髪と目と心が灰色に変わる
「怪我はない、ですか?」
「私は大丈夫、で、でも、まもるちゃんが……!」
すると真守はにこりと口角を上げると、腕に突き刺さっていたナイフを引き抜いた。 鮮血がぶしと吹き出し、女性は痛々しげに首を振る。
真守は床に伏して嗚咽をもらす自身の母を見やると、こちらに向かって謝罪した。
「すみません。母がいつも迷惑をかけて」
「そんな……それより早く、その怪我の手当てをしないと!」
「大事ありません」
真守はぽつりと拒絶すると、手に持っていたナイフをくるくると弄んだ。銀の装飾がなされた柄の部分を手のひらに収めると、その手を強く握り締める。顔を上げた真守の瞳に光はなく、女性は強い恐怖を覚えていた。
その予感を現実のものとするかのように、真守が抑揚のない声で続ける。
「申し訳ありませんが、もう一つだけ迷惑をかけます。……これ以降は、もう二度としませんから」
「まもるちゃん? 一体、何を……」
ただならぬ雰囲気に、女性は思わず紅野の上着の裾を引いた。だが紅野は握り込むその手をそっと離させると、いつものように柔らかく笑う。
そして歩み寄り、己の母の前にしゃがみ込んだ。
「――母さん。もういいよね。……そうだね。僕がいなければ、こんな事にはならなかった」
「そうよ。あんたさえ……あんた、さえ……」
「だからもう、終わりにしよう。これ以上、父さんを待つのはやめよう?」
だが次の瞬間、恐ろしい女の悲鳴が室内に響き渡った。
うなだれていた姉が、突如窓際へと走る――その腕から真っ赤な血が零れていることを、春菜と彼女は見逃さなかった。
どす黒い血痕が、豪奢な赤い絨毯にまだらの模様をすぐさま描く。
「ま、真守⁉ なにを……」
「大丈夫。一人では死なせません――僕も、すぐに追いますから」
真守はその麗しい美貌に、うっとりとするような笑みを浮かべていた。
手にしているナイフからはおびただしい量の血が滴り落ちており、優雅に手向ける姿はまさに――死神のようだ。
姉はようやく事態の異常さに気づいたのか、弱々しく首を振る。
「止めて! こないで! いや、人ごろ――」
「さよなら、母さん」
短い別れの言葉の後、真守は体の中程にナイフを構えると、一息に距離を詰めた。恐怖に染まる母の顔を笑顔で見つめたまま、その体にナイフを突き立てる。
肉と骨に金属が食い込む、確かな感触を確かめた後、真守はことさらゆっくりと引き抜いた。水風船が破裂したような勢いで血潮が飛び、彼の美しい金の髪と上質な洋服を紅に染め上げる。
「これで、いいんだ。ねえ、かあさ……ん?」
真守はそこで、目を大きく見開いた。
視線の先では、母親が蒼白になって自分を見ている。腕や体はひどく血塗れているが、内臓が見えているわけでも、腹に穴があいている様子もない。恐怖にひきつった顔のまま、茫然と真守を眺めているだけだ。
疑問を持った真守は、そろそろと視線を手元にずらす。
来賓用の果物ナイフは、ぬるぬるとした赤い液体で覆われていた。柄に刻まれていた蝶の細工には血が伝い、赤い揚羽が浮き上がって見える。
その奥――床の上に、見慣れた姿が倒れていた。
「どうして……?」
それは、荒い息を繰り返していた。
それは、引き千切られた肉片と赤黒い体液の中で泣いていた。
「どうして? 決まってるよ」
それは、彼が一番守りたかったはずの――叔母の姿。
「私に出来ることで――これが、最善だったからだよ」
真守が襲い掛かったあの一瞬、彼女は自ら二人の間に入ったのだろう。
ぱた、と毛足の長い絨毯にナイフが落ちる。難を逃れた姉は、目の前で繰り広げられた惨劇を前にがたがたと肩を震わせるばかりだ。
手の皺に染みいるようなこの赤は、彼女の血。
真紅の絨毯が、彼女の周りだけ黒に染め直されていく。
黒い。
一点の光も無い、純粋な闇。
体が動かない。違う、動かせない。
これは、彼女の血。
コロ シ タ 彼女 ノ
「うああああああ――!」
真守の絶叫と前後して、騒ぎを聞きつけた誰かが、慌ただしく扉を開けた。現れたのは数人の女中と卯月――彼女の婚約者だ。
「紅野くん! いったいなに、が……⁉」
だがすぐに目に飛び込んできた凄惨たる現場に、卯月はすぐに身構え、家の者に指示を出した。呆然と立ち尽くす真守の前で、卯月は血に染まった婚約者を抱きかかえる。
「――さん、――さん! 紅野、一体何が起きたんだ⁉ 説明しろ!」
「……違う、僕じゃ、……僕は、そんなつもりじゃ……」
必死に救命措置を図る卯月を前に、真守は目を大きく見開いたまま、弱々しく否定した。その間にも彼女の体からは、大量の血液が流れ出しており――震える真守に向けて、濁った声が聞こえる。
「まもるちゃん、大丈夫……?」
こんな様になってもなお、自分のことを心配している彼女に、真守は途切れ途切れの声で問い返した。
「――どうして、どうして、こんな、ことを」
「だから、これが、最善だと思ったから、だよ」
――さいぜん、って?
――最善は一番良いこと。誰かだけが喜ぶとか、一人だけが幸せになるんじゃなくてみんなが幸せになれるのが最善って言うのよ
「姉さんに、死んでほしくなかった。でもまもるちゃんも、そう」
――そんなのありえないよ。誰かが喜んだら、それと同じかそれより多くの人が泣くんだ。そんなの――だけしか信じてないキレイゴト、だ
「それが、最善? 貴方が、死ぬことが?」
――そうだね。じゃあ、喜ぶ人が一番多いのを選ぶって言うのはどうかな
「選んだら、それが一番多い気が、したの」
――これと一緒。一番沢山ひっくり返せるのが、最善の手。それと同じだよ
「よろこぶ人。泣かなくて、いいひと。悲しまなくていい人が、いちばん多い。……だから、さいぜん」
卯月の懸命の処置もむなしく、彼女は静かに息を引き取った。
後日、彼女の葬儀が身内だけで行われた。
彼女の家柄は悪くなかったが、しょせんは田舎の令嬢。遠縁の親戚も顔を出すだけで、姻戚関係にあったはずの紅野の家からは、一方的に電信を送られただけだった。
唯一の救いは卯月がその約束を違えることなく、生涯を誓ってくれたことか。
それも当然、彼女の墓前でという話になってしまった。
真守は数日の謹慎を経て、大した刑に問われることもなく酌量された。
仮にも紅野の姓を持つ者を、本家も犯罪者にしたくはなかったのだろう。当日家にいた女中らには厳密な緘口令が言い渡され、同意しない者については暇を与えられた。
結果として、あの日起きた事件の真相を知る者は、確実にその数を減らしていた。
「……」
その夜、屋敷のバルコニーに出た真守は、冷たい秋の風を肌に感じていた。風に揺れるその髪は以前のような金色ではなく、絹のような怜悧な銀色だ。
やがてカタン、と扉の開く音がして、卯月が姿を現した。
「落としたんですか、色」
「……ええ。血の色が存外落ちにくかったもので、頭から薬品をかけられました」
真守は微笑みながら、自身の髪の端をつまんだ。あれだけ忌わしかった金の髪が、こうも簡単に損なわれるとは皮肉なものだ。




