金曜日の朝
美千代は朝も明け切らぬうちから目を覚ました。島に来てから目覚めが早い。また眠りも浅く感じられた。それでも昨日と同様、今日も何事もなく朝を迎えられたことに安堵する美千代だった。
それから隣で眠るサトルの顔を見る。薄闇の中、羊のような顔をして眠っているサトルの顔が見えた。クセっ毛でまとまりのない髪が、美千代に羊を連想させるのだ。
見るからに優しいこの子が、殺人事件に興味を持ってしまったとは、どうにも信じられない。美千代は、サトルを探偵事務所の仕事に就かせたことを後悔し始めていた。
弟をこんな事件に巻き込むために誘ったわけではないのだ。事件のただ中で、まるで自己を獲得したかのように生き生きとする弟に尋常ならざるものを感じているからだ。
それは思いたくはないが、人を殺めた犯人と同質の人間に思えたのだ。それは他ならぬ美千代にとっての自己投影にすぎないのだが、この子だけは違うと信じていたかった。
この子には、心を痛めるような事件と係わり合うことのない人生を歩んでほしいと願っている。それができるなら、無関心な人間でもいいとさえ思う。私は別にして、この子だけは助けてあげたいのだ。
美千代がそんなことを考えていた、その時、サトルから目を逸らした視界の隅に、動く何かを捉えた。
それは窓の外だ。
すかさず窓の外に顔を向けた。
窓の外には和風旅館の庭が広がっている。
そこで美千代は信じられないものを目にした。
漂うように、揺れる炎。
「火の玉」
美千代が思わず口にした。口にしたものの、それが現実的ではないことを自覚するのだった。
その炎? いや、光が一瞬で消えた。そんなことがあるだろうか? もし火の玉だとすると、生まれて初めての経験だ。
いや、でも見間違いということもある。なにしろ一瞬だった。それは消えてしまったかと思うほどの出来事で、いまいち確信が持てない。
しかし、それが火の玉ではないと断言することも難しい。あれが人魂というものだろうか? ひょっとして、死体があそこに眠っていると、教えてくれているのか?
いや、美千代には霊感と呼ばれているものがない。お化けは怖いけど、怖いだけだ。自分が人魂を見たとは、どうしても思えないのである。
美千代は、サトルを起こして、いま見たことを説明した。もちろん見間違いや幽霊の可能性も忘れずに。考え、感じたことをそのまま伝えた。
「本当に?」
「うん、一瞬だけど、そう感じた」
「感じた? 見たんじゃないの?」
「だから、見たけど一瞬だから分からないの」
サトルは唸ったが、それ以上は何も聞いてこなかった。それから美千代とサトルは着替えを済ませて部屋を出た。
まずは金田一先生を起そうとするが、扉を叩いても、呼び掛けても返事がなかった。すると金田一先生より先に、向かいの部屋の義男くんが顔を出した。眠たい目をこすりながら美千代を見る。
「ごめんなさい。起こしちゃった? 金田一先生を起こしたかったの」
義男くんは、美千代の言葉に首を振り、なんでもないということを伝えようとするのだった。
「サトル、鍵持ってる?」
「うん」
こんな時のために、昨日、美千代が金田一先生の部屋にお邪魔した時に、先生の部屋の合鍵をこっそり拝借してきたのだった。
金田一先生は部屋で眠っており、起こすと不機嫌な顔を見せたが、寝起きが悪いというだけなので、美千代は気にしなかった。
義男くんを連れて四人で食堂へ下りると、すでに番頭さんと幸子さんの姿があった。
「みなさん、早いですね。朝食の支度を終えてから呼びに行こうかと思っていたんですが」
番頭さんは、昨日までと変わらない調子で話した。
金田一先生が説明する。
「それが、美千代の方から話があるというので」
「話というのは?」
「本人に訊いて下さい。私もまだ聞いていませんので」
全員の視線が美千代に集まる。
