これが最善の選択
「今日で四十九日が終わりました」
「そうですか……ありがとうございます、卯月さん」
淡々とした真守の物言いに、卯月は俯き、その手を強く握り締める。
「君の……母君の事情は聞きました。あの時君が、精神的にひどく追い詰められていたであろうことも、他の手立てがなかったことも、理解している。……それでも」
「……僕が憎い、ですか」
「……ああ」
手すりに寄りかかっていた真守は、ゆっくりと卯月の方を振り返った。風に煽られ、美しい銀の髪が踊る。その眼は変わらない深い海の色。
だがまるでガラス玉のようになったそれは、生気を宿してはいなかった。
「僕も、です。僕は僕自身が、許せない……」
押し黙る卯月の前に、真守は蝶の文様をしつらえたナイフを差し出した。
「――どうか、殺してください。僕に出来る、唯一の償いですから」
引き出しには遺書。自殺と判断される有利な証拠も部屋中に残した。安心してくださいと笑う真守を、卯月は強く睨みつける。
「わたしは医者です。人を傷つけるわけにはいかない」
「でも僕にはもう、何もないのです。貴方に差し出せるものは、この命しかない」
「そんなもの願い下げだ。彼女から助けられた命を、無駄にする気か」
「あの人がいない世界で、生きている意味なんかない!」
続きを拒絶するような剣幕で、真守が叫んだ。もはやぎりぎりの精神状態だったのだろう。
「僕は謝らなければならない。ずっとずっと、彼女を守りたかったのに……それなのに、彼女がいない……。僕が出来ることと言ったら……そうか、」
「紅野?」
「彼女を追いかける、こと、だけだ」
その瞬間、白銀の糸が煙のように空を舞った。
真守の体は後ろ向きにベランダから落下し、卯月は急いで手すりへと駆け寄る。身を乗り出して覗き込むと、下には高い塀に鋭利な飾りが立ち並んでおり、鬱蒼とした木々の合間に真守の片足が見えた。
「……だ、誰か、明かりを!」
卯月は踵を返し、慌ただしく階下へと下りていく。
空には美しい月が、煌々と輝いていた。
春菜が目を開くと、そこは薄暗い自室のベッドの中だった。
体を起こし窓の外を見る。どうやら月は出ていないらしく、吸い込まれそうな静寂だけが夜の街を支配していた。
目の端に違和感を覚えた春菜は、手で軽くこする。
そこには乾いた涙の跡が残っていた。
(私、泣いていた? どうして……)
やがて堰を切ったかのように、次から次へと涙があふれ始めた。理由は分からない。ただ体が勝手に、悲しみを訴えかけている。
毛布の上にガラス玉のように残るそれらを春菜が見つめていると、強い苛立ちをまとった声が部屋の中に響いた。
「チッ……だから嫌だったんだ」
「だ、誰⁉」
ぶわん、と空間がぶれるような音の後、見知らぬ青年が部屋の端に現れた。
青みがかった黒髪に、似たような色合いの瞳。幼馴染の医師、谷崎の目とよく似ていたが、その奥に苛烈なまでの怒りを孕んでいる。
「オレは紅野の同業者、とだけ言っておこう。夢は見たか」
「……夢……ああっ!」
「あれはお前の前世で、最期だ。そして奴が死んだ経緯。本来なら教えるべきじゃないんだが、今回ばかりは仕方ねえ」
「私、……私が」
改めて記憶を手繰り寄せる。
今より少しだけ古い時代。田舎貴族だった私の家は、姉が名家に嫁いだことで一躍その格を上げた。しかし姉が生んだのは『真守』という美しい――珍しい風貌の子ども。
「そうだ……私は姉さんから殺されかけて、それを庇ってくれたのが……真守ちゃん。その後姉さんが殺されるかと思って私は、必死になって……」
自らと毛色の違う長子を厭い、紅野の当主は姉と彼を捨てた。そのショックで姉の精神は崩壊し、あの事件が起きてしまったのだ。
(以前見た夢……私は殺されたんじゃなかった。……助けられたんだ、彼から)
ようやくすべてを理解した春菜を前に、黒髪の青年ははあ、と息をついた。
「あいつは規定違反を犯した。オレたちは、前世で深い関わりのあった人間と近づいてはならない。あいつは罪を問われ、罰せられる」
「ば、罰せられるって……」
「お前が思う以上に、これは重罪だ。あいつは二度と死神には戻れないし、しばらくは人としての輪廻を巡ることは出来ない」
