もう少しだけ待っておこう……)
他の患者の邪魔になるのはためらわれ、春菜は待合室を離れると中庭に続く廊下へと向かった。人気のないソファに腰を下ろす。
正面は大きなガラス張りになっていて、中庭の様子が見れる造りになっていた。晴れていれば子どもたちが遊んでいたのだろうが、この雨の中、艶々と色づいた葉っぱがうな垂れているだけだ。
それらを眺めているうち、春菜は大きく枝を張り巡らせている一本の木に目を奪われる。
(あれは……私が小さい頃、下りられなくなった……)
春菜がこの病院に入院していた頃、他の入院していた子どもたちにからかわれ、自棄になって中庭の木に登ったことがあった。
だが降り方が分からず困惑しているうちに、体調が悪くなり、下にいた子どもたちが谷崎を連れて来たのだ。
しかし助けに来たはずの谷崎の方が落下してしまい、病院は上を下への大さわぎになった。
(あの時は、本当に先生が死んでしまうかと……)
後日心配した春菜が何度も見舞いに行ったが、谷崎は春菜を怒りもせず、ただ無事でよかったと笑っていた。
ただ聞いたところによると、谷崎はそれ以来高いところが大の苦手になってしまったらしく、春菜はひどく落ち込んだものだ。
(私は本当に、先生に迷惑をかけてばかり……)
谷崎は大人だから、きっと春菜のことなんて相手にしないかもしれない。それでも――春菜が最後まで残したいと望んだのは、彼の記憶なのだ。
「……先生?」
誰かが近づいてきた気配を感じ、春菜は振り返ることなく口にした。振り返ると春菜の予想通り、白衣のポケットに手を突っ込んだ谷崎が姿勢で立っている。
「どうして分かった?」
「先生のことなら分かります」
へえ、と本気で感心しているような谷崎の表情に堪えきれず、春菜は笑いながら答え直した。
「うそです。先生、煙草の匂いがするから」
「まじか。かなり気を遣ってるんだが」
「多分、他の人には分からないくらいです」
「なんだそりゃ、お前は犬か」
そう言うと谷崎は、いつものように目を細めた。だがすぐに真面目な顔つきに変貌する。
「昨日の返事だったな」
「……はい」
春菜は立ち上がると、谷崎の声を聞き落とさないように集中した。優しい谷崎の声にザアザアと波打つような雨音が、ラジオのノイズのように混ざる。
「昔のお前のこと、色々思い出してた。検査がきつくて泣いてた時とか、病気で苦しそうにしていた時とか」
「小さい時から、本当にお世話になったもんね」
「ああ。……でもいつの間にかお前は大きくなって、病気もしなくなった。しばらく会ってないなと思ったら、突然事故で運び込まれて――俺は、本当に驚いた」
「……」
「なんとしてでも助けてやりたい、そう思った。だけど俺はお前を見た瞬間――諦めてしまった。もう無理だ、と目を瞑ってしまったんだ」
「そ、それは……あの状態では、きっと誰でも」
「ダメなんだ。俺は……どんなに大切に思っている奴のことでも、きっと同じように判断してしまう。最後まで努力をせずに、頭だけで見限ってしまう……」
大切な存在だったはずなのに。
医師としての自分が、冷静に判断を下してしまった。
そのことに谷崎は絶望し――自分には、その価値がないと痛感した。
「俺は……医者だ。そしてお前は患者。それ以外の関係性はない」
それは明らかな拒絶だった。
春菜はしばらく俯いていたが、やがてそっと谷崎に頭を下げる。
「……ありがとうございました。すみません、忙しいところなのに」
「春菜、俺は」
「ご、ごめんなさい、失礼します!」
言うが早いかその顔を隠しながら、春菜は逃げるように走り出した。残された谷崎はその背中をしばし見つめていたが、やがて深い溜息をついた。
雨はいまだ強く降り続けていた。ばしゃ、と水たまりの泥が飛ぶ。
とにかく早く立ち去りたいと慌てていたせいか、病院に傘を忘れてしまった。頭上から降り注ぐ水滴は冷たく、全身が洗われているかのようだ。
でもいまさら傘を取りに戻る勇気はない。
(……覚悟していた、はずだったのに……)
鼻の奥がつんとなり、目の端に溜まった水が頬を伝い流れ落ちる。
(こんな、ことなら)
忘れてしまえばよかったのだろうか。この気持ちに気付かないうちに、死神から記憶を奪ってもらえば――。
春菜の目からは光が消え、その足はふらふらと当てもなくさまよっていた。
降り続く雨はいっそう酷くなり、ガラス窓に強く叩きつけられている。
谷崎は喫煙室の椅子にだらりと座っていた。指先の煙草からは細い白糸が立ち上り、谷崎は機械的な仕草で何度か口に運ぶ。
(……あれで良かったんだ)
あの場で自分が追いかけるのは、彼女にとって気まずかろうと、谷崎は追いかけることをしなかった。
逃げるように立ち去った春菜の顔は良く見えなかったが、その声がわずかに震えていたことを思い出す。
(雨がひどいな……大丈夫か、あいつ)
こんな豪雨の中、一人で大丈夫だろうかと不安になったが、谷崎は振り払うように頭を振った。
何を考えている。あの子はただの患者だ。
