[if.]森山純の場合2
数日後、森山は春菜の入院している病院へと向かった。面会の手続きを済ませていると、黒い髪をした医師から話しかけられる。
「お前か、春菜を運んでくれた奴は」
「通報しただけです。あなたは?」
「医師の谷崎だ。よろしくな」
すると谷崎は「ついて来い」と、森山の前を歩き始めた。突然のことに森山は一瞬顔を顰めるが、春菜と呼び捨てにしているところを見ると、かなり親しい関係なのだろう。
無言のまま谷崎の後を追う。
すると前を歩いていた谷崎が、ぼそりと尋ねた。
「お前さあ」
「何ですか」
「彼氏かなんか?」
森山はしばし硬直した。だがようやく理解した後、顔を赤く染めあげる。視線を斜めに下ろしたまま、負けじと言い返す。
「……そうです」
「へえ」
どこかからかうような余韻を残しながら、谷崎はようやく立ち止まった。
一般病棟から随分離れた別棟に来ており、気のせいか全体的に薄暗い。森山はなんだか嫌な予感を感じ取り、静かに息を吞んだ。
「そんな彼氏に一つお願いだ。……あいつの前では笑ってくれ、何があっても」
「……?」
まるで祈るような谷崎の言葉に、森山は耳を疑った。中に入るよう促され、森山はそろそろと一つの病室に足を踏み入れる。
つるりとしたモルタルの床に、日差しの一切を遮る白いカーテン。冬に近い暖かな陽光は一切感じられず、代わりに消毒液の匂いと薬品の残り香が漂っている。
その中央のベッドに、春菜が座っていた。
すべらかな髪。いつも嬉しそうに笑っていた目。
あの日、森山が抱き寄せた姿そのままで、春菜はそこに存在していた。森山は堪えきれない笑みを浮かべると、急いで春菜の元に駆け寄る。
「先輩! 良かった、無事だったんですね」
「……」
「あの時はどうしたのかと思いましたよ。本当にあなたは心配ばかりかけて……」
「……」
そこでようやく『そのまま』ではないことに森山は気づいた。
恐る恐る春菜の手を取る。
白い肌にはしっかりとした体温があったが、森山が力を緩めるとすぐにだらりと弛緩した。いつもキラキラと輝いていた瞳にも、今は生気というものが一切宿っていない。
「……先輩? からかうのは、やめてください……」
「……無駄だ。彼女は今、自分が誰かもわからない」
背後からかけられた声に振り向くと、谷崎が静かにこちらを見つめていた。
「どういう、意味ですか」
「確証はないが、以前の事故が原因だろう。後遺症にしてはあまりに時間が経ちすぎているが……他に考えられる要因がない」
「そん、な」
「自分のことはおろか、あらゆる知識と記憶も無くしている。俺も、親の顔も、おそらくお前のことも覚えてはいないだろう」
その言葉に、森山は最後の光景を思い出した。春菜は雨の中泣きながら『頭が真っ白になって、覚えられない』と言っていたはず。
(まさか……こんな意味だったなんて……)
一体いつから記憶をなくしていたのだろう。
もし事故の後からだとすれば――彼女は森山と接していた日々の間も、恐怖と戦い続けていたのかもしれない。
(それなのに、俺は……)
自らの行動を思い返し、森山は思わず手のひらを握りしめた。春菜の状態も知らず、彼女に思いを伝えたいという欲求ばかりを先行させて、返事を急かした。
どうして。
どうしてもう少しだけ、春菜のことを知ろうとしなかったのか。
無言で立ち尽くす森山を前に、谷崎は静かに頭を下げた。
「本当に、申し訳ない。症状に早く気づけなかった俺の責任だ」
「いいえ。それを言うなら、俺だって……」
やがて森山は、ゆっくりと春菜の手を握りしめる。
「すみません。少しだけ……二人きりにしてもらえませんか」
谷崎がいなくなった病室で、森山はあらためて春菜と向き合った。
虚ろな瞳に森山の顔が映っていたが、驚きや恥じらいを露わにすることもない。ベッドの傍の椅子に腰かけた森山は、軽く組まれていた春菜の手に優しく触れた。
「先輩。みんな心配してましたよ。早く部活に戻ってきてほしいって」
「……」
「リレー小説も終わってないですよね。俺、早く続きが読みたいです」
森山の――琥珀の目から涙が零れる。
「学校で先輩に会えるとすごく嬉しかった。一人の後輩として、笑いかけてもらえるようになってからは、もっと」
「……」
「そのままでも良い、と思ってました。でも先輩が事故に遭ったと聞いてから、怖くなったんです。……何もしないまま後悔してもいいのか、って」
春菜の手を、森山は両手で包み込むようにして握った。ぽたり、ぽたりと、溢れる金色の涙が手の甲に点々と跡をつける。春菜は相変わらず無表情のままだった。
「だから、気持ちを伝えました。でもそれすら、先輩を困らせるだけ、だったんですね……。俺は……馬鹿ですね……」
滑り落ちた雫がベッドに、床に伝い落ちる。
見舞い客も患者も少ない病棟は、異常なほど静謐な空気に包まれていた。その静けさを壊さないように、森山はそっと春菜の体の両隣に手をつく。
そのまま顔を屈め、すくい上げるように彼女に口付けた。柔らかい髪が森山の頬に触れる。
冷たいそれは、二度目の口付け。
(先輩、どうか……)
もしかしたら、あの日のように怒ってくれるかも知れない。
突然何するの、と照れてくれたら――だが、それは叶わぬ願いだった。
森山はすぐに彼女の手を握りしめる。
