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[if.]春川直人の場合3



 それから春菜は、大変なリハビリをこなす日々を過ごすこととなった。

 以前の契約とは異なるためか、足や腕、関節まですべてが錆び付いた機械のように軋み、そのたびに悲鳴を上げそうな激痛が春菜を襲った。

 だが春菜は命を取り戻してくれた直人のためにも、早く元通りになりたいと必死に歯を食いしばる。

 しかし、リハビリ室に偶然顔を出した谷崎に見つかってしまい、春菜はあっと眉を寄せた。


「お前いい加減に休め。午前中もしてただろ」

「ご、ごめんなさい」


 渋々廊下に出ていくと、不満げな様子の谷崎から「ここに座れ」とばかりにソファを示される。春菜が申し訳なさそうに腰かけると、隣に谷崎がどかりと座り込んだ。


「あいつ、明日には退院だ」

「……うん」


 直人のことだ、とすぐに分かった。

 あの日以降、春菜は直人のもとを一度として訪れていない。それを知っているのか、谷崎は複雑な表情で背もたれに腕を乗せた。


「いいのか、このままで」

「うん。……直兄に、混乱させたくないし」

「そうか」


 頼りない笑みをなんとか浮かべた後、春菜は静かにうつむいた。そんな春菜を見て、谷崎はいつものように彼女の頭に手を乗せる。

 わしわしと乱暴に髪を混ぜた後「そういえば」と言葉を続けた。


「そういやあいつ、退院したら引っ越すらしい」

「え?」

「春から通学しやすいとこに行くらしい。しばらくは戻らないそうだ」

「……そっか」


 春菜はしばらく押し黙っていたが、やがてしっかりと顔を上げた。めをしばたかせる谷崎に向き直ると、ずっと考えていたことを口にする。


「先生――お願いがあります」





 数日後、ようやく病院から開放された直人は、引っ越しの準備を進めていた。


「さて、これで全部かな……」


 直人は物がほとんどなくなった自室を見回し、はあと息をついた。元々さほど家具の多い部屋ではなかったが、残されているのは机と本棚だけで、がらんとした空間が広がっている。

 やがて直人の母が顔を覗かせた。


「直人、先に大きい荷物だけ送っとくわね」

「うん、ありがとう」


 積み上げられていたいくつかのダンボールも、今はすべてトラックに運び出され、残るは身の回りのものと鞄くらい。

 しばらくここに戻らないことを思い出し、直人はつい感傷に浸った。


(……ここに戻るのは、いつになるだろう)


 本棚も教科書などの必要な書籍はあらかた抜き出されており、残っているのはアルバムだけだ。出立の時間まで少しある――と直人は、何気なしに一冊を手に取った。

 幼い頃の写真。

 幼稚園の服を着て、半泣きの顔で下を向いている。その隣にはお誕生日会の写真が並んでいた。


(若いなあ……あの頃は、まだそこまで嫌ではなかったな)


 次のページには田舎の祖父の家で撮った写真があり、それを見た直人はぴたりと動きを止めた。その写真には小学生の直人ともう一人――三歳ほどの女の子が写っている。

 何かトラブルがあったのだろうか。真っ赤になって泣いているその女の子を、幼い直人が必死に宥めているようだ。


「……誰だろう、この子……」


 最初は単に忘れているのだろう、と思った。だがその違和感は、直人の中で次第に膨らんでいく。

何故なら、その子がいる写真は一枚ではなかったからだ。


(……これも、これにも。……一体、誰なんだ?)


 先ほどの写真を皮切りに、次も、その次の写真にもその女の子が写り込んでいる。直人が中学生になった頃、彼女は小学生になっており――どこか柔らかい、幸せそうな笑顔の女の子に、直人は言いようのない不安に襲われた。

 直人は夢中でページをめくる。だがその手が、ある一ページで止まった。

 そこは大きな染みがあり、何故か写真の貼られていないページだった。染みはある一部分で綺麗に分断されており、元々はそこに写真が貼られていたのではないか、と容易に想像できる。


「……ここの写真って、もしかして……」


 直人は机の引出しを開けると、一通の封筒を取り出した。それは退院の日に谷崎から渡されたもので、中には一枚の写真と短い一文の書かれた便箋が入っている。

 写真には――大学生になった直人と一人の少女が映っていた。

 受け取った当初は退院の準備で慌ただしくて気づかなかったが――おそらくこの写真は元々、アルバムのこのページに貼られていたものだったのだろう。

 そして直人の隣に立つ少女は、今までの写真の女の子が成長した姿。

ただ困ったことに、彼女の顔の部分だけが滲んでおり、一緒に入っていた便箋を直人は慌てて読み返した。


『頑張ったけれど、少し跡が残ってしまいました。

ごめんなさい。これはお返しします』 


 直人は写真を手にとり、先ほどのページに合わせてみた。写真に残る斜めの跡と、ページについていた染みの境目が一致し、直人ははっきりと確信を得る。

 だが同時に、ぞくりとした寒気が背中を襲った。


(どうしてこの写真を、谷崎先生が……?)


