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[if.]津田篤史の場合2



 高く晴れ上がった春の空を見上げ、津田は首に巻いていたマフラーをほどいた。

 三月だというのに、いまだ寒さの残る気候が続いている。ただ今は高台までの階段を登ってきたせいで、少し暑いくらいだ。


(全然変わらないな、この街は)


 高校生の頃より伸びた黒髪を風が弄び、それに合わせて足元の桜の花弁が小さい台風のように巻き上がった。

 視線を上げると、手すりの向こうに津田の住む街並みが広がっている。去年出来たショッピングモールが目を引くが、その他は何も変化していない風景だ。


「さてと」


 誰もいない高台の東屋に足を向けると、津田はいつものように座り込み、文庫本を開いた。栞を外し、前回までの展開を思い出す。


 大学生になった津田は、時間がある時や土日など、決まってこの高台に来ていた。

 理由はほかでもない、自身が『ここで待つ』と約束したからだ。


(……春菜)


 ふと意識が逸れ、津田はかつての後輩のことを思量した。

 告白をされ、津田はそれに答えた。だが彼女は事故の後遺症を患っており、津田のことを完全に忘れてしまったのだ。

 最後に会った日――ハンカチを返した途端、春菜は真っ青になって震え始めた。様子がおかしい、と津田が声をかけた途端、その場に倒れ込んだのだ。

 幸い病院が近かったこともあり、津田はそのまま抱きかかえて春菜を担ぎ込んだ。検査の結果、以前遭った事故の後遺症ではないかという話だった。。


(記憶がなくなるというのは……ああいう意味だったんだな)


 その後も津田は、何度も病院に通った。だが面会すると、春菜がひどく怯えて会話どころではなくなることが頻発した。

 担当医に相談したところ、どうやら春菜の怯えの根幹に津田が関わっているのではないか、と暗に示された。


『――彼女の精神の安定を、第一に考えたい。だから君は……しばらくここには来ないでほしい』


 春菜の担当医になったという、黒髪の医師の言葉が脳内に甦った。津田は了承し、その後病院に行くことは一切しなくなった。

 本当は心配で仕方なかったが……自分がいることで彼女の容態が悪化すると言われて、行けるはずがなかった。


(春菜は、元気になったのだろうか)


 先程より強い風が背に当たり、津田はぶるりと肩を震わせた。脇に置いていたマフラーを再び身に付ける。

 今日はどうも集中が途切れる――と、津田は読書を諦めて立ち上がった。

 眼下に広がる街並みを眺めようと、東屋から数歩外に向かって踏み出す。その背中に、誰かが声をかけた。


「……あの」


 遠慮がちな、可愛らしい声。それが誰のものであるか、津田はすぐに理解した。振り返る勇気が出ず、背を向けたまま一度深呼吸すると、津田は覚悟を決めて向き直る。

 そこにいたのは一人の女性だった。


 長く伸びた柔らかい髪。花柄のワンピースに濃紺のカーディガン。高校生の頃の面影を残したまま、今は少し不安げな表情で微笑んでいる。

 それは間違いなく――春菜だった。


(……思い、出した?)


 津田の祈りが通じたのだろうか。何にせよ、春菜はこうして高台にいる。何というべきかしばらく悩んだ後、津田は震える声で言葉を紡いだ。


「……良かった」

「……」

「会いたかった。今日をずっと待っていた。――春菜」


 口に出した後で、津田は春菜を名前で呼んでしまったと気づいた。

 高校を卒業した今は先輩後輩ではないのだから、どう呼んでも構わない……だが、どうにも気恥ずかしい。

 すると呼ばれた春菜は、何故か悲しそうな顔をした。


「あの」

「わ、悪い。やはり馴れ馴れしかったか」

「違うんです。あの――あなたはどうしてここに?」


 世界中で放送障害でも起きたのかと思うほど、津田は無音の只中に一息に突き落とされた。もちろんそんな事実はなく、自身がショックを受けていただけだと、すぐに意識を取り戻す。


「……どうしてって……約束をしていたから、で……」

「約束……。あの……誰と、何の約束をしていたんですか?」

「それ、は……」


 言葉に詰まった津田は、やがてすべてを理解した。



 奇跡は――やはり起きなかったのだ。

 春菜はこの場所に訪れはしたが、肝心の津田のことを思い出すことは出来なかった。

 当然、二人の関係を知るはずもない。



「――ここで会う約束をした。お前と」

「私と、ですか? それはどうして……」


 それは、と言いかけて、津田はすぐに言葉を呑み込んだ。


(ここで……俺の存在を明かして……大丈夫なのだろうか)


