[if.]森山純の場合1
【▼四宮春菜は後輩の森山純に告白される。悩んだものの、春菜はそれを受け入れ二人は両想いになった】
――動揺した森山は、そこで一旦言葉を切った。
しばらく顔を伏せて考え込んでいたが、やがておずおずと顔を上げる。
「本当に……良いんですか」
「うん。私も……純君のことが、好きだから」
「――っ」
それを聞いた森山は、再び顔を真っ赤に染め上げた。
だがどこか安堵したように微笑むと、そっと春菜の手を手繰り寄せる。そのまま軽く顔を傾けると――春菜の口に唇を寄せた。
流れるような出来事に、春菜は一拍遅れて赤面する。
「な、何⁉」
「こちらこそよろしく、の意味です。……あ、と、あんまり顔見ないで下さい。俺、今すごく変な顔してる気がするんで……」
「す、するなら先に一言言ってくれても、心の準備、とか」
「断りを入れたらいいんですか? じゃあもう一回」
「い、いい、言わなくていいです!」
恥ずかしさが限界突破した春菜は、逃げるようにして空き教室を飛び出した。
残された森山はそんな春菜の様子を嬉しそうに眺める。無意識に固く握りしめていた手を開くと、ほっとしたように顔をほころばせた。
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【▼だが死神の契約にイレギュラーが発生。春菜は純の記憶はおろか、あらゆる思い出や知識をなくしていくのだった――】
――「予定が、変わりました」
「予定、って……どういう意味?」
「契約を結んだ当初、私は貴方に申し上げました。『一番大切な人の記憶だけは、残してあげましょう』と」
「う、うん……」
最初の契約の際、死神は確かにそう告げた。
だからいらない記憶、必要の無い記憶から選んでいけばいい、と。
「それだけでは、足りなくなりました」
深い海色の瞳が、春菜を静かに見つめていた。計略なのか、謝罪で言っているのか、死神の真意は掴めそうにない。
ただ、彼が何を言わんとしているかは理解出来た。
「この体を維持するため、貴方の知識や習慣、より多くの記憶を奪うように指示がありました」
「そんな……特定の人に対しての記憶だけだって……」
「……私もここまで状況が変わるとは思っていなかった。この数日で貴方の心は『ある一人』に大幅に占拠されている。その結果バランスが崩れ……元々の契約では無理が生じてしまった。今の貴方を維持するには、より多くの記憶を差し出さねばならない」
「今までよりって……」
「人に対する記憶はもちろん、知識や動作、習慣……下手をすれば自身の名前さえ忘れてしまうかもしれません。……そして既に、減り始めている」
私の力不足です、と死神は小さく呟く。
それを聞いた春菜は、頭を横に振った。
「いや、嫌だよ……もうこれ以上忘れるのは嫌! どうして、ねえ、どうしてこんな、ことに……」
混乱する春菜を落ち着かせるように、死神は窓の傍に降り立つと、そうっと春菜の頬に手を添えた。その暖かさに、春菜の目から知らず涙が零れる。
「本当に……申し訳ありません。私が……私はただ、貴方に生きていてほしいと……そう願ったばかりに」
やがて死神は、春菜の眦に残る雫を親指の腹でぬぐった。苦しそうな謝罪を最後にもう一度だけ零すと、死神は一つ、二つと羽ばたき緩慢な動作で夜空へと舞い戻る。
一人残された春菜は、視線を手元に落としたまま、ゆっくりと大切な人のことを思い浮かべる。父親、母親、友達、担任の先生、叔父さん叔母さん、そして――
覚えている名前を何度も何度も繰り返しながら、机に向かう。置かれていた薄い水色のノートを開くと、真っ白なページに彼らの名前を書き記した。
気を抜くと歪んでしまう視界の中、春菜は必死になって記憶を残そうとする。
(私は四宮春菜、歳は……)
だが限界が来たのか、急激な眠気が春菜を襲った。たまらず目を瞑ると、もやのように蠢く闇が広がっている。やがて春菜は、静かな寝息を立て始めた。
