きみが望む真実
すると紅野は腕を高く上げ、自身の頭を指し示した。端正な顔には穏やかな笑みすら浮かんでおり、それを見た青年はぞくりと肌を粟立たせる。
「残りはてめえの分で贖うってか……だが、いいのか? それはお前が――死神になる契約を結んだ時、唯一残した記憶だろうが」
微笑むばかりで返事をしない紅野に苛立ったのか、青年はなおも強く言い放った。
「それにお前は、既に契約締結権を剥奪されてる。いまさら変更なんて――」
「だから、貴方が来てくれて良かったと言ったのです。貴方なら、可愛い後輩の頼みを無碍には出来ないでしょう?」
「……オレにそれをしろっていうのかよ」
紅野の真意を察したのか、青年は深いため息をついた。しばし考えこんだ後、紅野の方に向き直る。
「本気なのか」
「はい。……これが『最善』の選択なんです」
「……クソが」
やがて紅野は左手にあった黒い手袋を抜き去った。白い百合のような指先には、白銀の指輪がはまっている。
紅野はそれをたやすく引き抜くと、青年に向けて差し出した。
「これを」
「……」
苦々し気な青年を前に、紅野は歌うように言葉を紡ぐ。
「――送還法、特例措置第三条『契約の変更』。代理人契約を依頼する。対象者は四宮春菜。対価は私の持つ『紅野真守』の記憶のすべて。そして……対象者の中にある『紅野真守』に関する記憶のすべてを」
「! お前、いいのか」
「ええ」
それは、全てを忘れることを意味していた。
紅野の中にあるたった一つの記憶と、春菜の中によみがえった『紅野真守』の記憶。そのすべてを、彼女が生きるための対価として差し出す契約だ。
青年はなおも苛立ちを募らせた顔つきで、紅野を睨みつけた。だが紅野は実にすがすがしい顔つきで笑っており、それを見た青年はクソ、と視線をそらす。
「面倒なこと、押し付けやがって」
「……最後の最後まで、すみません」
ありがとう――と死神は小さく呟いた。
揃いに作らせた白金の指輪。
渡そうと、貴方を見た。
でも貴方の指には、既に別の指輪が嵌っていた。
行き場を失った私の指輪は、一体どうすればよかったのだろう。
妙な浮遊感が纏わりつく。
居心地の悪さに瞼に力を込めた春菜は、ゆっくりと見開いた。
そこは自分の部屋ではない。
鮮やかな木の床板に白い壁紙の貼られた室内。窓の向こうは濃い闇色に包まれていて、星一つない夜のようだ。
置かれている家具は精緻な装飾が施された椅子や棚。テーブルには白磁に金の縁取りをした茶器が並んでおり、詳しくない春菜でも一目で高価なものだと分かる。そしてそれが、どこか見覚えのあるものだということも。
(……私、どうしたんだろう。死んだのかな……それともまた、夢、見てるのかな)
やがて遠くから、荒々しい足音が近づいて来た。
姿を隠すべきかと春菜は辺りを見回したが、隠れられそうな場所はない。混乱している春菜をよそに、妙齢の女性が叩きつけるようにして扉を開けた。室内に駆け込んできた彼女の後を追うように、もう一人別の女性が現れる。
その容姿を見た春菜は、思わず息を吞んだ。
(この人、いつも夢で『まもるちゃん』と一緒にいた……)
どうやら春菜の姿は二人には見えていないらしく、彼女たちは血相を変えて口論を繰り返していた。
温和な印象だった夢の女性もいつになく真剣だ。
「姉さん、だから落ち着いて! 紅野さんともう一度話を」
「話すことなんて何もないわ! 私は捨てられたのよ!」
「そんなことないわ。きっと何か理由が」
「私はすべてあの人の望むとおりにしてきたというのに! 立派に世継ぎを産み、貞淑な妻として不平も言わず尽くしてきたのに……どうして、どうして、どこの馬の骨ともしれぬ女と……!」
「姉さん、ね、落ち着いて。きっと何かの間違いよ。紅野さんが、そんな、姉さんを置いて行くなんて……」
「じゃあどうして連絡の一つも寄越さないの? 何故和彦だけを連れて、帰ってこないの? あの人がいなくなってから、私は肩身の狭い思いをして…‥こうして紅野からも追い出されて、どうしてまだそんなことが言えるの⁉」
髪を振り乱しながら叫ぶ姉は、ぐらりと体をよろめかすと、卓に並んでいた豪奢な茶器とともに床に倒れこんだ。
粉々になった白い欠片の中に膝をつく姉の傍に、彼女は慌てて駆け寄る。
「姉さん⁉ 怪我は……」
「……いいのよ。わかっていたの、ほんとは」
破片で傷つけたのか、姉の手からは真っ赤な血が滲んでいた。だがそれを気にする素振りも見せず、姉は無邪気な笑い声を零し始める。
その内側には、強い狂気が見て取れた。
「うふふ、あは、ははは、あははははははは! そうよ、わかっていたわよ! あいつが私の腹から出て来た時にねえ!」
「姉さん‼ だめ、疲れているんだわ、だから」
だが事態は悪化した。
姉を宥めていて気付かなかったのか、彼女の背後でガタンと扉の開く音がした。現れたのは立派な青年へと成長した『紅野真守』だ。
西洋人じみたしっかりとした体躯、飴細工のようだった金髪も、深い海の色をした目も、かつての可愛いものから凛々しいものへと変貌を遂げている。
「ここにいたんだね、母さん」
「まもるちゃん……」
「こんばんは、叔母さん」
真守はすっかり病んでしまった自身の母を見舞うため、こちらの実家に顔を見せることが多かった。
この状態になった姉とは面会させないよう苦慮していたのだが、この時間は学校があるだろうからとすっかり油断してしまったようだ。
「まもるちゃん、ごめんね。姉さん、すぐに落ち着くと思う、」
から、と言葉を発しようとした瞬間、彼女の隣に座り込んでいた姉が、突然立ち上がった。ぎゃり、と金属と食器が擦れる耳障りな音がする。
そのまま爛々とした目で、実の息子を睨みつけた。
「真守」
「……」
「あんたさえ、いなければ……」
すると姉は真守に向かって腕を振り上げた。目を見張る彼女の前で、真守はそれをいとも簡単に受け止める。姉の手には茶器と一緒に転がった果物ナイフが握られており、鋭い刃先はしっかりと真守に向いていた。
「あんたさえ生まれてこなければ……! こんなおぞましい髪のせいで、私は不実を疑われて。この忌まわしい目のせいで、あの人は私を愛してくれなくなった……! 全部嫌いよ! あんたも、あの人も、みんな、みいんないなくなればいいんだわ! あはは、ははははははははは!」
もはや錯乱状態に陥っている母の姿に、真守は言葉を失っているようだった。
だが姉の暴走は止まらず、手首を掴んでいた真守の手を無理やり払ったかと思うと、何を思ったか、唖然としたままの自身の妹に襲いかかったのだ。
思考がリンクしている春菜は驚き、思わず目を瞑った。
(……?)
だが痛みも衝撃も訪れることはなく、春菜は恐る恐る瞼を押し上げた。
するとすぐ目の前に、真守の背中があった。どうやら彼に庇われたようだ、と認識した途端、彼の口からくぐもった声が漏れる。
「……ッ」
「まもるちゃん⁉」
真守は額に脂汗を浮かべており、春菜と意識を共有する女性は、慌てて彼の傷口を探していた。上腕部に深く刺さったナイフを発見し、女性は絶句する。
だが当の真守は彼女を宥めるように微笑んだ。