ついさっき自分でそう線を引いたばかりだろうが。
(大体、歳も違い過ぎる……。直人やもっといい奴が……)
変な方に考えが向いてしまい、谷崎は再び煙草を口に運ぼうとした――その時、ポケットに入れていた仕事用の携帯が音を立てる。
着信ボタンを押すと、やや慌てた様子で看護師が用件を告げた。
「あの、四宮さんのご家族からお電話なんですが」
「回してくれ。……はい、変わりました谷崎です」
『あ、樹先生⁉ あたしです、四宮春菜の母で』
「落ち着いてください。俺です、息子の久志です。どうされましたか」
『あ……ああ、樹先生じゃないのね……どうしましょう、娘が……』
尋常ではない様子に、谷崎に一抹の不安がよぎる。
「春菜さんが、どうしたんです」
『まだ、家に戻らないんです。もうこんなに暗くなって雨も降ってるっていうのに、病院に行くって言ったきり帰ってこないんです、いつも連絡もなしに遅れるようなことはしないのに、あの、あたしもうどうしたら!』
「携帯に連絡は?」
『何度もするんですけど、出なくって……』
谷崎が腕の時計を見ると、時刻はすでに七時を回っていた。多少過保護な母親だと思ったことはあったが、この病院を出たのは昼の早いうちだったはず。まだ家に帰っていないのはたしかに気にかかる。
(どこか他の場所に寄っているのか? それならいいが……)
『ねえ、久志さん、私もうどうしたら……』
「落ち着いてください。私も今から彼女を探しに行きますから、お母さんは家で待機していて下さい。家に戻るか、彼女から連絡があれば病院に連絡を。いいですね」
当惑する春菜の母親をなんとか宥めると、谷崎は静かに電話を切った。
幸い診察時間は終わっていたので、電話を繋いだ看護師に状況を伝えると、すぐに自分のロッカーへ向かう。黒いコートを乱雑に着込むと、傘を片手に病院を飛び出した。
(春菜……まさか、俺のせいで……)
ざわりと胸騒ぎが音を立て、谷崎の心を黒く塗りつぶしていく。
水分を含んだ髪が、春菜の肌に張り付いた。とっくに日も暮れてしまい、早く帰らなければという意識はあるのだが、どうしても足が向かない。
(……どうしよう)
今度から谷崎にどんな顔をして会ったら良いのだろう。病院を変えた方がいいかもと考えたが、まだ事故の後の定期診察も終わっていない。
突然病院を変えたいなどと言い出したら、母がなにごとかと詮索してくるかもしれないと思い至る。ふるふると首を振り、春菜はぼんやりとした頭のまま、横断歩道に足を進めた。
その時――赤になっている信号を無視し、一台の車が猛然とした勢いでこちらへと突っ込んで来た。
大型車のヘッドライトが春菜の横顔を白く照らし出し、一拍置いてけたたましいクラクションの音が鳴り響く。
気づいた春菜に、逃げ場はなかった。
(――ッ‼)
瞬間、ものすごい力で体を押された。
投げ出されるように、春菜は泥と水溜りの中へべしゃりと倒れこむ。土臭さと肺の痛みにしばらく咳き込んでいたが、自分が生きていることに気づいた。
(私、今……車に……)
ボロボロになった体を何とか起こし、足や腕を確認する。受け身を取る暇もなかったため、見るに堪えないひどい擦り傷だらけになっていたが、きちんと動いていた。
ようやく頭が落ち着いて来て、一体何が起きたのかと春菜は背後を振り返る。すると、横断歩道からずいぶん通り過ぎたところで、会社のロゴが入ったトラックが止まっていた。
そのすぐ脇に――雨に打たれうずくまる『何か』が横たわっていた。
黒いコートに包まれたそれを助けようと、春菜は慌てて駆け寄る。
「谷崎先生⁉」
それは、紛れもなく谷崎だった。
トラックに吹き飛ばされた身体はぐたりと弛緩し、路面には赤い水溜りがじわりと広がっている。額からの出血も見られ、いまはただ浅く短い呼吸を繰り返していた。目は薄く開かれてはいたが虚ろで、何も見えていないようだ。
「先生? 先生、どうして、ここに……」
だがすべてを口にする前に、春菜は状況を理解した。谷崎は春菜を事故から庇った。その結果――自身が逃げ遅れてしまったのだ。
「先生! 先生、しっかりして、先生‼」
とにかく血を止めないと、と春菜はハンカチを取り出すと、鮮血に覆われた額に押し当てた。だがどくどくと強く拍動する血管の感触だけで、いっこうに止まる気配はない。真っ白なハンカチが、谷崎の血によって暗い赤に染まっていく。
「どうしよう、止まらない……!」
ハンカチの生地を通り抜けた血が、春菜の手のひらを汚す。思わず目をそむけたくなるような凄惨な光景だったが、春菜は必死になって谷崎と向き合った。いまだ焦点を結ばない谷崎を前に、春菜は絶望する。
(どうして私は、こんなに、何も出来ないの……!)
昨日の夕方、谷崎を呼びに来た看護師を思い出す。彼女なら、この同じ状況に立たされても、冷静に対処出来たのだろうか。
(どうしよう、どうしたら……)
助けたい。助けたい。
谷崎を助けたい。
その瞬間、春菜は叫んでいた。
「――死神、まだいるなら答えて、契約を結びたいの!」




