主人公、死亡
黒い。
一点の光も無い、純粋な闇。
体が動かない。違う、動かせない。
(あーあ、これはもう無理ですねえ)
頭の中に心地よい低音が響く。
聞いたことの無い、のんきな声。
(頭蓋骨陥没、肋骨八割損傷、出血多量。これは確実に死んでますねえ)
死んでる? 誰が? ……私が?
意識がうまく巡らないまま、四肢に力を入れてみるがぴくりともしない。それどころか手足があった感覚すら無い。ただ声だけが聞こえて来る。
(取引しますか? 私と)
取引?
(端的に聞きます、貴方を生き返らせてあげましょうか?)
……生き返る?
それはつまり、死なないですむと言うこと?
(ええ、但し貴方の記憶を代償に)
私の……記憶?
(詳しい話は後です。急がなければ間に合わなくなりますよ?)
……よく分からないけど、私、死にたくない。死にたくないよ。お願い、助けて。
(……よく出来ました。取引は成立です。詳しい説明はまた、後日)
短く笑う声が聞こえ、大きな鳥が飛び立つような音が耳元をかすめた。
次の瞬間、心臓がとくんと拍打つ。
動脈を通じて、四肢に、指に、首筋に液体がなだれ込む。鼻と口と皮膚を介して、酸素を取り込もうと胸郭が活動を始める。
自分に確かな質感が戻ってくる。
重い、体の感触。
待って、貴方は、……誰なの?
(私の名は……『死神』です。お見知りおきを)
遠いような近いような場所で聞こえたそれを最後に――暗い闇は晴れた。
均一な電子音。口元には変な覆いがしてあって動きにくい。うっすら開けた視界にはまだもやがかかっていて、何かの影があることしか認識できなかった。
「――春菜さん、聞こえますか、春菜さん」
「春菜、お母さんよ、分かる?」
肩、腕、関節と段々感覚が蘇り、それに伴って不鮮明であった影がはっきりと形をなし始める。左に眼球を動かすと、母と名乗る女性と、同じくらいの年頃の男性の姿。右に視線をずらすと、彼らより随分若い青年が二人、不安げにこちらを見ている。
一人は淡い茶色の髪に、グリーンの混じるブラウンアイ。ハーフのような綺麗な顔で、全体的に色素が薄いせいか、男性なのに『綺麗だ』と口にしそうになる美しさがある。
もう一人は医師のようで、白衣のポケットから聴診器の管が覗いていた。真っ黒い髪に不思議な色合いの黒い瞳をしており、隣の彼と並ぶとまるで天使と悪魔のような対比である。
(お母さん、お父さん……それに直兄……と、谷崎、先生……)
ぼんやりした記憶の中から、春菜は彼らの名前を思い出す。すると直兄――春川直人が恐る恐る口を開いた。続けて父親も春菜の名前を呼ぶ。
「春ちゃん、痛いところは?」
「喋れるか、春菜」
乾燥した唇をゆっくりと開く。まるで今日初めて喋る幼児のように、春菜は声帯の使い方を思い出していた。息を震わせ、言葉を紡ぐ。
「お、かぁ、さ……」
「春菜……!」
春菜の口から零れた掠れ声を聞き、母親はベッドの傍で泣き崩れた。それを目にした春菜は、そのまま視線を動かし、他の三人にも微笑みかける。
「ぉとうさ………直、にぃ……、せんせ、い……」
「――大丈夫だよ、春ちゃん。無理に喋らなくていいから……今はゆっくり休んで?」
そう言いながら、直人は泣き笑いのような顔つきで、優しく春菜の髪を撫でてくれた。視界の端では父親が母親の肩を抱いたまま、嬉し涙を滲ませている。
直人が触れた部分にはガーゼが貼られており、それ以外にも両腕、鎖骨から胸にかけて白い包帯で包まれていた。全身を見たわけではないが、きっと他にも怪我をしているのだろう。
すると春菜の疑問を晴らすかのように、谷崎医師が口を開いた。
「本当に奇跡的です。全身にあれだけの損傷がありながら、……これはもうお嬢さんの生命力のおかげとしか言えないですね」
波打つ心電図と脈を確認すると、谷崎は春菜に向かって軽く微笑んだ。その大きな手が春菜の額に伸びてきて、思わずそっと目を瞑る。
暖かくて安心する。いつまでも彼女を子ども扱いする谷崎の手。
「……谷崎、せんせ い……」
「……良かったよ、本当に。しばらく体力は戻らないだろうから、ゆっくり寝ろ」
春菜はわずかに頷くと再び目を閉じた。
鮮烈な色彩の世界から、暗く蠢く暗闇へと引き戻される。先ほどまでの黒とは違う――確かな体の感覚が宿る意識の中、春菜はふと疑問を覚えた。
(一体私に何があったの……もしかして本当に……生き返った、の?)
