死神は電気羊の夢を見るか
帰宅した春菜は、制服が皺になるのもかまわずベッドに倒れ込んだ。津田の試合、知らない後輩……色々なことがありすぎて頭の中が揺らいでいる。
ぼんやりと視線を動かすと、赤い跡の残る手首が見えた。
(………言わなければ、伝わらない)
剣道部で戦う津田の姿は、本当に勇ましく誇らしかった。でも彼は三年で、もうじき引退してしまう。そうなれば、試合を追いかけることも学校で会うことも、出来なくなってしまうのだ。
(私は……どうしたい?)
出来ることなら、津田が卒業した後も彼の隣にいたい。だがそれは普通の先輩後輩では難しい――と春菜は深くため息をついた。
隣を歩いていても、手を握ることすら出来ない関係性。春菜は持ち上げた手を何度か握ったり開いたりする。そこでふと、強く掴まれた腕の痛みを思い出した。
(文芸部の後輩……森山君、だったっけ……)
強い力。でも不思議と嫌な感じはしなかった。綺麗な髪と目をした、後輩を名乗る男子生徒。
彼はどうして、あんなに怒っていたのだろうか。
(何かを書いたって、待ってたって言っていた……。私……なにか大切な約束を忘れていたのかもしれない……)
彼の見せた表情には、既視感があった――彼が見せたのは、昨日も覚えにあるあの表情だったからだ。
「春菜。お前、何があったんだ?」
――癖のある黒髪に少しだけ香る煙草の匂い。
(私、忘れている……いったい、誰だったの?)
言いようのない不安に襲われ、春菜は授業の内容や両親の名前、祖父母の名前などを一つ一つ思い返してみる。
だがそれらはしっかりと春菜の記憶の中に残っており、抜け落ちた思い出などないように思える。
「私は、誰を忘れているの……?」
気持ちを落ち着かせようと、春菜は静かに目を瞑った。赤金色の空の向こうで、カラスが伸びやかに鳴いている。
気の抜けるようなそれはゆっくりと遠ざかり、春菜の意識もまた闇の中に落ちていった。
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「――ちゃん、待ってよー」
「待たない。――がそんな動きにくい格好してるから悪いんだ」
いつもより視線の位置が高い。ふと空を見上げると初夏の強い日差しと、青草の匂いが鼻をくすぐった。改めて前を向くと、艶やかな金の髪を揺らしながら、小さな男の子が走っている。
(……これは、夢?)
「あんまり走ると危ないよ。おかーさんに言いつけちゃうよ」
春菜の意思が介在しないところで、女性は勝手に言葉を発する。
夢の中の自分はどうやら二十過ぎほどの女性になっているらしく、髪は春菜よりもずっと長かった。声の感じも違って何だか不思議な感じだ。
「いいよ。……どうせ母さんは、カズの方が可愛いんだ」
前を走っていた男の子が振り返り、泣き出しそうな表情でこちらを見ていた。その目は濃い海の色をしていて、どこか不安そうにゆらゆらと潤んでいる。
「そんなことないよ。今は病院にいるけど、もうすぐ帰ってくるよ。おねーさんを信じなさい」
「……ほんとに?」
「嘘だったら、――ちゃんの欲しいもの、買ってあげる」
女性は歩み寄ると、その子の頭に手を乗せた。しばらくされるがままになっていた男の子は、やがて口角を上げて笑う。
「じゃあ、約束」
すると男の子は乗せられていた女性の手を取ると、その指先に素早く口付けた。
(……ええ!)
春菜と夢の中の女性が同調したかのように、慌てて手を引く。
その反応を前に、男の子はけらけらと明るく笑った。
「まもるちゃん、今、何を…!」
「約束の儀式。父さんが母さんと約束する時は、いつもしてるよ。本当は手じゃなくて――」
「はいはい! 遊ぼうねえー」
笑顔でその先を聞き流す女性を、男の子は不満げに見つめていた。だがすぐに彼女の後を追うように走り始める。
再び強い草の匂いがした。
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(……夢)
春菜が目を覚ますと、辺りには見慣れた自分の部屋が広がっていた。
どうやら制服のまま寝入ってしまったらしく、室内は真っ暗になっている。おそらく夕食に起こしに来た母親からもスルーされたようだ、と春菜はゆっくりと体を起こした。
だが窓辺に目を向けた瞬間、ひぐと驚きの言葉を呑み込む。
(……寝てる?)
月の光が差し込む出窓に、死神が座っていた。
しかもいつもの不敵な笑いは無く、あろうことか顔を伏せ、目を瞑っている状態だ。




