[if.]春川直人の場合2
車いすを階下に残し、春菜は屋上へ続く長い階段をゆっくりと上っていた。重い鉄の扉を開けると、白いシーツやカバーが優雅に煽られる光景が広がっている。
すっかり冬の様相になった灰色の空を見つめながら、手すりを握りしめた。
「――死神。あなたの力なの?」
振り向かず、自分の背後にいる気配に声をかける。
何も応答はなかったが、春菜は構わず話を続けた。
「私を助けるために、直兄を」
「違います。これは『春川直人』が望んだことです」
ようやく帰ってきた返事に、春菜はすぐに振り返った。
白いシーツの波を背景に、銀髪の青年が立っている。病院に行くには明らかに不釣合いな黒いコートを着ており、そこだけ切り取られたような違和感があった。
「貴方が飛び降りたことで、契約は強制的に破棄されました。貴方の命がなくなったことを確認して、私は今まで奪った記憶をすべて戻した……そこに彼が現れたんです」
「……」
「彼――春川直人は、貴方の死亡を確認すると『自分を代わりにしてくれ』と強く願った。だから私は……貴方の時のように『記憶』を対価にする契約を持ちかけました」
・
・
・
「本当によろしいのですか。次に目が覚めた時貴方は――『彼女のことだけ』を、完全に忘れてしまうのですよ?」
「構わない。この子が……春ちゃんが、生きてさえいてくれたら」
「……分かりました。契約者『春川直人』。送還法特例措置契約に関して、対象者『四宮春菜』の肉体と魂を残存させる。その代償として、自身の中の『対象者に関する記憶』の一切を失うものとする――相違ありませんか?」
死神は大きく手を広げると、直人の額を覆うように掴んだ。綺麗な色の瞳が隠され、瞬きをするたび、死神の手のひらに長いまつげが触れる。
「うん。……ああ、出来れば一つだけ」
「何ですか」
「これが終わったら病院に連絡をしてほしい。このまま放置されたら、せっかく助けた意味がなくなりそうだから」
「……承知しました」
やがて春川は短く呻いた後、その場に膝をついた。ばしゃんと泥水を弾きながら、春菜の隣に倒れ込む。
死神は地面に伏せったままの二人をしばらく眺めていたが、やがて水溜りを踏みつけながら、どこかへ立ち去った。
その途中、黒い端末を取り出すと手早くボタンを押す。
「……人が倒れている。人数は二人。場所は……」
・
・
・
「ま、待って、私との契約では、複数の人の記憶を代償にしたはず……」
「本来はそれが普通です。記憶と魂は近しいものではありますが、一つの魂を救うためには、相当量の記憶が必要となる」
「じゃあどうして……私だけの、一人分の記憶だけで直兄は契約出来たの?」
「一つは、彼が他人というところにあります。自分自身の記憶ではなく、人のために自分の記憶を引き渡したという点。それは相当の対価として上乗せされる。そしてもう一つ……彼の有していた『四宮春菜』の記憶が、他の人物に対する記憶のどれよりも、大きかったからです」
「私の記憶、が?」
「彼の心をもっとも占めている――一番大切な記憶を、人のために差し出した。その条件が揃ったため、貴方は蘇ることが出来たのです」
「直兄が、私の、ことを……」
「……まあ今となっては、契約したことすら彼の中には残ってはいませんがね。これは貴方の短慮の結果だ。もう二度と、命を無駄にはしないことです」
そう言うと死神は優雅な黒い翼を広げた。
ふわりと浮き上がる死神を、春菜は慌てて呼び止める。
「待って! 契約を取り消すことは出来ないの?」
「出来ません。私の契約者は、もう貴方ではない――春川直人の意思なき所で、契約の解除は行えない」
死神はその海色の目を細めると、ニ、三度力強く羽ばたいた後、厚い雲の向こうへ飛び去った。ひらりと落ちてきた羽根を、春菜は必死につかみ取る。だがすぐにぼろりとした砂状になって、さらさらと風に吞まれていった。
(私の……私の、せいだ……!)
