プロローグ/踊り虫の話
神よ、我らが神よ。
ああいとしき我らが神よ。
何故我々にわかる言葉を下賜してくださらない。
何故我々に尋ねようとする。
貴方は何を欲しがっているのか、我々には分かりませぬ。
貴方が欲しいというのなら、欲しがるもの全てを我々は捧げましょう。
美しい宝石。綺麗な衣。鮮やかな紅。芳醇な果実。優秀な下僕。
貴方は何が欲しいのですか。
我々の捧ぐものでは笑ってくださらないのですか。
ああ、我らが神よ。
何故笑ってくださらない。
私が、醜い虫だからですか。
神が、死んでいるからですか。
ある一匹の虫がいました。
その虫は色も地味で体も小さく、とても醜い姿をしていました。空を飛ぶ鳥からも海を泳ぐ魚からも「お前は本当に醜いな」と言われていました。
醜いと言われる傍ら、虫は大変踊りが好きでした。
その醜悪な顔に美麗な仮面を被り、不思議な仕草で舞い踊る。それは普段の虫からは想像も出来ないほど艶やかで、それだけが虫の毎日の楽しみでした。そんな様子を聞きつけたのか、虫の踊りはたいへん評判になり、わざわざ見に訪れるものも現れました。
しかし醜い虫のこと。自分の顔を晒しては失望するものもあるだろう、とけして踊り手の正体を明かしませんでした。
そんなある日、虫はこの世界を作り上げた神様に呼ばれました。
神様はそれはそれは美しく、地上に住むものみなの憧れでした。そんな神様に呼ばれたので、虫は嬉しくてたまりません。
今までで見つけた一番綺麗な石を胸に掲げ、綺麗に色づいた葉っぱをマントにしました。精一杯着飾った虫は、神様に呼ばれた場所へと急ぎます。
神様の住む神殿は美しく、随所に輝石をはめ込んだそれは見事なものでした。高い階段をよっこらよっこらと三日三晩上りつづけた翌朝、虫はようやく神様の座る玉座の前にたどり着きました。
短い足を精一杯動かし、毛むくじゃらの手を一生懸命伸ばしたせいでしょうか。せっかくの綺麗な石はどこかへ無くなり、深紅のマントもあちこち破れています。顔は汗だらけで醜い顔が一層醜く見えました。
それでも虫は憧れの神様を前にして、がらがらした声を張り上げて嬉しそうに言いました。
「遅くなりました神様、して私に何の御用でしょう」
「ああ、お前か。もういいよ、用事はこの鳥が叶えてくれたから」
見上げると神様の腕に抱きかかえられた鳥が、至福の表情で眠っているのが見えました。
「そんな、せっかくここまで来たのです。そうだ、この神殿の掃除を致しましょう」
「ああ、それならあの羊がしてくれたよ」
「でしたら美味しい果物をお持ちしましょう」
「それもいらないよ、サルが運んでくれたからね」
さて、虫は困ってしまいました。
神様に何とか喜んでもらいたいけれど、自分は何も出来ることがありません。
「それならば、私が踊りを披露いたしましょう」
「へえ、踊るの。でもいいよ、踊りなら獅子たちがみせてくれるそうだから」
「いいえ、神様。私にはもうそれしか残されていないのです。どうか踊らせて下さい、部屋の片隅でも構いません」
必死に拝み倒して事なきを得、虫は部屋の片隅でぼろぼろの格好のまま、踊りの準備を始めました。
しかし虫が仮面を付けた時、うしろから強く叩かれました。
「こんなところにいると邪魔だ」
「我々は神様に仕える獅子だ、なんだお前は」
「醜いし、臭い。その格好は何だ、それで神様に踊りを見せようと言うのか」
そこには色鮮やかな宝石を首から下げ、金の毛並みを纏った獅子たちがいました。虫は必死に逃げましたが、神様がこちらを見ているのに気付いてぴたりと逃げるのを止めました。
そして緊張しながら構えを取ったその時、再び獅子たちから殴られました。
「じゃまだ」
「ひっこんでいろ、神様にお前のような、醜い」
「どうか、一度だけ。踊らせて下さい、どうか」
「じゃまな虫だ、どけ」
獅子の爪が虫の羽に引っかかり、びりと音を立てて破れました。
吹き飛んだ虫はなんとか体を起こし、玉座の前に向かいます。しかしまた別の獅子が虫を弾き、こんどは左の触覚が落ちました。
「こいつ、耳が聞こえていないのか」
「わからない、だが、気持ち悪いことだけは確かだ」
何度飛ばされても何度も玉座の前に戻ってくる虫を、獅子たちは面白いように何度も弾きました。そのたび壁にぶつかり、虫はその原型を失っていきます。
神様は見ているだけで何も言いません。
むしろ、獅子たちにいいように転がされている虫の姿が面白いかのようでした。
やがて足が二本折れ、触覚は無くなり、羽根が一枚になった虫が、這って玉座に着いた時神様は嬉しそうに言いました。
「素晴らしかったよ、虫。それが君の踊りなんだね。何度も何度も転がり、笑われても立ち上がる。素晴らしかった、本当に」
虫はもう言葉を発することも出来ませんでした。
ただ白黒の区別くらいしかつかない中、神様が笑っていたことだけはわかりました。
神様が笑ってくださった。
神様が、私を見てくださった。
虫はぴくりとも動かなくなりました。
つまらなくなった獅子たちは、改めて踊りの支度を始めました。神は獅子たちの優雅な踊りや、先程の虫の滑稽な踊りを見てすっかり踊りを好きになってしまいました。
一方、虫のいなくなった地上では、高名な踊りの名手が姿を消したと騒ぎになっていました。
「いったいどこにいったのだろう」
「あの踊り手は素晴らしい、まさに神のような踊り手じゃ」
「ああ、はやく見たい。そういえば近々神様があの踊り手に会いに、わざわざ地上に降りてこられるそうだ」
「それはいい。神様も、あの踊りを見れば素晴らしいというだろうよ」
「間違いない、きっと美しいと言ってくださる」
しかしいくら待ってもとうとう踊り子は戻ってきませんでした。
醜い虫もいつの間にかいなくなっていましたが、それにきづくものは誰一人としていませんでした。