どうか「 」と呼んで
なんとか自宅に戻ってきた春菜だったが、考えることが多すぎて、夕食はまったく味を感じなかった。
ふらつく足取りで自分の部屋に戻ると、緩慢にベッドに倒れ込む。
(……今日も、来るのかな)
私の記憶を奪いに、死神が訪れるのだろうか。
部屋の中は闇に包まれていた。春菜は辺りの様子を伺うように耳をそばだてていたが、極度の疲れもあったのだろう――いつしか意識を途切れさせ、静かに眠りに落ちていく。
視線の先に、床が平行に横たわっていた。
じわり、じわりと何かが染み出し、髪や頬を濡らしていくのが分かる。やがてじわりとお腹が熱くなり、それはかっかと焼けるように燃え広がった。
遠くで誰かの声が聞こえる。
「――さん、――さん! 紅野、一体何が起きたんだ! 説明しろ!」
この声は卯月さんだろうか。
珍しい。
温和で、人を怒鳴る所ところなんて見たことないのに。
「……違う、僕じゃ、……僕は、そんなつもりじゃ……」
どうしたの、まもるちゃん。
どうして泣いているの。
どうしてそんなに――ぼやけて見えるの。
必死になって視線を上げると、自身を抱きかかえる卯月の肩と、その背後に立ち尽くす真守の姿が見えた。
月日が流れ、立派な青年となった彼。だがその金髪には、何故か赤黒い粘液がこびりついている。綺麗な青い瞳も、今は恐怖とも絶望ともとれる色を浮かべており、終始不安げに揺れていた。
どうしよう。
何か、言ってあげないと。
「――まもるちゃん、大丈夫……?」
だが普段通り出したはずの声は、喉の潰れた蛙のようだった。舌と歯の合間を縫うように、鉄錆の香る赤い液体が流れ出る。
ああ、髪に付いていたのはこれだったのか。
やがて真守は、怯えた目でこちらに問いかけた。
「――どうして? どうして、こんな、ことを……」
その問に、私はずっと前から答えを知っていたかのように答える。
「これが、最善だと思ったから、だよ」
「……!」
飛び起きた春菜は、先ほどまでのあれそれが現実ではないと理解するのに、しばらくの時間を要した。
死神と契約を結んでから、毎夜のように夢を見ている。
しかも最初は断片的だったものが、次第に春菜と視界を共有するようになり、今では夢の中の人物が、まるで本当の自分に代わったかのような錯覚すら起こしていた。
(……あの、金髪の子……私、どこかで会った……?)
ぐわん、と頭の中で大きな振り子が揺さぶられるような感覚がし、春菜はこめかみを強く押さえた。痛い。抜け落ちた記憶の隙間に、無理やり別の何かが滲み出してくるような。
(私はどうして……懐かしいと)
その時、出窓の縁に黒い影がよぎった。春菜は恐る恐るベッドから抜け出すと、出窓を開き深い闇色の空を見上げる。
厚い雲のせいか星はまったく見えなかったが――その代わりに、しなやかに広げられた黒色の両翼と、それを操る死神の姿があった。
その光景に、春菜は一つの仮説に導き出す。
「最後の、お話に来ました」
だが死神に普段の余裕に溢れた表情はなく、深い水底のような瞳も翳っていた。声も淡々としており、いままでのものとは随分と違って聞こえる。
「最後……なんだ」
「もっと喜ぶかと思いました。これでもう私とは顔を合わさずに済み、貴方は完全に生き返ることが出来る」
死神の言葉はもっともだった。
しかし、春菜にはどうしても気になっていることがある。
「一つ、聞いてもいい? 今の記憶を無くした結果……昔の記憶が思い出される、ということはあるの?」
記憶を奪われた日から、見るようになった不思議な夢。
あれは春菜自身のものではない。だが――この世に生まれるより前の記憶が、抜け落ちた記憶の代わりに、甦っているのだとしたら。
だが春菜の試すような問いに対して、死神は薄く微笑んだ。
「分かりません。この契約自体、あまり例のない特殊なものです。何らかの副作用があってもおかしくはない。……何故、そんなことを?」
「……契約の後から、夢を見るの。優しそうな女の人がいて、それから……」
鮮やかな金髪と海色の瞳が、春菜の脳裏をよぎる。
春菜ではない誰かに向けて、屈託無く笑う少年。
春菜ではない誰かに、恋をしていた青年。
そんな筈はない、と思いながらも、ある一つの可能性が春菜の頭から離れない。
(もしも……)
――死神が『あの少年である』としたら。
だがその可能性を確かめようとした春菜は、同時に別の不安に襲われる。
(……でも、どうして?)
仮に。万が一。
あの夢が自分の『前世』で、死神があの少年なのだとしたら。
――何故、こんな所にいるのだろう。
不審極まりない『死神』と名乗ってまで、私の元に現れたのか。輪廻を捻じ曲げてまで、春菜に会わねばならない理由があったというのか。
前世の私は、何故死んだ?
だれに? コロサ レ――
「――どうしました?」
低く響く死神の声に、、春菜は弾かれたように顔を上げた。正対する死神の顔は相変わらず美しいままで、何かを見透かすようにこちらを見ている。
(どうしよう……私は、この思いを伝えた方がいいの?)
春菜の心には、今も大切に思う一人の記憶が残されている。
何度も選び、残し続けてきた思い出。もしも死神に問うてしまえば、この記憶まで消えてしまう――そんな予感がしていた。
(それでも、私は……)
春菜は恐る恐る、口を開いた。




