すべて過去になる、僕の気持ちは
「お前が、いてくれたから」
「……?」
「俺は……知らない所とか、逃げ場の無い所とかがダメで。今日の試合はうちの体育館だから少しはましだと思ったんだが、やっぱり緊張してしまって。……でもあの時、観客席に、お前の姿が見えた」
津田がそれをどんな顔で言っているのか、見ることが出来ない。ただ小さく、何かを確かめるような穏やかな声で囁かれた。
「そこでああ、ここは学校なんだ、と思った。後の事は……正直よく覚えていない」
「先輩?」
「……それだけだ」
いつの間にか、自宅の坂の下にあるバス停へ到着した。春菜が続きを尋ねる間もなく、津田はそれだけ言い残すとすぐに走り去った。
(学校と思った……私がいたから……?)
家に着くまでの坂道を上りながら、春菜は津田の言葉を反芻していた。
春菜を見て、緊張が解けたということだろうか。言葉の真意がつかめない。だが少なくとも迷惑にはなっていないようだから、今はそれだけで十分だ。
そう納得し、春菜は満足げに微笑む。すると突然人影が現れた。
「……?」
わずかな夕日に照らし出されたのは、柔らかそうな髪と縁のない眼鏡をした、春菜と同じ高校の男子生徒だった。ネクタイの色が青色なので一年生だろう。
彼は春菜をじっと睨みつけると、苛立ったように口を開いた。
「今日、剣道部の試合だったんですね」
「え、はい。そうですけど……」
「それなら、一言言ってくれれば、俺だって」
「え? ええと一年生だよね? ごめんね、今度から聞いてくれれば教えるから」
そこで彼はさらに眉を寄せた。会話が噛み合っていない、と言いたげだ。
「先輩? 一体何の話をしてるんです」
「え? あの、剣道部の試合が見たかったんだよね? もし入部希望なら知り合いがいるから紹介も出来るし……」
「いい加減にしてください!」
すると彼は、春菜の腕を強く掴んだ。怒気を孕んではいるものの、どこか縋るような――恐れるような目で春菜を見つめてくる。
「ノート、見てくれなかったんですか? 俺がどんな気持ちであれを書いたかと」
「あ、あれって?」
「……まさか、見てないんですか? 俺、学校でずっと待っていたのに……」
「ご、ごめんなさい! その、ええと、……誰かな?」
その瞬間、彼の顔は絶望に染まった。
思わず目を見張る春菜を直視したまま、どこか別の違う誰かを探しているような、やり切れない視線を揺らしている。
だが春菜を捉える力が、少しだけ強くなった。
「先輩、俺です。後輩の森山純です」
「……」
「からかうのは止めて下さい。俺です。あなたの後輩で文芸部の」
「確かに私は文芸部だけど、あなたのことは、ごめんなさい、その……」
いたたまれない気持ちのまま、春菜は彼を真っ直ぐに見つめ返した。眼鏡のガラス越しに見える彼の瞳は、綺麗な薄茶色をしていたが、今はうっすらと翳っている。
やがて掴まれていた部分から力が抜け、彼は震える手を春菜から離した。
急に怖くなった春菜は、鞄を抱えると逃げるようにその場を離れる。緩やかな坂道のはずなのに、息が苦しい。こんなに、こんなに辛い道だっただろうか。
ちらりと背後を見やる。
天使のような風貌をした彼は、それ以上春菜を追いかけることはせず、ただその場に立ち尽くしていた。
「――好きだったんです、先輩」
アスファルトにぱたり、と涙が零れた。




