宵越し探偵
月明かりに照らされた懐中時計の短針は、今にも真上を指そうとしていた。
どうやら変な時間に目を覚ましたようだ。これからどうしたものか、こう、はっきりと目が冴えたのでは、もうひと眠りとはいかない。夜明けまで四、五時間といったところか、それまで島も目を覚まさないだろう。体調は悪くないが、まだ身体に酒は残っている。汗をかいて酒を抜くとするかと、そう思って敬助は布団から抜け出した。
夜中でも蒸し風呂を利用できる、というのは美千代から聞いて知っていた。場所までは聞いていないが、探せばなんとかなるだろう。幸い携帯用のランプも部屋に常備されてある。外を歩くには月明かりだけで充分だが、暗い場所があるかもしれないと思って、一応持参するのだった。
港から集落まで道は一本だった。どうやら屋敷までも、道は一本道のようである。旅館のある集落から屋敷に向かって歩いて行くと、ふたたび道幅は狭くなった。夜の道は渓谷の底どころではなく、地獄の底を這うようだった。
しばらく歩くと開けた土地が見えてきた。どうやらそこが牧場のようだ。右手に牧場の広大な土地を見ながらしばらく歩くと、やがて二股の道に出くわして、蒸し風呂温泉の方向を指し示す看板がしっかり掲げられているのが確認できた。それを見て、この島もすっかり観光地になっているんだ、と思う敬助だった。
蒸し風呂温泉は火山の噴気孔に小屋掛けされており、小屋の中は常に自然の地熱蒸気が霧状に吹き出している。小屋は男女で別れており、二十四時間いつでも利用できるようになっていた。
男小屋も女小屋も大きさは同じくらいだが、場所は離れている。小屋の横に衣服を脱ぐ場所があるが、仕切りが一枚あるだけで、外にいるのと変わらない。女小屋の方も同じ構造だろうかと気になったが、まずは蒸し風呂だ。
中へ入り、戸をぴたっと閉め切ると、すぐに全身から汗が吹き出す。これはいいと思いつつ、手ぬぐいの一本も持参しなかったことを敬助は悔やんだ。美千代の話では、室内が最高で六十度まで蒸されると聞いた。だから室温は、換気を利用して自分で調節するようになっているのだった。
五分か十分だろうか、限界まで達したところで小屋を出て、外にある水瓶の水を頭からかぶった。気持ちがいい。敬助はまた蒸し風呂へ入って、それを何度か繰り返そうかと思ったが、そんなに水を無駄にできないなと思い、一回でやめておくことにした。
首狩り島は、場所によって水が出るところと出ないところがあり、深刻な水不足までとはいかないまでも、水が貴重であることに変わりないと聞いていた。水瓶が置かれている場所は水のないところなので、おそらくだが、ここの水は近くの牧場の方から運搬しているのだろう。骨が折れそうな仕事である。それも佐橋青年の仕事だろうか、敬助はそんなことを思って蒸し風呂を後にするのだった。
さて、まだ夜明けまで時間はある。敬助は旅館に戻って焼酎の残りを胃の腑へ片付けようと思い、旅館へと引き返すことにした。ところが、牧場にある小屋の中に明かりが灯るのを見つけ、足をとめた。その小屋は、おそらく冬用の飼料となる干し草を貯えておく小屋だと思うが、そのいくつかある小屋の中の一つに、確かに一瞬、明かりが灯ったのだ。
そう、それは一瞬の出来事だった。明かりが灯ったと思ったら、すぐに消えたのだ。牛飼いの佐橋青年が仕事でもしているのかと思ったが、なにしろまだ夜中である。しかも頭から冷水をかぶったばかりだ。目の錯覚でもないだろう。敬助は不審に思うではなく、単純に好奇心から小屋へ足を向けるのだった。
しかし、こちらから向かう前に、小屋の中から人影が二人も現れたのである。月明かりではっきりとは見えないが、抱き合って口づけを交わしたところを見ると、男と女であることが分かった。
女は頭巾をほっかむりしていて、男の方は軍服を着ていた、となると、復員軍人だろうか――この頃は、まだ復員軍人の帰還が続いていたため、敬助は軍服を着た男を、自然と復員軍人だと思った――女の方がこちらへ来る。
