なりきり探偵
白髪の老婆と復員軍人の件は、紫乃に黙っていた。まさか夜中に屋敷の周りをうろついていたと、自分から話すこともあるまい、と敬助は考えた。加えて、復員軍人と屋敷の娘の逢引も、依頼とは関係なさそうだったので話さなかった。
それは忍んでいた娘のため、ああ、しかし、なんて美しい三姉妹だろうか。絶世の美女とは、あの三姉妹のことをいうんだろうな、と敬助は思った。
そして、おそらくあの中の一人が、牧場の小屋で逢引していたのだ。往復に二時間も掛けて男に会いに行く。あれだけ美しい娘に惚れられるのだ。妬ましいったらありゃしない、と悶々とする敬助だった。
「先生、気になることがあるんですが」
サトルだ。屋敷から集落へ戻る途中、美千代が押し付けていったのだ。ついて来るなと注意しても言うことを聞かず、いらいらする敬助だった。
「気になる? だったら気にしないことだな」
「いや、そういうことでは」
「お前、人がせっかく助言をだな、してやったというのに」
「人生の悩みとか、そういうのではなく、手紙です。例の手紙」
「手紙?」
敬助には特に疑問はなかった。
「はい。あの脅迫状の手紙ですが、差出人の名前も、消印もなかったって言っていましたよね? ということは、役場を出入りする者以外に、あの手紙を役場の中に投げ込める、もしくは置手紙を残せる人はいないような気がするんです。たぶん島の人間、少なくとも役場を出入りしても不審に思われない人が、脅迫状を送り付けた人物だと思うんですが」
「島の人間? お前は自分で何を言っているのか分かっているのか?」
「はい、観光客を装った人物が、役場の中に手紙を残すのは、まず不可能に近いと思うんです。それは、これから役場へ行けば分かると思いますが」
村役場を訪れた敬助とサトルを迎えたのは、村長と女中の二人だった。女中の幸子は役場の掃除をしに来ていたところ、村長の筆談を手伝うために、村長室に留まるこことなった。
「ここの村役場は戦前までのもので、現在は一時的に島の外に役場が置かれているそうです。国から職員が派遣されるけど、具体的なことは決まらず、村の再建はまだまだこれからだそうです」
説明してくれたのは、村長の筆談を手伝う幸子だ。その後に幸子は自分の言葉で説明を続ける。
「なにしろ、この島には選挙権もありませんから。電気も、電話もなんにもありません。こういうのを喜ばれる観光客の方もいますが、住んでいる方は大変ですよね」
敬助は事前に調べていたので、この島の島民が選挙権を持たないことを知っていた。島に通信手段がないため、現在、国政選挙への参加が制限されているのだ。
「派遣される職員さんというのは、ここに常駐されていないんですか?」
「はい。短い滞在で帰っていかれますね」
村長が紙に書き出す前に、幸子が勝手に喋るのだが、さらに一人喋りを続ける。
「そのうち電気も電話も使えるようになったら、もっと人が増えるって言っていましたけど、どうなんでしょうね。水が充分じゃないから、そんなに人が増えてもらっても困りますけど」
幸子が喋り終えるのを根気強く待って、敬助が質問をする。
「じゃあ、普段、ここの役場にいる人は村長さんお一人ということですか?」
「いえ。そりゃ一人の時もあれば、留守にする時もあります。村長さんは釣りが好きなので、波が穏やかな時は釣りに出掛けられます」
村長はすでに筆を置いていた。きっといつもそうなのだろう、会話を幸子に任せてしまうのだった。
「あとは倉庫代わりにしているので、旅館の人間が物を取りに来たり、観光客の方が遊びに見えたりと色々です」
「遊びに?」
「はい。奥に卓球場があるんです。少しでも娯楽があった方がいいって言うんで、今年の春に用意したんです」
「それは、誰でも遊べるんですか? 予約とかは?」
敬助も村長ではなく、幸子に向かって話すのだった。
「はい。いつでもお好きな時に、お好きな時間だけ、好きに利用できます。こう見えて、あたしが島で一番強いんですから、金田一先生、勝負しませんか? やったことがないなら、あたしが教えますよ」
役場の出入りは自由ということだ。これで手紙の送り主が島の人間に限定できなくなった。しかし送り主が観光客を装っていたのなら、観光客のいない現在の状況というのは、限りなく安全に近いといえるだろう。手紙の送り主を絞り込めないのは残念だが、いくぶん気が楽になった、と思う敬助だった。
