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001.今の私と前世の私

後宮ものが書きたくなりました。

でも、後宮に入るのはもう少し先です……。

「はぁっ、はぁっ、はぁっ」

 荒い呼吸が耳にうるさく響く。だが、ここで足を止めるわけにはいかなかった。止まってしまえば、それこそ絶望の時間が待っている。

「どこだ! 花!」

「……っ」

(気安く呼ぶな!)

 第一、《(はな)》というのは本名ではない。《花梨(かりん)》―――両親がつけてくれた名前を易々と呼ばれたくなくて仮の名前を名乗ったはいいものの、その仮の名前もこんな男に呼ばれるのは気持ち悪くてたまらない。

(これって、契約違反じゃないのっ?)

 荷物を運ぶだけ。

 その仕事内容で受けたはずなのに、大きなお屋敷の裏口から出てきた大柄な男は花梨の顔を見るなりにんまり笑い、そのまま腕を掴んできた。乱暴に壁に押し当てられ、激しく後頭部を打ったが、そのまま奥に連れ込まれる前に体当たりをして逃げ出した。

(これって、日本なら児童虐待っ、わいせつ罪っ、暴行罪だってば!)

 心の中で様々な刑罰を叫ぶが、それで現状が変わるわけではない。

 我慢していた涙が、一筋頬を零れ落ちる。

(……わい、怖いっ)

 どうしてこんな思いをしなければならないのか。

 帰りたくても、帰れない。今、この世界が自分が生きている現実なのだと思い知りながら、花梨は必死に足を動かし続けた。






 元々、花梨は東大陸、瑛良(えいら)にある島の生まれだ。

 父は商人で、商売の販路を広げるため、家族で西の大陸にやってきた。

 顔見知りもおらず、後見人もいなかった父はすぐに資金が底をつき、運が悪いことに評判の悪い金貸しから金を借りてしまった。当然、その借金は返すことなく積み重なり、まず、まだ若い母がカタとして連れていかれてしまった。

 母を深く愛していた父はすぐに連れ帰ろうとしたが、反対に半死の怪我を負わされてしまい、結局その怪我がもとで花梨が10歳になる直前に死んでしまった。

 残されたのは花梨と、当時2歳になったばかりの弟だ。

 不幸中の幸いか、この国では13歳未満の身売りは禁止されていた。金貸しは花梨が13歳になってから花街に売るつもりで、最低限の暮らしながら姉弟の面倒を見てくれた。


 そこで、花梨は《花》と呼ばれながら、金貸しが営む花街の中の安宿で下働きを始めた。

 母の手伝いをしていたので最低限の家事はできたし、なにより自分が働かなければ弟が捨てられてしまうというのはわかっていたので、朝から晩まで一生懸命働いた。

 幼い弟は事情もわからないのにとても利口で、三畳ほどしかない狭い下働き用の部屋でおとなしく花梨が戻ってくるのを待っていた。

 食事も満足に食べられないので弟は年齢よりもずいぶん小柄で、言葉数も少ない子だった。それでも花梨は、たった一人の家族である弟がそばにいてくれるだけで頑張れたし、いずれは姉弟二人で暮らすのだと小さな希望を抱いていた。


「使いに行ってこい」

 今日、花梨は13歳になった。陽が落ちる前、安宿の女主に使いを頼まれ、ある屋敷に行って―――見知らぬ男にいきなり腕を掴まれ、壁に体を押し付けられた。まだ13歳、栄養も不足気味の華奢で小柄な花梨は簡単に男に振り回された。

 本当のことを言えば、花梨はある程度覚悟をしていた。親もおらず、財産もなく、手に職もない自分がこのまま下働きだけで生活できるはずがないことを。

 表面的には父の借金を返す必要はないが、評判の悪い金貸しが善意で自分たち姉弟に衣食住を与えてくれるはずがないことを。

 しかし、頭を打ったその瞬間、花梨は溢れるほどの大量の記憶がいっきに頭の中に渦巻いた。

 記憶の主は、藤野香里(ふじのかおり)。花梨はその人物として、日本という全く別の世界で生きていた。

 大学まで行き、卒業して就職して、忙しくも楽しい日々が過ぎていた。

 家族と、友人、同僚たち。多少の悩みはあるものの、充実した日々は香里が32歳まで続き、なぜかその後もやがかかったように記憶は途切れてしまった。多分、藤野香里という人物はそこで死んだのだろう。それが病死か事故かはわからないが、そこで死んだ彼女は、今、ここにいる花梨という人間になった―――。






「いやっ!」

 日本人として生きた記憶がよみがえった瞬間、花梨は理不尽なこの状況を受け入れることができなくなった。そもそも、未成年の子供が親の借金を返さなければならないなんてありえないし、13歳の少女が中年の男相手に体を売るなんてこともあり得ない。

 そう思った途端体は動き、花梨は今必死に逃げている。

「くそっ」

「はっ、はっ」

 男の舌打ちが遠くで聞こえた。

 花梨は小さな路地に入り、ようやく足を止めて背後を見る。荒い息を吐く口を手で押さえながら意識を集中したが、どうやら追いかけてくる気配はなくなったようだ。

「……助かった……」

 そのままへたり込みそうになったが、花梨は唇をかみしめてまた駆け出す。このままここで休んでいては状況はもっと最悪になっていくだけだ。

(私が逃げ出したことをあの金貸しに知られる前に、早く戻らないとっ)

 この世界には携帯電話はおろか、固定電話さえもない。どこかに連絡を取るには手紙か早馬、あるいは直接出向くしかない。あの男の剣幕だと、屋敷に戻ってすぐに金貸しに連絡を取ろうとするだろう。そうしたら、あの狭い三畳間で花梨を待っている弟がどんな目に遭うか。

 人質にするならまだましで、最悪手にかけられてしまうかもしれない。花梨の前世である香里が生きていた日本では信じられないが、この世界では強者が弱者を虐げたり傷つけたりするのは当たり前のことなのだ。法律は、あってないようなものだと、花梨はこの三年間の生活で嫌というほど実感していた。

「待ってて、秀英(しゅうえい)!」

 花梨は男よりも先にと、安宿の自分の部屋に急いだ。

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