僕を望むなら、君を捨てて
春川の家に到着した春菜は一呼吸置き、インターフォンを押し込んだ。しばらくして直人が扉を開く。
「春ちゃん。いらっしゃい」
「ごめんね、直兄。突然来ちゃって」
「ううん、大丈夫だよ。今母さんいないけど、あがって」
モノトーンで統一された直人の部屋に通される。彼の性格を表すかのように、本棚も机も綺麗に整頓されていた。
座るところに迷いつつ、ようやく春菜がベッドの片隅に腰掛けていると、飲み物を持った直人が現れる。
「はい、ココアでいいかな」
「ありがとう」
マグカップに口をつけると、柔らかな甘味が身体を伝った。直人は机の前に置かれた椅子に座り込み、同じようにカップを口元に運んでいる。
(ちゃ、ちゃんと、言わないと……)
微妙に気まずい沈黙の中、春菜は言うべきことを頭の中で反芻する。やがてぎこちなく口を開いた春菜は――咄嗟に別のことを言葉にしてしまった。
「あ、あの直兄………あの、ああ、……アルバムってあるかな」
(ち、違う、そんなこと言いに来たわけじゃないのに……)
「ん? 僕の?」
春菜の葛藤を知る由もなく、直人はすぐ脇にあった本棚から、一冊のアルバムを引き抜いた。言ってしまった手前断ることも出来ず、春菜はとほほと落ち込みながら、それを膝の上で広げる。
そこには小さい頃の直人が映っていた。どうやら幼稚園の入園式の写真らしい。
「あ、可愛い」
「これ……式の前に行きたくないって泣いたから、目が赤いんだ」
ほんとだと笑いながら、春菜はさらにページをめくる。今度は直人と小さな女の子が映っていた。キャンプ場の川辺らしく、女の子はなぜかひどい泣き顔だ。
「これ、春ちゃんだよ。足元にカニがいて挟まれた時。この後もしばらく泣いてたんだよね」
「えっ、うそ、覚えてない。何でそんなことまで覚えてるの?」
「春ちゃんのことですから」
アルバムのページをめくるたび、これはどこで、あれはいつでと、直人は嬉しそうに解説を続けた。そんな彼を横目で見ながら、春菜はあらためて覚悟を決める。
言わなければならない。私の記憶がなくなっていること。
そしていつかは、直人のことも忘れてしまうかもしれない、ということ。
(……早く言わないと、直兄まで傷つけてしまうかもしれない)
でも、と違う不安が頭をかすめる。
(信じてもらえなかったら、どうしよう……)
どうして記憶がなくなるのかと尋ねられたら、死神との契約を打ち明けるしかない。だが『死神』なんて――当の春菜ですらしばらく信じられなかったものを、直人が素直に信頼してくれるだろうか。
妄言の類に取られ、病院でも勧められたら、また直人に余計な心配をかけてしまうことになる。
(どうしよう……死神のことは言わずに嘘をつく? でもそれも……)
アルバムをめくる手をとめ、春菜はしばし逡巡した。
口の中が乾燥し始め、震える手でココアを口に運ぶ。するとマグカップをひっかけてしまい、中身が春菜の袖とページにかかった。
「あっ!」
「大丈夫⁉ 火傷してない?」
「う、うん。平気だけど……ご、ごめん、写真が……」
見ると端の方に貼られていた写真が、半分ほど茶色のシミで汚れていた。慌ててティッシュでふき取るが、薄くはなれども完全には白くならない。
蒼白になる春菜に対し、直人は軽く微笑んだ。
「ご、ごめんなさい……」
「いいよ、すぐ乾くだろうし」
「これ、ちょっとだけ借りていい? お父さん、昔写真部だったらしいから、綺麗に乾かす方法がないか聞いてみる!」
いいのに、と笑う直人だが、春菜の必死さが伝わったのか、被害にあった写真をアルバムから外してくれた。
台紙の部分から写真にかけて茶色くなったそれには、中学時代の春菜と、大学に入ったばかりの直人の姿が映っている。
「これ、最近の写真?」
「そう。撮らなくていいって言うのに母さんが無理やり」
実は直人は写真に映るのがとても嫌いらしく、小さい時はまだしも、中学からの写真は数えるほどしかない。この写真も春菜と直人の母が結託して、無理やり撮った一枚らしい。
「こうやって見ると、僕も年取ったって気がするなあ」
「どうしたの急に」
「春ちゃんも大きくなって、僕もこんなになって……これから先、どうなるんだろうって」
一枚欠けたアルバムの縁をなぞりながら、直人はココアを口に運ぶ。ふわりと柔らかい香ばしさが、秋の風に乗ってこちらまで漂ってきた。
「直兄、来年卒業だもんね。就職するの?」
「僕はこのまま院に進もうと思ってるんだ。一応……検事になりたくて」
「検事……」
「うん。なかなか厳しい道だけどね。ただそうなると、今以上に勉強に時間を取られるようになるだろうな」
それを聞いた春菜は、先ほどまで思い浮かべていたあれそれを、一気に呑み込んだ。
(そっか……直兄には目指している道がある。ここで私が変なことを言い出したら、……また余計に気を遣わせてしまうかもしれない)
だがこのまま契約を続けていれば、いつかは直人のことも忘れてしまうかもしれない。もしその時に傷つけてしまったら――と想像した春菜は、静かに瞑目する。
どうしよう、と様々な方法が頭をよぎる。
だがその内の一番簡単な答えを前に、春菜はようやく目を開いた。
そうして春菜は、一つの決意をする。
「――ごめん直兄、そろそろ帰るね」
直人の顔を見ると、せっかくの決心が揺らいでしまいそうで――春菜は視線を合わせないよう慎重に立ち上がった。
しかし部屋のドアに手をかけたとき、背後から直人の小さい声が響く。
「春ちゃん。もしも、僕が」
「……?」
「何でもない。じゃあ……またね」
その言葉に後押しされるように、春菜は直人の部屋を後にした。
「……好きだといったら、困る、かな……」
一人残された部屋で、直人はアルバムに視線を落とす。そこには幼い自分と、生まれたばかりの春菜が映っていた。