あの手紙が脅迫状なのか、それとも単なる悪戯かどうか半信半疑だが、安全であることに越したことはない。一方、予想がはずれたサトルは冴えない顔をしていた。いや、それは、いつもの顔だった。
それにしても、ひと言も、いや一文字も会話に参加しなかった村長の心の中が気になる。残念ながら、その肉付きのいい顔からは表情が読み取れなかった。村長と話をする時は、周りに人がいない時にするべきだ、と心に留める敬助だった。
「次は黒川先生のところへ行きましょう。昨日から気になっていたことがあるので」
役場を出てから発したサトルのひと言である。これには意見が一致した。敬助も気になっていることがあったからだ。例の復員兵だ。村長でもよかったが、幸子の話が止まらなくなりそうだったので、別の人に聞こうと思ったわけだ。
村医の黒川は診察室で敬助とサトルにお茶を出して、読唇で会話ができるように、二人の口元が見えやすい位置に腰掛けた。傍から見れば、診療所を訪れた親子を診察しているように見えることだろう。
「この島も、近隣の島と同じように、戦時中は島にあるものはすべて国に接収されました。強制疎開の命令も出ましたし、実際、ほとんどの者が島を出て行きました」
「島に残った人がいるんですか?」
敬助は口を大きく開き、はっきりと話すのだった。
「ええ、屋敷の大奥さま、奥さま、そして、わたしです」
大奥さまというのが屋敷の裏手の平屋で見た白髪の老婆だろうか、と敬助は考えた。その間も、黒川は話を続ける。
「いや、大奥さまというのが、死ぬなら島で死ぬって言って、命令に応じなかったんですよ。それで奥さまとわたしが一緒に残ることにしたんです」
そこで手を上げて、黒川の視線を引いたのがサトルだ。
「でも、ここら辺は戦局が激しかったと聞きますが、この島は無事だったんですね」
サトルもはっきり話した。
「ああ、そうそう、よく知ってるね」
と黒川が感心してみせた。
「はい。昨日島に着いて役場の建物を見た時、戦前の建物が爆撃を受けずに残っているのを見て思ったんです。この島は戦地にならなかったんだと。見たところ、前線基地にもならなかったようですね」
それが、サトルが昨日から感じていた違和感だったようだ。
「うん。その通りだよ――」
黒川がサトル少年に向かって話す。
「開戦前に軍の人間が来て、視察していたようだけど、どうもこの島は基地に向かないみたいなんだね。まぁ、半分わたしの予想だけれども、見たところ崖に囲まれて要塞に適しているように思うけど、実際は物資の搬入が困難で補給が確保できない。水も不足しているし、兵士を配置するには適さないんだ。さらに海底火山の影響で、大型の船舶は座礁の危険性があり近づけることもできない。下手に兵士を配置しておくと、空襲で逃げ場を失う。だから、この島は無傷で終戦を迎えられたんだ。不便だとばかり思っていた島が無事だったのだから、何がどうなるか分からないもんだね」
と、黒川はほほ笑むのだった。しかし話を聞いているサトルは、同じようにほほ笑み返すことはしなかった。黒川が表情を引き締めて、続ける。
「それとね、やはり硫黄島のおかげだろう。わたしも話を聞いただけだし、軍閥のことや戦略的なことは一切分かりません。しかしね、出征した名もなき兵士たちは別じゃないか。わたしが考えるのは、その死んでいった者たちのことだけでね、硫黄島で戦ってくれた人たちがいたから、今の自分がいるんだと、少なくともこの辺の島に生まれた人間はみんな思っているんじゃないかな。硫黄島がなかったら、自分たちの島だったとね」
そう言って、黒川は遠くを見つめて、さらに続ける。
「今でも、わたしら島民は、硫黄島の方に足を向けて眠れません。朝と晩にはお供え物をして、手を合わせています。亡くなった人たちの気持ちを考えれば、それが自然なことだと考えられるわけでね。たかが日本の島ひとつ、と思う者もいるかもしれないが、それで救われる命もあるんだな」
そこで、話が途切れた。
黒川は思い出しているのか、それとも考えているのか、手にした湯呑を見つめたまま固まるのだった。これでは話し掛けても唇の動きが伝わらないと思い、敬助は黙っていた。
「金田一先生、尋ねたいことがあるんじゃないですか?」
と、サトルが敬助を促した。
「え? ああ、しかし」
「なんですか?」
どうやら黒川は、気配を察したようだ。
「ええ、ちょっと黒川先生にお尋ねしたいんですが」
「はい。なんでしょう?」
「この島には復員してきたばかりの人がいるようですね。それが誰なのか、教えていただきたいんです」