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――私は、四宮春菜。そして……
その日、春菜は無言で体を起こした。
外を見ると細かな霧雨が降っており、少し肌寒い。セーターを着こむと、いつものように階下へと向かう。
部屋の中には崩れた形のベッドといくつかのぬいぐるみ。病院で拾った黒い大きな羽根は、いつの間にかその姿を消していた。
「ちょっと春菜、何してるの」
「……え、何……?」
「お箸。三本も持ってどうするの?」
慌てて箸を置くと今度は「一本でどうやって食べるつもりなの」と笑われた。曖昧に笑みを浮かべる春菜だったが、実際はそんな日常的なあれこれすら、曖昧な記憶になっていたのだ。
記憶はすでに減り始めている、と死神は言っていた。それを裏付けるかのように、目覚めてからもずっと頭の中がぼんやりとしている。
少し気を抜くと、一瞬で真っ白に塗りつぶされてしまいそうな恐怖のなか、春菜は懸命に思考を続けた。
朝食を終えて部屋に戻ると、霧雨は本格的な雨に変わっていた。均一な雨だれの音を聞いていると、見る間に脳内がリセットされてしまいそうで、春菜は慌てて首を振る。
(だめ……忘れたくない、まだ、覚えていたいのに……)
その瞬間、誰かの姿が頭をよぎった。
金色に近い髪に、淡い茶色の瞳。照れるとすぐに耳が赤くなり、素直ではない言葉を紡ぐ――とまで思い出すが、それが誰のことであったか、春菜は思い出せない。
(どこで……そうだ、学校に行けば……)
確信はなかった。だがその誰かを知るヒントがありそうな気がして、春菜は慌ただしく家を飛び出し学校へと向かう。
水たまりを踏みつけながら歩いていくと、少し離れた場所に校舎の一角が見え始めた。
わずかにつけられた道路の傾斜が、排水溝へ溜まった水を押し流し、その流れに焦げ茶の枯葉が巻き込まれて消えていく。
(気持ち悪い……)
その時春菜はようやく、傘を忘れたことに気がついた。髪の毛を伝う雫が気持ち悪く、身体に服がぺたりと貼りつく。
だが取りに帰る時間はないと、そのまままっすぐ足を進めた。
正門。
周囲を取り囲むフェンスと広いグラウンド。何台かの車。
ようやくたどり着いた学校を前に、春菜は、あれ、と言葉を詰まらせる。
(ここ、どこだっけ……)
見覚えがある気がするのに思い出せない。どこかに向かっていたはずだったのに、ここがそうだったかどうかわからない。
(違う。忘れてるだけ、すぐに思い出すはず……)
ところで、どうして私は濡れているのだろう。
ああ、そうか、雨が降っているからだ。
すると、必死になって思い出そうとする春菜に、一人の女の子が話しかけてくる。
「春菜? どうしたのびしょびしょじゃん、傘は?」
「えっと、あの……」
親し気に話してくる女の子を前に、春菜は思わず一歩後ずさった。
誰だろう。春菜は私のことだけど、この人のことは――知らない。
「え、ちょ、どうしたの、春菜、あたしだって」
「ご、ごめんなさい……!」
まるで得体の知れない存在から話しかけられているような恐怖に、春菜は怯えるように踵を返した。
後ろでは先ほどの女の子が叫んでいるが、振り返ることなく走り続ける。ばしゃ、と足に泥水がかかり、髪の先から雨粒が跳ねる。
どうして私は濡れているのだろ、
あ、そうか、雨が降ってるから、
女の子の声が聞こえなくなるまで走り続けた春菜は、息を切らしながらようやく立ち止まった。水気を含んだ髪は重く、洋服の袖からもとめどなく水滴がしたたる。
家を出てからどのくらい経ったのだろうか。道行く対向車のライトは点灯し、どす黒い雲が空一面を覆いつくしている。
その間にも、春菜の記憶は確実に消失していた。
知識、そして感覚までをも鈍化させ、春菜の思考を奪っていく。
(わたし、なに、してるの?)