「いや、あの、話とかではないんです。その、今朝起きたら、窓の外に火の玉を見たもので、それが気になったので」
「火の玉ですか」
そう言って、番頭さんが頭をかいた。これには、その場にいた者全員がなんとも言えない感じになるのだった。番頭さんは美千代の話を信じていない様子だ。
「それは部屋の中で灯したランプが、窓に反射したのを見ただけでは?」
「いいえ、ランプは使っていません。それにあれは窓の外の光でした。火の玉なんて、私も信じられないんですが」
「信じられない? 確かに見たんじゃないんですか?」
番頭さんが念を押した。
そう言われると美千代は困ってしまうのだ。自分が見たのはほんの一瞬で、確信が持てるほどはっきり見たわけではないからだ。美千代の沈黙に見かねた番頭さんが気遣うように話す。
「なにしろこういう事態です。何をどう見間違えたって不思議じゃありません。たとえ気のせいでも、感じたり思ったりしたことは口にしようじゃありませんか」
番頭さんから完全に気のせいにされてしまい、すっかり元気をなくす美千代だった。それから四人は食堂に残り、番頭さんと幸子さんは朝食の支度をはじめた。
金田一先生は腕を組んで目をつぶっていた。睡眠の続きでもしているのだろうか。義男くんは食堂に置いてある本を読む。佐橋さんは夜明け前に牧場へ行ったと、番頭さんから話があった。サトルは金田一先生が預かっている村長さんの手帳の中身を改めていた。
「それはもう金田一先生が中を確認したはずでしょう」
「先生は手帳に書かれてあるものしか確認していない。僕は手帳の中に書かれてないものまで探すべきだと思うんだ」
「どう違うの?」
「たとえば、ここ」
そう言って、サトルが美千代に手帳を見せる。指し示したのは島狩りの朝、大広間で島民が顔を揃えた時の、黒川先生が前日の行動として読み上げた村長さんの行動記録だった。
「あっ」
「うん。四時の部分が黒く塗りつぶされている。これは僕とおねえちゃんが役場へ行った一時間後だよ。村長さんは、なんでその部分を塗りつぶしてしまったのかな?」
「書き間違えたとか?」
サトルが首を捻る。
「うん。それも含めて気になってしまう。書き間違えじゃないとしたら、そこで誰かと会っていたとも考えられるし、そうなると、それに合わせて嘘をついている人がいるかもしれない。いや、村長さんの行動が発表されたのは最後の最後だから、村長さんが誰かの嘘に合わせたのかもしれないね」
「それで慌てて塗りつぶしたということ?」
「それも可能性の一つだね。他にも、ところどころ走り書きがあるんだけど……」
それには自信なさそうに話すサトルだった。
「それは、村長さんは筆談で会話をするんだからおかしくないじゃない」
当然とばかりに美千代は答えた。
「うん。だったらもっと会話文があってもおかしくないんだよ。ほら、最初に村長さんと話した言葉とか、無線機の故障を報告した時の会話はそのまま残っている。だったら、こういう会話がもっと書かれてあってもいいはずなんだ。それがどういうことなのか、会話用の手帳は別に持っているのかな? もうちょっと調べてみないと分からないね」
サトルは手帳一つで、いくつもの疑問を持った。これはサトルがどうこうではなく、今も寝息を立てて気持ちよさそうに眠っている金田一先生がダメなのだ。これでは節穴ではないか、と思う美千代だった。基本的に尾行調査以外は頭が働かない人なのである。
朝食が出来上がり、全員揃って食事をするために幸子さんが清さんを呼びに行った。ちなみに佐橋さんは前述の通り、この時間は牧場にいる。
しかし清さんを呼びに行った幸子さんだが、食堂に戻ってきた時も一人だった。その理由について不安そうに報告する。
「あの、何度お呼びしても返事がないんですけど」