 元々は直人のアルバムにあった――だとすれば、この写真の意味することは一体何なのだろうか。


(あの時確か先生は……『渡してくれと頼まれた』と言っていたはず……)


 頼まれた。それは『誰に』だ。

 谷崎ではないとすると一体誰が、この写真を持っていた?


 そこで直人はようやく、奇妙なことに気がついた。この写真では滲んでいてはっきりとは分からない――が、直人はこの少女とどこかで会っている気がしたのだ。

 誰だ、と記憶を手繰った時、病院で会った子のことを思い出す。


「でもあの子は、病院に入院しているだけで……」


 考えてみれば、どこかおかしかった。

 最初に出会った時も、まるで知り合いのように話しかけられたし、突然変なことも尋ねられた。あの時は、単純に彼女が悩んでいることを遠まわしに――参考程度のつもりで聞いたのだと思っていた。


 しかし本当は、『直人自身』に尋ねていたのではないか。


(……待ってくれ、何がどうなっている? でも僕は、本当にあの子を知らない……。もっと何か……そうだ、先生はあの時……)


 その瞬間、退院した日の谷崎の言葉が色鮮やかによみがえった。

 谷崎は封筒を手渡しながら、いつものように笑っていた。そして『忘れ物はないか?』と直人に聞いて来たのだ。

 荷物をほとんどまとめ終わっていた直人は、心配性だなあと笑いながら――『何も忘れていないですよ』と答えた。


(あれは……荷物のことではなかった……?)


 直人の頭の中が、掻き混ぜられたかのようにぐちゃぐちゃになる。

 病院で知り合った見知らぬ少女。

 谷崎の不可解な言動。

 残された写真。

 そして直人自身が知らぬうちに、無くなっていた一枚の写真。

 直人はそこでようやく、あの時の違和感の――本当の正体を知る。




(……いつ名前を名乗ったか、そこじゃなかった)


 直人が名乗る前から、彼女は自分の名前を知っていた。あの時はその奇妙さばかりに注目していたが、本当の違いはそこではなかったのだ。

 気づくべき違和――それは彼女が直人のことを、直人『さん』と呼んだことだった。


(――僕は、何を……誰かを忘れているの、か?)


 記憶ではない。ただ何十、何百と体が聞き馴染んでいる音の残滓。


 『さん』ではなかった。

 ならば彼女は僕を何と呼んでいた?

 ――そして僕は、あの子を何と呼んでいた?









「じゃあ行って来るね」

「気をつけなさいよ、入学式に遅刻じゃ大学中の笑いものよ」


 はあい、と間延びした返事と共に、スーツを着た春菜は家を出た。バス停までの道なりには、満開の桜が咲き誇りその花弁を散らしている。

 あの事故の日から二年が経った。

 春菜のリハビリも順調に終わり、現在は指にわずかな麻痺を残すだけで、普段の生活には支障がないまでに回復した。

 復学後、春菜は今までの進路を変更し、心療系の勉強をするため国立の大学を目指した――結果、無事こうして入学に至る。

 その大学は、くしくも直人が通っていたのと同じ大学だ。


(直兄のために、何が出来る訳ではないかもしれない。……それでも)


