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[if.]春川直人の場合1



【▼あなたは紅野の名を呼ばず、自身が残した一人を選んだ】



 春菜は開けていた唇を、静かに引き結んだ。


(やめよう……前世の記憶と今の私は、関係ない)


 死神が前世の春菜と知り合いだったとしても、それは今を生きる春菜とは、関わりのないことだ。何より断片的に垣間見えていた記憶の中には――春菜の死に、彼が関わっていたようなものもあった。

 もうこれ以上、彼の思うようにはなりたくない。


「ごめん。何でもない。……これで最後、だったよね」

「はい。これが、最後です」


 すると死神は、静かに言葉を紡いだ。


「私は以前、貴方に申し上げました。『一番大切な人の記憶だけは、残してあげましょう』と」

「……うん」


 最初の契約の際、死神は確かにそう告げた。

 だからいらない記憶、必要の無い記憶から選んでいけばいい、と。


「その約束が……少々、守れそうにありません」


 深い海色の瞳が、春菜を静かに見つめていた。計略なのか、謝罪で言っているのか、死神の真意は掴めそうにない。

 ただ、彼が何を言わんとしているかは理解出来た。


「私は直兄のことも、忘れてしまうのね」

「契約を結んだ時点では、貴方の持つ記憶に明確な序列は存在していなかった。ですがこの数日で状況が変わった。具体的に言うならば……貴方の心を占める割合が、特定の一人に傾いている」


 春菜の頭に、直人の顔が浮かんだ。優しい幼馴染は、たとえ春菜が忘れたとしても怒ることなどしないかもしれない。むしろ春菜以上に、こちらの安否を心配してくれるのだろう。


(でも私……直兄に、これ以上迷惑をかけたくない……)


 自分の夢に向かって、真っ直ぐ前を向いていてほしい。

 そのために春菜が出来ることは――たった一つ。


「もし、……どうしても忘れたくないって言ったらどうなるの?」


 春菜の問いかけに、死神はわずかに眉を寄せたまま、ぽつりと答えを提示した。


「私との『契約』を破棄すれば、記憶はすべて戻ります」

「……」

「ですがそれは『貴方の死』を意味します。記憶が残ったとしても、貴方は――」

「やっぱり、そうだよね……」


 やがて死神ははあ、とため息をつくと、ばさりと短い羽音を立てながら、春菜の元まで高度を落とした。窓の枠に手を掛け、膝をつく。


「契約条件の変更に際するお詫び……というわけではありませんが、最後の記憶を消すのは明日の深夜零時にいたします。といっても、猶予は一日だけですが」

「一日、だけ」

「それを過ぎれば、貴方は私のことも、『彼』のことも全て忘れる……いいですね?」

「……うん」


 ためらいがちに頷いた春菜を見て、死神はかすかに表情を陰らせた。だが契約を達するためか、春菜の顎を引き寄せるとそっと触れるだけの口付けを落とす。

 それを最後に死神は二、三度羽ばたき、空高く消えていった。黒く美しいその姿を見届けると、春菜は窓を閉め、のそのそとベッドに横になる。


(あと一日。私は……)


 目を瞑ると、もやのように蠢く闇が広がる。その安寧に取り込まれるように、春菜はいつしか静かな寝息を立て始めていた。






――初めから、こうすれば良かったのかもしれない。


 その日、春菜はこれまでにない晴れやかな気持ちで目を覚ました。外を見ると、細かな霧雨が降っており少し肌寒い。

 セーターを着こむと、いつものように階下へと向かう。部屋の中には崩れた形のベッドといくつかのぬいぐるみ。

 病院で拾った黒い大きな羽根は、いつの間にかその姿を消していた。


「ねえ、お母さん」

「なあに? もういいから早く食べなさい」


 朗らかな母親の返事に顔をほころばせながら、最後の朝食を口に運ぶ。


「今まで、ありがとう」

「ちょっとどうしたの、突然」

「……なんでもない。ただ、どうしても伝えたくて」


 口元に奇妙な笑顔を残したまま、春菜は口をつぐんだ。

 それ以上、何も言うことが出来なかった。



 朝食を終え部屋に戻った春菜は、ベッドや本棚、机の周りを隅々まで整頓した。それが終わると今度は机に向かい、ひたすら手紙を書く。あて名は直人にはじまり、母親、父親、友人と一人一人に向けたものだ。

 いままでの感謝。謝罪。それは――遺書だった。

 予定よりも多くなってしまった手紙のすべてに封をし、机の上に丁寧に並べる。やがてゆっくりと立ち上がると、春菜は静かに部屋を後にした。


 外は相変わらず冷たい雨が降っている。朝よりも勢いが増しており、じき本降りになりそうだ。春菜は傘を差したまま、ある場所を目指して歩く。不思議なことに手も足も震えておらず、心はひどく落ち着いていた。


(大丈夫。まだ……直兄のこと、覚えてる)