「人と、して……」
「要は人間にはなれないってことだ」
冷たく言い捨てる青年の表情を見て、春菜はそれがいかに恐ろしいことであるかを察した。同時に自らの言動を思い出す。
「もしかして……私が、思い出したから?」
「……」
「私がまもるちゃんのことを呼んだから、だから、……」
言葉を失う春菜を見て、青年は苛立ったように視線を落とした。
「別にお前のせいじゃない。これはあいつが……紅野が勝手にしたことだ」
「でも私と契約したから……な、なら契約を辞めたらいい⁉ 今結んでる契約を解けば、そうすれば違反なんて――」
「無理だ。既にあいつの裁きは終わっている。何より今はオレがお前の『契約者』だ」
「え?」
「契約を解除すればあんたは死ぬ。だから捕らえられる前に、紅野は契約者をオレに変更した。自分の記憶を全部捨てるから、四宮春菜を助けてくれ、とな。おかげでお前の命も記憶もすべて元通り。代償は奴が一人で支払った。以上だ。……まだ何か聞きたいか?」
「どうして……そんな、こと……」
「オレが知るか。奴が勝手にしたことだ」
ぽたり、とカーペットに春菜の涙が落ちる。
震える言葉とともに、二つ、三つとさらに色を濃く染め上げる。
「知っていたら……契約なんてしなかったよ……。前世だかなんだか知らないけど、全部一人で抱え込んじゃうなんて、ひどいよ……」
何も言わないで、勝手に助けるとか言って。
「こんな事して、私が喜ぶと思ったの? どうして、そんな無茶を……」
春菜はずっと忘れていたというのに。断片的な記憶に頼って、一度は彼のことを疑ったことすらあった。それなのに、どうして。
すると黒髪の青年が、静かに口を開いた。
「きっとあいつも、前世でそう思ったんだろうよ」
「……え?」
「あんたを刺してしまった時。きっとあいつも同じように自分を責めたんだろう。どうしてあんた一人が犠牲にならなければならなかったのか、とね」
最善の選択肢。
彼女が間に入ることで、彼女の姉は命を繋ぎとめることが出来、母を殺し自害しようとしていた真守も踏みとどまった。
本来であれば姉と真守の二人死んでいたものが、彼女一人の死で終幕したのだ。
単純な数の表記ならば、二対一。
ただ、彼女にとっては最善の選択肢だったのかも知れないが――紅野にとっては絶対に選んでほしくなかった選択肢だった。
「勘違いすんな。ただ数が多いことを、最善とは呼ばない。誰かにとっての最善は、対する誰かの最悪だ。すべては自分勝手な行動の一つでしかねえんだよ。誰もが幸せになれる絶対の選択肢なんて、あるわけねえんだ」
だからな、と春菜の目元に青年はそっと指を伸ばした。死神と同じ黒い手袋が眦に触れ、やや乱暴にこすられる。
「これもあいつの勝手。あんたが悔やむ必要はないし、これが最善とは言わない。だが最悪だとも、言えない。ただあんたを生かしたかった……それだけなんだよ」
すると青年は、春菜の額を手で覆い隠した。
視界が闇に覆われ、春菜の睫毛が彼の手のひらを叩く。
「話は終わりだ。さっさと寝ろ」
「待って、まだ聞きたいことが――」
「次に目覚めた時、お前はすべてを忘れている。じゃあな」
次の瞬間、春菜の脳内に痺れるような痛みが走った。途端に眠気が襲ってきて、なかば気絶するような勢いで床にくずおれる。
頭を打たないよう咄嗟に抱きとめた青年は、軽々と抱き上げると春菜を再びベッドへと運び込んだ。
穏やかな寝息を立てる顔を見つめながら、静かに目を細める。
「忘れるな。お前の世界は、一人きりではないことを」
――どうして、私は貴方の傍に生まれ落ちたのか。
貴方が見も知らぬ他人であったなら。自分がもう少し早く生まれていたなら。あの時守ることが出来たなら。
意味のない仮定ばかりを繰り返して、僕は後悔ばかりしていた。
でも一度ずれた歯車が噛み合うことはなく、先に逝ってしまった貴方を追うにはこれしか方法がない。
もう一度だけ、この手で触れたかった。それを願ってしまった。
ただそれだけのこと。
だから、どうか泣かないで。
ああ神様、貴方が笑ってくれればそれだけで――
私は、幸せなのです。