春菜はその場にへたり込むと、顔を両手でがしりと覆った。
全身が痛い。
でも一番痛い場所は、体の中心。
その背中は声もなく震えており、指の隙間から静かに涙が伝い落ちた。
真っ赤に腫れた瞼をごまかしながら、春菜は再び直人の病室へ向かった。穏やかな夕暮れの中、先程と変わらぬ様子で直人がベッドに座っている。
「あ、あの」
「? ああ、さっきの」
今度は少しだけ笑顔を向けられた。
それでも、以前の直人とは明らかに違う。
「さっきは突然、すみませんでした。その、少し……知り合いに似ていたもので」
「そうなんだ。その人もここに入院しているのかな」
「は、はい。そう、です」
他人行儀な会話はすぐに終わり、気まずい沈黙だけが残った。春菜はどこかに以前の直人を取り戻せはしまいかと、懸命に言葉を探す。
「あの、もしも、もしもの話なんですが……直人、さんの、親しい人が危険な状態だったら、その……助けたい、と思うでしょうか」
「突然、変なことを聞くね。でもそうだな……出来る限りのことは、してあげたいと思うだろうな」
「それが自分自身を危険に晒すことであっても、ですか?」
「はは、難しいね。そんな重大な選択、迫られたことがないからな……でもその人が本当に、自分の命より大切な人だったら……そっちを選ぶかもしれないね」
それを聞いた瞬間、春菜は身を強張らせた。
本当に、直人は忘れてしまっている。だが悲しいかな、すべてを失ってもなお――直人のままだ。
直人自身は何も変わっていないことが嬉しくて、同時にひどく悲しくなる。
すると押し黙ってしまった春菜を前に、彼は「そういえば」と言葉を続けた。
「自己犠牲……というわけじゃないけど、聞いたことあるかな『踊り虫の話』」
「は、はい。何度か読んだことがあります」
「昔、よく読んでいたんだ……『――ある一匹の虫がいました。その虫は色も地味で体も小さく、とても醜い姿をしていました……」
小さい子に言い聞かせるように、直人はある物語を話し始めた。
それは春菜が小さい頃、よく彼から聞いていた昔話。醜い虫が神様に喜んで欲しくて、一生懸命踊り続けた結果、最期には死んでしまう。そんな悲しいお話だ。
『虫は神様が大好きでした。大好きな神様に何とか喜んで欲しくて、虫は一生懸命踊りました。自分の身体がボロボロになるのも構わず、踊りつづけました。神様は虫の滑稽な踊りをとても気に入ります』
「……」
『しかし、小さい体で無理をしたのか虫は倒れてしまいました。その姿を見た神様は虫を褒め称えます。嬉しそうな神様を見て虫は思いました。「神様が笑ってくださった。神様が、私を見てくださった」……そうして、虫は静かに息を引き取ったのです』
「……悲しい、お話ですよね」
「そうだね……でも僕は好きなんだ。虫は確かに死んでしまったけれど、それでも本当に嬉しかったと思うから」
神様が笑ってくださった。
ただそれだけが見たくて、一人踊りつづけた。
「さっきの質問と一緒だよ。僕は大切な誰かが笑ってくれるなら、きっと踊ると思う」
大好きな神様。
貴方が笑ってくださるのなら。
その瞬間、押しとどめていたはずの涙が、春菜の目からぼろりと零れ落ちた。気づいた直人は驚いたように目を見開き、わたわたと取り乱す。
「ご、ごめん。そういう話じゃなかったね」
「ち、違うんです。これはその、ちょっと、思い出しただけで……」
変なことを聞いてすみません、と春菜はそれだけを何とか伝えると、顔を隠しながら直人の前から立ち去った。
夕食の時間が終わった頃、谷崎は直人の病室を訪れた。
「春川」
「あ、谷崎先生。回診は終わったんですか?」
「まあな」
傍目にはどこも変わったところはない。だが以前記憶障害の原因は分からず、治りそうな兆候も見られない。谷崎の脳裏にはすでに、最悪の結末も浮かんでいた。
すると直人が何かを思い出したかのように呟く。
「夕方、またあの子が来ました」
「誰だ?」
「昼間、先生と一緒に来た女の子」
それが誰のことを指すのか、谷崎はすぐに理解した。
だが期待しているような続きは得られない。
「ここで入院している子ですか?」
「……ま、そんなもんだ」
「なんだか、とても落ち込んでいるみたいでした。変なことも聞かれたし」
「変なこと?」
「大切な人が危険な時、どうやってでも助けたいと思うか、って」
質問の意図は図りかねたが、春菜がなんとかして直人と接点を持とうとしていることは容易に想像できた。その光景を想像した谷崎は、苛立ちと煮え切らない思いがない交ぜになった複雑な表情を滲ませる。
「それで、お前はなんて答えたんだ」
「助ける、って言いました。そうしたらその、泣かせて、しまって……だから」
「俺に謝っといて欲しいってか」
「……お願いします」
わかったよ、と谷崎が答えると、直人はわかりやすく安堵を浮かべた。
人の機微に敏感で、自分よりも他人の心情を大切にする。直人の持つ生来の優しさは、事故の後も何も変わってはいない。
ただ――一身に捧げていた相手を、忘れているだけだ。
谷崎はそれ以上何も言うことなく、静かにその場を離れた。
一人きりになった病室で、直人はぼんやりと窓の外を眺めていた。空には月も星もなく、ただ吸い込まれそうな暗闇だけが広がっている。
たいして眠たくはないが、消灯の時間も過ぎている――と直人はそっとベッドに横たわった。何度か寝返りをうっていると、夕方に再会した女の子のことを思い出す。
可愛い子だった。
ただ全身に酷い怪我をしていたのが痛々しく、直人は一人で歩いていて大丈夫なのだろうかと不安になったものだ。
そんな彼女は奇妙な質問を直人に投げかけた後、泣き出してそのまま去ってしまった。自分の発言が、彼女を傷つけたのだとしたら申し訳なかった……と思う反面、直人はどこか違和感を覚える。
そしてようやく、その正体に気づいた。
(僕は……一体いつ、名乗ったんだろう……)
あの子は僕のことを『直人さん』と呼んだ。
どこで自分の名前を知ったのだろう。だがそれ以上に、彼女の口からその言葉が出ることに、どうしようもないほどの不自然さがある。
(直人さん……僕は、そんな呼び方を、されていただろうか……)
それは、ほんのわずかな波紋だった。