見てはいけないものを見たと思い、敬助は身を隠すのだった。女は夜道をランプも持たずに歩いているが、これはおそらく忍んでいるためだろう。男の方は後で確かめようがあるので、まずは女の方の身元を確かめるべく、後をつけるのだった。
探偵にも色々あるが、敬助の仕事は身辺調査や人探しが主たるものだった。それは望んでそうなったわけではなく、依頼が偏った結果、そうなっただけである。
そういうわけで、人の後をつけるのはお手のもの、とはいえ、よほど警戒しているのか、女は何度も後ろを振り返るのだった。
結果、敬助が英屋敷に辿り着いた時には、すでに女の姿を完全に見失っていた。これは島の道が見通しの利く一本道で、さらに夜中の静まり返った時間だったため、容易に距離をつめることができなかったためである。
しかし、屋敷の女が夜中に人目を忍んで逢引していたという情報は収穫だった。ひょっとしたら、屋敷の依頼は逢引相手を特定することかもしれないからである。
だとしたら尾行する相手をとり違えたか、いや、その程度の依頼内容に大枚を叩く者もおるまい。しかし無駄ではなかったな、と思う敬助だった。
ところで、いま敬助は英屋敷の裏手に立っている。そこで思案を重ねていたわけだが、先ほどから敬助の耳に、どこからともなく、何かと何かがこすれるような音が聞こえているのだった。
シャッ、シャッ、シャッ……
それはまるで闇夜をちょっとずつ削り取るような、一定の間隔で、鳴り止まず、みぞおちから、肝へと響き渡るような音。
敬助は音のする方を探ろうとするが、それがどこから聞こえてくるのか分からず、顔を右に向けても、左に向けても、同じように聞こえてくるのだった。
シャッ、シャッ、シャッ……
どうやら屋敷の中からではないようだ。
敬助が屋敷に背を向けた。
それから裏手へと歩を進める。
音の正体を探ろうというわけだ。
裏手には平屋が一軒。
屋敷に隣接して建っていた。
一見、屋敷の離れのように思える。
しかし、渡り廊下はなかった。
その平屋の前で、敬助は耳をそばだてる。
が、中から物音は聞こえてこなかった。
そこで敬助はさらに裏手の奥へと歩を進める。
探偵の性だろうか。
音の正体を突き止めようと思ったわけだ。
そこからは、一足ごとに音が迫る。
シャッ、シャッ、シャッ……
音を頼りに歩く。
見えて来たのは、巨大な壁。
いや、聳え立つ崖。
そこが行き止まりだった。
音は鳴り止まず、常に一定の間隔で続いている。
そこで敬助は周囲を見渡す。
まず目につくのは、崖の穴。
人が通れそうな穴が開いているということだ。
どうやらそこが北側の洞穴で間違いなさそうだ。
しかし、音は洞穴の中からではなかった。
その音は、洞穴の近くに建つ古い平屋。
その中から聞こえてくるのだった。
シャッ、シャッ、シャッ……
敬助は忍び足で、平屋にそっと近づく。
蝋燭の明かりが漏れている。
中に誰かいるのは間違いない。
姿が見られぬように、近づく。
屈んで窓の下まで忍び足で歩いた。
額から汗が流れ、脇の下も汗でびっしょりだ。
そこで一旦、息が整うのを待つ。
頭を持ち上げれば、窓から中が見えるはずだ。
その間も、
シャッ、シャッ、シャッ……
敬助は意を決する。
おそるおそる平屋の中をのぞく。
そこに包丁を研ぐ白髪の老婆の姿があった!
シャッ、シャッ、シャッ……
驚きのあまり、すぐさま頭を下げた。
気づかれてはいないだろうか。
敬助は怖かった。
早くこの場から離れよう。
その瞬間、音が鳴りやむ。
静寂。
動いたら、殺される、そんな怖さだった。
息を殺す。
額の汗が、あご先へと伝う。
ふうっと、蝋燭の明かりが消えた。
そこで平屋の内と外の明るさが反転する。
月明かりに照らされているのは敬助の方だった。
何も音がしない。
敬助は静かに窓を見上げた。
すると目の前に老婆の顔があった。
そして、その老婆と完全に目が合った。
「見たな」
そこで、老婆の首が伸びる。
腰を抜かした状態で、敬助はあとずさる。
それを追い掛けるように老婆の首が更に伸びる。
そこから先は何も憶えていない。
ただ、旅館に戻った時、敬助の全身は汗まみれだったことだけは確かだった。さらに、どちらの手にもランプは握られていないことに気がつくのだった。