あの得体の知れない声。鷲のような大きな羽音。
そして『取引』だと彼は言った。
(あれは一体、何だったの……)
思い出さなければ、と春菜は必死に記憶を手繰る。だが全身を包む泥のような疲労に、いつしか深い眠りに落ちていった。
次に春菜が目覚めた時、まる一日が経過していた。
激しい痛みを走らせていた体は随分と軽くなり、以前のような緊張もなかった。呼吸もすっかり楽になっており、以前より格段に回復したのが分かる。
春菜は改めて周囲を見回した。
紛れもない病院の一室。傍らの機械には、春菜の心電図や生きるのに必要なさまざまな数値が無機質に表示されている。頭上からは、透明な色をした点滴液がぽつり、ぽつりと管を流れ落ちていた。
窓の外からは子どもたちの笑い声が聞こえ、白いカーテン越しに穏やかな陽光が差し込んでいる。すると斜め向かいにあった病室のドアが静かに開いた。
控えめに開かれた扉の向こうから、直人が顔を覗かせる。
「あ、ごめん。起こしちゃったかな」
「直兄……ううん。今ちょうど目が覚めたところ」
「谷崎先生に聞いたら、少しなら話してもいいって」
そう言って直人は微笑むと、丸椅子をベッドの傍に引き寄せ腰掛けた。見上げるようなアングルが居心地悪く、リモコンで春菜もベッドを起こす。
彼――春川直人は春菜の幼馴染だ。
と言っても年はだいぶ離れており、兄と妹のような不思議な関係が続いている。
全体的に色素の薄い彼は、白い病室を背景にすると、とても繊細な一枚の絵画のようだった。日本人離れした髪や瞳はとても美しく、検事になるために通っている大学でも相当モテると聞いたことがある。
だが不思議なことに、直人は誰とも付き合おうとはしなかった。
一度『どうして彼女を作らないのか』と聞いたところ、『だって僕は春ちゃんが一番大切だから』と笑顔で返されてしまった。
もちろん冗談だと分かっているのだが、何だか恥ずかしくなってしまい、それ以上この手の話題を出さないようにしたものだ。
「どう、体の調子は」
「うん……もう大丈夫みたい。痛いところも無いし、ちょっと動き回りたいくらい」
「そっか。良かった」
すると体の前に置いていた春菜の片手に、直人が自身の手を重ねてきた。少し震えていることに気づいたが、春菜はそのまま口を閉じる。
「……本当に、本当に良かった……。ここに運ばれて来た時は、春ちゃん、息もしてなくて、全身の部品がばらばらになっているような状態で、僕が呼んでも……なんの返事も、なく、て……」
「……直兄」
「あのまま、いなくなってしまうんじゃないかって、本当に……」
「大丈夫だよ。私、ちゃんと生きてる」
「うん……」
乗せられていた手に、春菜はそっと自分の手を重ねた。温かい、でもしっかりとした男の人の手。はあ、とようやく安堵したように直人がため息を零すのを見て、春菜は思わず笑みを漏らした。
だが穏やかな時間は、軽快なノックの音で破られる。