「え? ちゃんと起こしたのかい?」
番頭さんが尋ねた。
「はい。いえ、ちゃんとかどうかは、ちょっと分かりませんけど」
「そうか、だったらわたしが起こしに行こう。さっちゃんは先に食べてるといいよ」
そう言って、番頭さんは清さんをちゃんと起こしに行くのだった。
しばらくして、やはり番頭さんも一人で食堂に戻って来た。幸子さんと違う点は、手に紙を一枚持っていたことだ。それは客室に常備されている紙である。
「まったく清くんという人は――」
番頭さんが呆れる。
「勝手なことをしてくれましたよ。返事がないので扉を開けてみたんです。すると鍵が掛かっていなくて、清くんの姿もありませんでした。それで机には紙が一枚。これです」
そう言って、その髪を全員に見せる。
「『洞穴と港へ行ってきます。心配しないで下さい。清』そう書かれてあります。置手紙のつもりでしょうか? まったく清くんは昔からやることが変わらないんだ。もう放っておきましょう。何もわたしたちがわざわざ捜しに行く必要はありませんよ。先にご飯を食べてしまいましょう」
呆れているのは番頭さんだけではなかった。この場にいる誰もが同じ気持ちだった。ただ一人、サトルを除いては。彼だけがもどかしいような表情を浮かべているのだった。
そして食事を終えた時、サトルが疑問を口にした。
「あの」
「はい?」
番頭さんがサトルの言葉を受けた。
「馬渡さんは、どこから旅館を出たんでしょうか? 出入り口の施錠は番頭さんが管理しているんですよね?」
番頭さんが得心する。
「ああ、言われてみれば、そうですね。どこかの窓を開けて出て行ったのかもしれません。だとしたら鍵は掛かっていない窓がどこかにあるはずだ。まったく、一人の勝手な行動で旅館の安全が損なわれてしまうんだ。結局、こうして全員に迷惑を掛けてしまうんだもんな」
途中から独り言になっていた番頭さんだが、一旦切り替える。
「いいでしょう、わたしが一人で調べてきます。何かあるといけないので、みなさんはここで固まっていて下さい」
そう言って、食堂を出て行った。
しばらくして戻ってきた番頭さんの手には、先ほどと違う紙が握られていた。
「ええ、まず清くんが出て行った窓は分かりました。一階の客室です。やはり鍵が掛かっていませんでした。そこはわたしが前日に施錠を確認しているので、最初から開いていたということは考えられません。清くんはそこから旅館を出たんですね」
そこで、一旦言葉を切る。ここには番頭さんの他に、義男くん、幸子さん、金田一先生、美千代、そしてサトルの五人がいるけど、誰も口を挟まず黙って番頭さんの話を聞いていた。番頭さんが続ける。
「それとは別に、この紙が玄関の扉の隙間に挟まっていました。心当たりのある方はいますか?」
「何が書かれてあるんですか?」
金田一先生が訊き返した。
「ええ、金田一先生、それが奇妙なんです。悪趣味なので、読むのも躊躇われますが、いいですか? 『血塗るべき、時は来たりて、伊豆の月、首は首なれ、身は身なれ』と書かれてあります」
「あっ!」
美千代とサトルが同時に声を発した。
「どうされました? 沢村さん」
「それは……、金田一先生、どうしますか?」
美千代は金田一先生に判断を委ねた。
「金田一先生、この手紙について、何か知っているんですか?」
番頭さんは美千代ではなく、金田一先生に尋ねた。
「ええ、知っています。このまま隠しておいても仕方ありません。話してしまいましょう。実はその手紙こそ、我々がこの島へ来た理由なんです。その手紙が奥さまの元へ届けられたのが、今から二週間近く前で、その脅迫状を受け取った奥さまが、我々に調査を依頼したわけです」
番頭さんが悔しがる。
「なぜ、それをもっと早く言って下さらなかったんですか?」
「それは、奥さまが話さなかったからですよ」