 そうしてたどり着いたのは、学校の裏にある高台だった。

 普段からあまり人がおらず、小さな東屋があるだけの寂しい場所で、下は急激な傾斜になっている。

 天気が良ければ街が一望できるのだが、今のこの天気ではぼんやりとした風景しか見られなかった。


「ここで、私は……」


 母親に確認した、春菜が事故に遭った場所。

 展望台の傍に立つと、春菜は崖下を覗き込んだ。傾いた傘から水滴が流れ落ち、遥か下の茂みへと吸い込まれていく。

 なるほど、この高さから落ちれば――普通なら、間違いなく助からないだろう。


(……私が生き返ったから、おかしくなった)


 自然の摂理を捻じ曲げて、ここに存在したいと願ってしまった。

 そのおかげで春菜は、直人に対する気持ちに気づくことが出来た――同時に、直人を傷つけてしまうことにも。


「ごめん……ごめんなさい、直兄……」


 雨の雫か、自身の涙なのか分からない。絞り出すように呟いた時、背後に人の気配を感じた。慌てて振り返ると、そこには直人が立っている。


「何、してるの。春ちゃん」

「……直兄」


 驚いたことに、直人は傘も差さないままだった。怒っているのか、悲しんでいるのか分からない表情で、春菜をじっと見つめている。


「どうしてここに……ここが、分かったの」

「春ちゃんが家から出て来たのを見かけて……何だか様子がおかしかったから、追いかけてきたんだよ。大丈夫? 何かあった?」


 優しい直人の言葉に、春菜はさらに涙を滲ませた。

 直人はいつでも春菜のことばかり。スーパーマンみたいにすぐに助けに来てくれて、春菜のことを一番に大切にしてくれる。そんな人だから――好きになってしまった。

 ごまかすことは出来ない、と春菜はそろそろと口を開く。


「直兄、私ね……記憶がなくなっているの。あの事故から、ずっと」

「記憶? 待って、それはどういう……」

「事故の時に『契約』したの。生き返らせてもらう代わりに、私の記憶をあげるって」


 真実と思ってもらえるだろうか。春菜自身、心の中で苦笑する。


「生き返らせてって……でも春ちゃんはちゃんと」

「一度、心臓は止まっていたの。でも生きたくて契約した。……でも間違ってた」


 突然の告白に、直人は完全に言葉を失っているようだった。

 そんな彼を前に、春菜は静かに思いを告げる。


「私、直兄のことが好き」

「……春ちゃん?」

「でも私、直兄のことも忘れてしまう。一番好きな人の、ことまで忘れて……直兄に『あなた、誰ですか』なんて、言いたく、ない……」


 春菜の精神は、とうに限界を迎えていた。

 言われた直人は、とにかく春菜を宥めようと、少しずつこちらに歩み寄る。


「落ち着いて、春ちゃん。きっと、何か方法が」

「ごめん直兄。私もう、これしか思いつかない」


 すると春菜は直人に背を向け、そのまま手すりの向こう側に身を投げた。

 直人は持っていた傘を放り投げ、慌てて手すりを掴むと大きく身を乗り出す。眼下には断崖と鬱蒼と茂る樹木が広がるばかりで、春菜が落ちた場所すら視認出来ない。


「春ちゃん‼」


 雨で服が肌に張り付く。

 直人は目を大きく見開いたまま、虚空に向かって叫んだ。




 黒い。一点の光も無い、純粋な闇。

 体が動かない。違う、動かせない。


(……春菜)


 頭の中に心地よい低音が響く。

 聞いたことのある、優しい声。


(なあ、一体どうなってるんだ。お前の次は直人まで……)