 この道を選んだのは、ただ一人のため。

 緩やかな下りになった道を進んでいると、こちらへ向かって上って来る男性の姿が目に入った。歳は二十の中頃だろうか。色素の薄い髪と目で、人目を引く美形だ。

 彼の存在に気づいた春菜は、一瞬だけ顔を強張らせた。だが声をかけることも、目で追うこともせず、出来る限り自然にすれ違う。

 それはほんの一瞬、桜の花びらが地面に落ちるそれだけの間。


 男性もまた、振り返ることもなく前を向いていた。二人はそのまますれ違い――春菜はためらいがちに、静かに目を瞑る。

 だかその闇を払うように、背後から聞き慣れた声が飛んで来た。


「――ただいま」


 空耳だ、と春菜は耳を疑った。立ち止まることなく足を進めようとする。

 そんな春菜に向けて、二度目の言葉が届いた。


「ただいま、春菜」


 思わず、振り向いてしまった。

 大きく見開いた春菜の目には、視界を覆うほどの桜吹雪が舞っている。その幻想的な光景の中で彼は――直人は春菜を見て、笑った。


「おかえり、とは言ってくれないのかな」

「え、ええと、え?」

「帰ってきたんだよ」


 そう言うと直人は、春菜に近づきその手をとった。以前よりもさらにしっかりとした男性の手。それでも春菜の知る直人の手だった。

 理解が追い付かない春菜は、しどろもどろになって言葉を探す。


「お、おかえりなさい……じゃなくて、もしかして……私を、思い出したんですか?」


 覚えているはずはない。

 万一契約を解除していたとすれば、春菜の魂はここにはないはずだから。ならば何故、直人は春菜の名前を呼んだのか。

 すると直人の口から零れた答えは、実に意外なものであった。


「ううん、全然」

「え?」

「実は今、ものすごく緊張してる。本当は『はじめまして』と言いたいくらいなんだけど……僕は君のことを知っている」


 今度は春菜が分からなくなる番だった。

 その困惑した顔を前に、直人はええと、と苦笑する。


「今の僕の中に、君の記憶はない。思い出したわけでもない。ただ――覚えたんだ。残っていた写真や手紙に何度も目を通した。自分の日記も君に関わるところをすべて探し出した。そうやって君の事を……少しずつ『覚えた』んだ」


 直人はそう言いながら、春菜の髪に手を伸ばした。春菜の髪に乗っていた花びらをつまむと、風に乗せるようにはらりと離す。


「名前は四宮春菜。好きなものはチョコレートのケーキと猫。嫌いなものは狭いところ。小さい時、体が弱くて何度も入院していた」


 綿々と続く、それらはすべて春菜のことだった。記憶のページをひとつひとつめくるように、昔の思い出が色鮮やかに蘇る。


「幼稚園はゆり組。小学校では臨海学校に風邪を引いて出られなくて泣いてた。中学の部活は吹奏楽部で担当はクラリネット。あと修学旅行で京都のちょうちんを買ってきてくれた。それから……」

「ま、まだ覚えているの?」

「高校生のとき、文芸部の作品で賞を取っていた。髪の毛が柔らかくて、雨の日は嫌だといつも悲しそうだった……明るくて、負けず嫌いで、少し泣き虫な女の子。……それが今の僕が覚えている、全部だ」

「全部、覚え直して、くれたの?」

「そう。足りない記憶が何かもわからない。だから必死で覚えた。君を心から大切にしていた、昔の『春川直人』の残したものを頼りにして」


 直人を慕ってくれていたという、幼馴染の女の子。

 以前の日記を見る限り、それはもう親のように心配している描写が散見され、相当過保護な昔の自分の様子に、直人は一人苦笑した。

 写真を見ても、それがいつのものかは一切思い出せない。それでも彼女の笑顔を見るだけで、この膨大な記憶作業も乗り越えられる気がした。

 でも、と直人は口角を上げる。


「……やっぱり覚えているだけだから、昔の僕とは少しだけ違うみたいだ」

「え?」

「記憶している間ずっと、僕は君に再会した時、どんな感情を抱くんだろうかと疑問に思っていた。まったく知らない子なのに、会いたくて、会いたくて仕方がなくて……。過去の自分があれだけ大切にしていた子がどんな子か――その時僕は、以前と同じような気持ちを抱けるのか」

「同じ気持ち、と言いますと……」

「家族のような気持ちなのか。保護者気取りなのか。……でも違った。もしかしたら昔の僕も、こう思っていたのかもしれないな」


 すると直人は、春菜の身体を引き寄せると、自身の腕の中に収めた。

 突然のことに春菜は動揺し、耳まで真っ赤に染め上げる。なんとか逃れようと試みるが、直人が力を緩める気配はない。

 そんな春菜の耳元に、直人は優しく語りかけた。


「昔の僕は、きっと言い出せなかったんだ」

「……な、何を?」

「……君のことが好きだと。今までの関係性を失うことが怖くて、伝えられなかったんだろう。でも今の僕は違う。だって君と会ったのは、今日が初めてだから」


 春一番のような強い風が吹き、白い花弁が舞い上がる。驚きに言葉を失う春菜をからかうように、直人はようやく体を離した。


「というわけで、またよろしくね。春菜」

「……な、直兄、私の、名前……」

「うん。今の僕は、君の知っている『直兄』じゃないからね。これからは、ただの異性として接してもらえると嬉しいかな」

「異性って、あ、あの⁉」


 失われた記憶は戻らない。

 自分もあの頃の自分ではない。

 だから――


「直兄ではない『春川直人』として、君と新しい思い出を作りたいです」


 風に巻き上げられた桜が、はらりと頭上に降り注ぐ。

 それはまるで春の雪解けのように。

 止まっていた時間が、再び動き始める。



【春川編 了】



こう読むと分かりやすいですが、家に行って写真を回収するかどうかが、エンディング分岐になっていました。

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