どうして、濡れて、
ああ、そうだ、雨が――
「――先輩!」
目の覚めるような声だった。
叩きつけるような雨音の中、その声だけが鮮明に春菜の耳に届く。震えながら振り返ると、傘を手にした少年が一人、息を切らしながらこちらに駆け寄ってきた。
「何しているんですか、……傘も、ささないで」
「あ、あの……」
「ほら、帰りますよ。こんなにずぶ濡れになって風邪でもひいたら……」
少し怒ったような顔つきで、少年は自分の持っていた傘を春菜にさし掛けた。ぱらぱらと布を弾く雨粒の音に顔を上げると、綺麗な色の瞳とぶつかる。
樹脂が長い年月をかけて地中で紡ぎ上げるという、蜂蜜のような深い琥珀色。だが今は燃えるような焦燥を滲ませていた。
「二年の先輩から連絡があって、四宮先輩の様子がおかしいって言うから、……俺、心配で」
なにげなく彼の肩を見ると、傘をさしていたはずなのに、ぐっしょりと濡れていた。連絡を受けてすぐに飛び出してきたのだろう。
「わたし、おかしい……?」
「ええ。どうしたんですかまったく。いいから戻りましょう」
そう言いながら少年は、春菜の手を握りしめた。だが春菜は弾かれるようにして彼の手を振り払う。その態度に、少年は大きく目を見開いた。
「先輩?」
「わたし、おかしくなんて、ないよ。おかしくなんてない」
頭上から降り注ぐ冷たい雨が、額を、頬を、首筋を撫でる。視界がどんどん黒く塗りつぶされていくのに、頭の中は白いペンキをぶちまけたかのようにまっさらになっていく。
(忘れたくない、忘れたくない……!)
待って。
でも私――何を忘れたくないの?
「違う……忘れてなんかない。おかしくなんかない、私は――」
とさ、という軽い音の後、視界の端に晴れた空色の傘が転がった。均等に張り巡らされた金属の骨が見え、コンクリートをこすりながら逆さまに落下する。
同時に春菜は、何か暖かいものに抱きしめられた。
(……?)
背中に回された腕や、頬に触れる感触。ごく近くで聞こえる息遣いから、人の腕の中にいることを春菜は理解した。
濡れて冷たい布越しに少年の体温が伝わり、そのじんわりとした熱さに驚く。華奢な見た目からは想像も出来ないほど、強く力を込められた。
「落ち着いてください、先輩。いったい何があったんですか」
「ごめん……やっぱりわたし、おかしいの。頭が真っ白になって、思い出せないの。全部」
鼻の奥がつん、と痛んだ。目の前にある胸板に顔を埋めると、どこか安心する匂いがする。濡れて歪になった春菜の髪を、少年は不慣れな様子で撫でた。その手の暖かさに、春菜はいよいよ涙を零す。
「……ごめん、ごめんね……」
「先輩? 大丈夫ですか、今から病院に」
刻限は訪れた。
最後のページに書かれた文字が、剥がれ落ちていく。
「ごめんね、純君。……私は、誰なの」
白紙。
春菜は消え入りそうに笑うと、そのままずるりと体勢を崩した。その体は尋常ではないほど発熱しており、少年はすぐさま救急へと連絡する。
弛緩し、支えきれなくなった春菜の身体を抱きしめるように、少年は膝をつき何度も彼女の名前を呼んだ。
だが春菜がそれに答えることはなかった。
甲高いサイレンの音が聞こえる。
そういえば、何で私は濡れているんだろう。
ああ、そうだ、雨が降っていたからだ。