 直人……聞き覚えのある名前。そうだ、確か。




「……直、兄」


 春菜の口から音が紡がれる。

 それを起爆剤としたかのように、一気に肺に酸素が送り込まれた。みるみるうちに全身に生気が宿り、春菜は意識を取り戻す。

 以前も一度、春菜はこうして目覚めたことがあった。

 だが今回は、その何倍もの痛みが全身を苛む。



 うっすらと開かれた視界に、若草色のカーテンと白いベッドが映り込んだ。

 点滴に繋がれた腕、何重にも包帯を巻かれた足が、自分のものだと春菜はようやく気付く。目を左に動かすと、谷崎がこちらを覗き込んでいた。


「ここは……」

「春菜⁉ 良かった、目を覚ましたのか……。ここは病院。そしてお前は四宮、四宮春菜だ。分かるか?」

「谷崎、先生?」


 その言葉に、谷崎は弾かれたように目を見開く。


「……お前、今、なんて?」

「谷崎、先生……ですよね?」


 春菜が再度繰り返すと、谷崎は見て分かるほどに安堵した。長らく会えなかった友人に再会したかのように、穏やかな笑顔を浮かべる。


「衝撃で俺のことを思い出したのか? まあいい。とにかく助かって良かったよ」

「助かった? 私、どうして……」

「それはこっちが聞きたいくらいだ」


 そう言うと谷崎は、春菜が運び込まれた時の状況や怪我の度合いについて、簡単に説明してくれた。

 どうやら春菜が飛び降りてからすぐ、匿名で救急に連絡が入ったらしい。以前と同じ事故の状況から、生存は二分――それよりはるかに低い、と谷崎は絶望したそうだ。

 だが病院に搬送されたところ、春菜の傷はどれも致命傷ではなかった。だがあくまでも生命に直結しないというだけで、本当に奇跡的な状態だったという。

 以前と酷似した結果に、春菜の心臓はどくんと音を立てた。その直後、おぼろげながら谷崎が口にした言葉を思い出す。


「せ、先生! 直兄は? さっき『お前の次は直人まで』って……」


 すると谷崎は、すぐに表情を曇らせ口をつぐんだ。

 嫌な予感がする。


「先生。直兄はどこにいるの?」

「……うちの病院だ。だが……」


 それを聞いた春菜は、がばりと体を起こすと、裸足のままベッドから立ち上がった。衝撃で傷ついた関節がびきりと音を立て、同時に肋骨が肺を締め付ける。


「――ッ」


痛い。でも早く――早く直人のところに行かなければ。


「馬鹿! いいからしばらく寝て……」

「この病院にいるってことは、直兄に何かあったってことだよね?」

「……」

「お願い先生。直兄に会わせて」


 必死な春菜の視線を受けた谷崎は、しばし複雑な表情を浮かべた後、はあと溜息をついた。春菜の頭に手を乗せると、くしゃ、と優しく髪を撫でる。


「――絶対に、取り乱さないと約束できるか?」


 ゆっくり頷く春菜を見ると、谷崎は看護師に頼んで車いすを手配した。座席に座り込む動作だけで、体内中の水分が傾くような気持ち悪さがある。

 だが春菜はとにかくはやる気持ちを抱えたまま、直人の元へと急いだ。




 直人が入院していたのは、同じフロアの一番角にあたる病室だった。

 谷崎に車いすを押されながら入室すると、ベッドに座ったままぼんやりと外を眺める直人の姿がある。

 柔らかな陽光を窓越しに受けており、薄い茶色の髪と揃いの目の縁が金色に光って見えた。

しかしその表情は乏しく、春菜の存在に気づいていないようだ。


「直兄?」


 春菜は出来るだけ丁寧に、直人の名前を呼んだ。

 すると直人は首だけをこちらに向け、春菜のことを一瞥したかと思うと――何も言わぬまま、背後に立つ谷崎の方を見る。


「谷崎先生、どうしましたか」

「ああー……と、どうだ調子は」

「だから別にどこも悪くないですよ。怪我もしてないのに」


 谷崎とにこやかに話す姿は、かつての直人のままだ。

 だが先ほど無機質に逸らされた視線が気になり、春菜は恐る恐る呼びかけてみる。


「あ、あの」

「……?」


 ようやく直人がこちらを見た。

 だが谷崎に向けていたような微笑みはなく、どこか冷めた顔つきで春菜を黙視している。怜悧な美貌が、今はとても怖く感じられた。


「直兄、その、ごめんなさい……私」


 だが口ごもる春菜に対して、直人の返事は簡潔なものだった。


「……ええと、ごめん。君は誰かな?」

「え……」


 一瞬、時間が止まった気がした。

 視界が一気に狭くなり、直人の顔から目がそらせなくなる。正面にいるのは紛れもなく直人のはずなのに――発された言葉は、およそ信じられないものだった。


(誰っていうのは……私のこと?)


 すると谷崎が、慌てて会話を遮った。


「あー疲れているとこ悪かったな。また後で診察に来る。――ほら、お前も行くぞ」


 言うが早いか、谷崎は春菜の座る車いすを廊下へと押し出した。病室から離れた場所まで運んだ後、震える春菜の肩に毛布を掛けてくれる。

 言葉を失う春菜に向けて、ぽつりと言葉を落とした。




「春川に、記憶障害の疑いがある」

「……」

「救急隊の話では、通報のあった場所にお前と春川が倒れていた。春川に外傷は見られなかったが、念のため一緒に搬送し、一通りの検査を受けさせたらしい。結果として、あいつの体に異常はなく、脳や頭部へのダメージも認められなかった」


 ただ、と谷崎は言葉を切る。


「一つだけ、記憶の欠落が確認された。あいつは……お前のことだけ忘れてる」

「……私、だけ」

「一応他の人間……あいつの親やお前の親、俺や大学の奴とかも確認した。……だが、その、……お前のことだけ、どうしても分からない」

「……」


 沈黙する春菜を気遣ったのか、谷崎はそれ以上何も言わなかった。

 居心地の悪い静寂の後、春菜は顔を上げると明るく笑う。


「連れて来てくれてありがとう、先生」

「春菜、その」

「なんか、のど乾いちゃった。飲み物買ってくるね」

「ああ、それなら俺も」

「谷崎先生、そろそろ休憩時間終わりでしょ? 車いすの練習もしたいし、一人で大丈夫だから」


 春菜はそう言い終えると、ぎこちない様子で車いすのタイヤを押した。よろよろと頼りなく進んでいく春菜の背中を見つめながら、谷崎は廊下の壁によりかかる。


「神様よ……なんであんたはこんなに、意地が悪いのかね」


 谷崎はそう呟くと、再び深いため息を零した。

 



 

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