それで納得するのが首狩り島の住人だ。奥さまの判断ならばと、黙ってしまう番頭さんだった。金田一先生が続ける。
「奥さまは、いや、我々も手紙の脅迫状については、何かの悪戯だと思っていました。しかし、実際に事件が起こってしまった。それも予想をはるかに超える出来事で、誰がこうも島の人間が殺されていくと想像しますか? これは人知を超えているではありませんか」
金田一敬助が真摯に訴える。
「我々は完全に裏を掛かれたんです。脅迫状の真ん中に伊豆の月とありますね、それを奥さまは伊月ちゃんのことだと判断した。結果的に、それがまずかった」
「ああ、それで奥さまは伊月ちゃんと二人で屋敷に立て籠ったわけですね」
と番頭さんは合点がいったという顔だ。
「そうです。しかし、とんだ早とちりですよ。犯人の狙いは伊月ちゃんの殺害だけではなかったわけですからね。そのことをもっと早く公表していれば、と思うのは後の祭りですね。昨日改めて奥さまと二人で話し合いましたが、そこで警察の到着を待つしかないと結論を出したわけです。それが一番安全だと仰っていましたからね。しかし、脅迫状が他の者を殺すための陽動作戦であったならば、まんまと引っ掛かってしまったということになるわけで、やはり失態でした」
番頭さんは納得するも、新たに疑問を呈す。
「だったら、この脅迫状が旅館に届いたというのは、どういうことなんでしょうか? 屋敷の二人は無事なんですかね?」
必死な表情の番頭さんとは対照的に、金田一先生は涼しい顔をして言う。
「なるほど。ならば、それこそが犯人の罠なのかもしれませんね。陽動作戦だと推理させて、その実、犯人の狙いは依然として屋敷の中にいる奥さまと伊月ちゃんなのかもしれません。現在は屋敷に立て籠っていて手出しができない状況ですが、そこで旅館に脅迫状を届けることで、我々を屋敷に誘き出し、屋敷の扉をこじ開けようとしているとも考えられるわけです」
「なるほど、充分考えられますね」
と番頭さんは納得するのだった。
「しかし――」
そこで金田一先生が自説に異を唱える。
「それが奥さまの持っていた脅迫状だということも考えられます」
「え? どういうことですか?」
と番頭さんが訊き返した。
「はい。つまり奥さまが持っていた脅迫状がここにあるということは、すでに屋敷の扉は破られているのかもしれません。それは――」
そこで金田一先生が言葉に詰まった。
金田一先生だけではなく、その場の誰しも想像したはずだ。それはつまり奥さまはもう殺害されていると。だからこそ、ここに脅迫状が存在しているというわけだ。
ただし、それは脅迫状が一枚しかないという前提の話だと、美千代は考えるのだった。この目で脅迫状を見たけど、さすがに以前見せてもらった脅迫状と同一であるかは判断できなかったからだ。
それから金田一先生の長い熟考があったが、やがて決心する。
「奥さまと伊月ちゃんの無事を確認しに行きましょう。私としても依頼人を放っておくわけにもいきませんからね。屋敷が無事なら、無理に鍵を開けさせることもありませんし、それで引き返してくればいいわけです。それならば犯人の罠に引っ掛かることもないでしょうからね」
そう言って、立ち上がった。金田一先生にしては珍しく積極的な行動だ。
話し合いの結果、佐橋さんと清さんが不在であることから、彼らが戻ってきた時のことを考え、番頭さんと幸子さんは旅館に残ることになった。
屋敷に向かうのは、探偵と依頼人という関係から金田一探偵事務所の三人と、それに妹の安否を気に掛ける義男くんも自発的に加わり、四人で屋敷へ向かうこととなった。
出発前の約束事として、屋敷に異変がなかった場合は、昼の十二時までに旅館に戻るということを決めた。それと絶対に勝手な行動をしないということを誓い合った。