 恋人だった、と伝えることは簡単だ。

 だが突然覚えにもない男からそんなことを言われ、春菜が混乱してしまう可能性は高い。

視線を上向かせる。

 太い枝を幾重にも張り巡らせた桜花は美しく、とても残酷に見えた。


(もしも、……本当に、彼女のことを思うなら)


 ここで、真実を言うべきではない。

 彼女が記憶を失っていることも。自分が誰かということも。

 すべて、すべて、隠して。

 どうか愛する君のために。





「……俺の、友人と」

「あなたの……友達?」

「あなたは俺の友人と知り合いで、ここでもう一度会う約束をしていた、そうです」

「わ、私がですか⁉」

「俺はその代理で来ました。……そいつはもう二度と、君とは会えないから」


 それだけ言うと、春菜は何かを察したのか、それ以上追及することはしなかった。


(そうだ……もう、会えない……)


 津田が言ったことも間違いではなかった。

 春菜が恋をしてくれた津田はもういない。もうあの頃の記憶は戻らないのだから。


「――好きだった、と言っていました」


 なごり雪のように降り積もる桜は、春菜の肩や髪にも積もっていた。だが彼女はそれにも気付かないほど、真摯に津田を見つめている。

 記憶を失っても、春菜の本質が何も変わっていないと分かり、津田はひそかに微笑んだ。


「俺はそれを伝えるためにここに来ました。あなたのことが、心の底から好きだった。……でも俺のことは、もう忘れてくれと」


 これでもう、彼女の精神を傷つけることはないだろう。

 記憶がなくなった以上、いつまでも自分に囚われてはいけない。出来ることなら新しく――今度こそ、幸せな恋をしてくれと津田は祈る。

 すると話を聞き終えた春菜は、静かに口角を上げた。


「……ありがとうございます。やっぱり勇気を出して、ここに来て良かったです」


 そう言うと春菜は、自身の左手をそっと撫でた。

 そこには何故か黒いボールペンで書かれた文字がかすんでおり、津田はわずかに首を傾げる。その様子に気づいたのか、春菜は恥ずかしそうに苦笑した。


「ずっと、気になっていたんです。昔の私が、ここまでして覚えておきたかった約束」

「ここまでして、とは?」


 そこに記されていたのは『高台に行く』という短い一文だった。


「実は私、長く入院していて……。最近容態が落ち着いたので、外出できるようになったばかりなんです」

「そう、ですか……」

「で、このメモ。気づいた時には書かれていて……きっと昔の私から、未来の私に向けての伝言だと思ったんです」


 最初は何のことかさっぱり分からなかった。

 だが過去の自分の伝言を無碍には出来ず、今日までせっせと書きなおしていたのだと春菜は恥ずかしそうに笑う。

 何度も。何度も。

 消えそうになったら、また上から書き足して。


「きっと大切な約束なんだろうと思って……でも、本当に会えると思っていなかったから、今日会えて、すごく嬉しいです」

「大切な、約束……」


 あの頃の津田は、春菜を安心させられるならと軽い気持ちで口にした。しかし彼女はそんな小さな約束を、本当に大切に思ってくれていたのだ。

 そんな彼女を――自分はどれだけいとおしく思っていただろう。


「あ、あの……これ」

「……?」


 差し出されたハンカチを見て、津田は自分が涙を流していることにようやく気がついた。思えば、以前もこんな風にハンカチを差し出されたことがあった――と思いながら、ありがたくそれを受け取る。


「ありがとう、ございます」


 今の春菜には、津田への好意は残されていない。

 それどころか思い出も、記憶も、何もない。圧倒的不利の戦いだ。

 ――それでも。



 一際強い風が吹き、東屋のベンチの上を桜の花びらが踊った。暖かく、どこかから運ばれて来た甘い匂いの中で、津田は春菜を見据える。


「すみません、ハンカチを汚してしまって」

「いえ、大丈夫ですよ」

「洗って返します。……また、会えますか?」

「そんなに気にしなくていいのに。――そう言えば名前も言っていなかったですね。四宮春菜と言います。はじめまして」


 春菜が好きなのは、自分ではない。

 彼女が好きだった津田はもうどこにもいない。

 だから今から始まるのは――俺の片思い。

 錆び付いていた歯車が、いま一度軋みながら動き始める。


「……津田篤史です。よろしく」


 津田のフルネームを聞いて、春菜は嬉しそうに微笑んだ。

 それを見た津田も、つられるように目を細める。



 あなたのことが好きでした。

 そしてきっと近い未来、またあなたを好きになります。




【津田編 了】


 


津田編は春菜から告白をする/しないが分岐でした。するとバッドになってしまう意地悪仕様だったような…

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