「復員? 復員軍人のことですかな?」
驚きというよりも、黒川は意味が通じていない顔をするのだった。
「ええ、もちろんそうです」
「いや、この島に復員軍人はいません。なにしろ、出征した者がいないんですから」
これには驚きを隠せない敬助だった。
「いや、しかしですね、私は昨夜、この目で見たんですよ?」
「誰かと見間違えたんでしょう。どこにその復員軍人のような人はいました?」
――ような人、どうやら復員軍人は本当にいないようである。それでも敬助は、思い出しながら記憶を辿る。
「蒸し風呂の帰り、牧場の小屋です」
それを聞いて、黒川が頷く。
「ああ、あの干し草小屋ですか、だったら勇くんだ。昨日一緒にここへ来たじゃありませんか。いや、しかしね、この島は日が沈んで、雲に覆われると何も見えなくなります。見間違えても不思議じゃありませんよ。きっと勇くんが仕事で着ている作業着か何かだったんでしょう」
佐橋青年? いや、あの青年ではないから気になったのではないか。しかし、復員軍人がいないことは確かなようだ。だったら、あの男は誰だというのだ? 青年に見えそうな体躯をしている者は、この島では限られているではないか。やはり佐橋青年とするのが妥当だろうか。さらに、敬助はもう一つ気になることを尋ねてみることにした。
「先ほど大奥さまの話が出ましたが、その方は今もご健在ですか?」
「ええ、生きていますよ」
よかった。こちらはお化けではなかったようだ、と敬助は安堵するのだった。
「足は悪いんですが、屋敷の娘たちが、よく面倒看ていますよ」
そう言って、黒川は屋敷の娘に感心してみせるのだった。
白髪の老婆はいるが、復員軍人はいない。疑問は残るが、それだけ聞くことができれば充分である。いる者はいて、いない者はいないのだから、そう納得する敬助だった。
黒川の平屋を出たところで、敬助とサトルは別れた。敬助は旅館に戻ってひと眠りすると言い、サトルはまだ見ておきたい場所があると言ったからである。これで金魚のフンもいなくなったと、尻が綺麗になり喜ぶ敬助だった。
敬助を旅館で出迎えたのは、英屋敷の三姉妹だった。
「金田一先生」
三人は綺麗に言葉を揃えて話すのだった。
「やぁ、これはお揃いで、どうしました?」
デレデレになる敬助だった。
「金田一先生を待っていたんですよ」
これも三人揃って答えるのだった。
「それはそれは、あぁ、で、私に何か用でも?」
これには三人とも、照れたように笑うばかりであった。
「先生と、お話がしたいと思ったんです」
と、三人の中で一番髪の長い娘が答えた。
「ああ、それは、こちらこそ喜んで話し相手になりますよ」
また、三人でクスクスと笑い合うのだった。
「金田一先生、先生はわたしたちの名前を、それぞれ言い当てられますか?」
と、髪を肩で切り揃えられた娘が悪戯っ子のような表情で言うのだった。
「ええ、大丈夫だと思います。一番髪の長い方から順番に、久子さん、次が文江さん、そして操さんですね。それと、双子の男の子が義男くんで、女の子の方が伊月ちゃんだ」
「すごい」
敬助の答えに、三人揃って嬉しそうに喜ぶのだった。
「そんなことはありません。ちゃんと名前が覚えやすいようになっているじゃありませんか。ひ、ふ、み、よ、いつ、の順番でね。それで覚えられたんですよ」
「さすが探偵さんですね。名前を言っても、それに気がつく人はなかなかいませんのよ」
と、一番髪の短い操が言った。
「気がつくことができたのは、あなたたちが、とても美しいからです」
これに、頬を染めて笑う三姉妹だった。
「ところで先生、これからのご予定は?」
久子の言葉に、三姉妹が一緒になって、敬助の顔を見上げるのだった。
「いや、特にはありませんが」
本当は寝不足の上、疲れており、昼寝で体調を整えようと思っていたのだが、男のスケベ心を大いに刺激する久子の問いに、敬助は予定を改めることにしたというわけだ。
「でしたら、わたしが先生を首山へ案内しますわ」
久子の言葉に、すかさず文江が駄々をこねる。
「おねえさま、ずるいずるい。金田一先生をひとり占めなさるなんて、おねえさまのいけず。はじめに金田一先生を首山に案内すると言ったのは、わたしなのに」
敬助は、自分を取り合う状況を愉しみつつ、「みんなで首山へ行こう」とは言わず、結局、今日一日は久子に島を案内してもらい、明日は文江と一緒に過ごすという案を提案し、それを三姉妹に、ほくほく顔で納得させたのだった。