指先を絡ませ、堪えるようにして嗚咽を漏らす。
どこか遠くで子どもの笑い声がする。
五時を知らせるチャイムが、間延びしたように鳴っている。
それは普段と何ら変わらない、穏やかな週末の午後。
世界は何も変わらないのに。
どうして、先輩は笑ってくれないんですか。
ああ、我らが愛しき神よ、どうして笑ってくださらない。
あなたが、死んでいるからですか。
それとも――俺が、死んでいるからですか。
それから二か月が経過し、季節は完全に冬を迎えた。
今日は朝から分厚い雲が空を覆っていて、夕方には雪が降り始めるという予報だ。底冷えのする空気の中、紺色のダッフルコートを着込んだ森山は、いつものように一人病室に向かっていた。
「よう」
「谷崎先生」
「真面目だな、お前も」
呼び止められて振り返ると、黒髪の医師が笑っていた。書類を手にしたまま、森山の隣に並び立つと、同じ病棟に向かって歩いていく。
「勉強はいいのか?」
「するべきことはしてますから」
やがて二人は春菜の病室に到着した。荷物とコートを部屋の入口に置くと、森山は慣れた様子でベッドの傍の丸椅子に腰かける。
「こんにちは、先輩」
声をかけるが応答はない。
森山はさして取り乱すこともなく、深緑の手提げかばんから一冊の本を取り出した。
「今日は『白雪姫』を借りてきました。聞いたことのある話の方が良いかと思って」
谷崎の話によると、今の春菜は幼児ほどの知識も有していないこと、感情や表情に関しては、三歳児のそれより劣るとのことだった。
だが無理に記憶を思い出させることは出来ない。それよりは、言葉や情緒に関する教育を少しずつ施した方が良いだろう、という判断を聞いた森山は、こうして見舞いのたびに絵本を読み聞かせている。
ぱらりと表紙をめくる。
だがそこで、春菜が何かを握りしめていることに気づいた。
「これは……」
「ああ、それか」
すぐに背後の谷崎から返事が来る。
彼女の手には水色の生地で出来たテディベアがあった。
「何かきっかけにならないかと、こいつの家のものを適当に持って来てもらったんだ。ほぼ無反応だったんだが、このぬいぐるみを見た時だけ少し反応があった。渡したら、こうやって持ったまま離しやしない」
「このぬいぐるみ……」
以前春菜が入院したとき、森山が買ったものだ。
本当はつらつらと心配する言葉を書きたかったのに、急に恥ずかしくなって、そっけない『面会代理』の紙だけつけた。
(――嬉しかったから、早くお礼を言いたくて)
あの頃からそうだった。
こちらが呆れるような小さなことに感謝し、考えていることがすぐ顔に出る人。笑って、泣いて、すぐに赤くなって。人に対しての感情を誰より素直に表す人だった。
森山はそうした表現が人よりも苦手で――孤独に慣れ親しんできた自分と、たくさんの人に囲まれていた彼女。絶対に交わることなどないと思っていたのに。
気づけば春菜は、森山に微笑みかけてくれた。
自ら避けていた人の輪に、手を取って引き入れてくれた。
彼女の周りにある暖かい世界を知って――そしていつしか、好きだと気づいた。
「……ああ、すみません。絵本、でしたね」
鼻の奥が痛い。今は感傷に浸っている場合ではないというのに。
「……『昔々、綺麗なお姫様がおりました。彼女は美しい髪と雪のような白い肌をしていたことから「白雪姫」と呼ばれ、皆から愛されました……」
気を遣ったのか、谷崎はひっそりと姿を消していた。
病室内の温度が少しずつ下がり、窓の外では巻き上げられた枯葉がカラカラと鳴っている。白い風花を目にし、いよいよ雪が降り始めたかと森山はぼんやりと逡巡した。
「――『王子が口付けると白雪姫は目を覚まし、二人はたちまち恋に落ちました。そうして二人は王子様のお城で幸せに暮らしましたとさ』……めでたし、めでたし」
絵本を閉じた頃には、窓の外はすっかり暗くなっていた。少し疲れたのか、春菜は座ったままうつらうつらと身体を揺らしている。
森山はわずかに苦笑し、ベッドの傾きを変えるとそっと春菜の体に布団をかけた。静かな寝息を立てる春菜を前に、森山は一人静かに思案する。
白雪姫は、王子がいたから目を覚ました。
では、彼女を起こしてくれる王子は一体誰なのだろう。
「王子なんて……いないじゃないか」
もしも、白雪姫のもとに王子が現れなければ一体彼女はどうなるのだろう。
あの深い森の中で、無力な七人の小人と過ごすだけなのだろうか。
だって七人の小人は、王子ではない。
王子様には、なれないのだから。
「……先輩。俺は……」
何かを言いかけた森山は、すぐに口をつぐんだ。わずかに上下する布団を見つめると、そのままそっと上体を屈め、春菜にキスをする。
弾力のある感触と、かすかな湿り気。
「……」
ゆっくりと体を起こす。森山は祈るような気持ちで春菜を見つめていた――が、彼女は静かに眠ったまま、目覚めることはなかった。
(分かっている。それでも――)
森山は眠る春菜の手を取ると、祈るように両手で握りしめた。
春菜の容態にはいまだ何の好転もない。
彼女の記憶はもう二度と、戻らないのかもしれない。
それでも。
(神様、お願いです――俺を『王子様』にしてください)
誰も知らない小さな誓いは、森山の心に確かに刻まれていた。




