閑話
番頭さんの呼ぶ声で、幸子さんは目を覚ました。その時、美千代は幸子さんの部屋で窓の外を眺めていた。何を考えるでもなく、大きな夏空を見上げていたのである。
それから美千代は、幸子さんと一緒に旅館の一階に下りて、食堂で番頭さんが作ってくれた朝食を三人で食べた。三人でいても会話はなく、美千代はひたすら屋敷へ行ったサトルたちの帰りを待っていた。
幸子さんは一言も喋らず、番頭さんは食事の後片付けをしたり、食後にお茶を淹れてくれたり、なにかと身の周りを忙しくして紛らわそうとしている感じだった。
その間、美千代は安心を肌で感じていた。ここで幸子さんや番頭さんと一緒にいる限りは、絶対に何事も起こらないような気がしたのだ。これで土曜日までここに全員でいれば、もう二度と昨日までの惨劇は起きない。いや、起こさないという前向きな気持ちが湧いてくるのだった。
あとは屋敷へ行った人たちが全員無事に帰ってくることを祈るばかりである。そんなことを美千代が考えているところへ、ちょうど佐橋さんが義男くんを連れて帰ってきた。
食堂で番頭さんが二人に冷えた水を出して、佐橋さんに尋ねる。
「どうして義男くんが、ここへ?」
「奥さまに頼まれました。土曜日の連絡船が来るまで、義男くんを旅館で預かってほしいと。奥さまは伊月ちゃんと二人で屋敷に籠っています。完全に出入り口を閉ざしているので、しばらく中とは連絡が取れないと思います」
「そうか、うん、それなら、義男くんの部屋も用意しよう」
瞬時に状況を理解する番頭さんだった。
「あの、奥さまと伊月ちゃんは、二人きりで大丈夫なんでしょうか?」
美千代が思わず不安を口にした。それに番頭さんが微笑みながら答える。
「いや、むしろ安心できます。台風除けで屋敷の出入り口を塞いでしまえば、鉞でも持っていない限り、ちょっとやそっとのことでは手出しできませんからね。吉右衛門さんというのは、よほど心配症だったのでしょう、あの屋敷は相当頑丈な造りになっていますから。うん、これで屋敷は安全だ」
美千代がホッと胸をなで下ろした。今の話を聞いて、だいぶ気持ちが楽になった。しかし、なぜ義男くんが一緒ではないのだろうか? 屋敷が安全ならば、義男くんも屋敷に置いておいた方がいいではないか。そのことを、さすがに義男くんの前で尋ねるわけにもいかず、我慢する美千代だった。
「それはそうと、勇くん、金田一先生と他の二人は一緒じゃなかったの?」
番頭さんが話を変えた。
「屋敷を出る時は一緒だったんですが、金田一先生とサトルくんは事件の調査をされるようで、その場で別れてしまいました。その後に清さんも二人が気になるとかで、金田一先生のところへ行ってしまいました。それでぼくたちが先に旅館へ着いたんです」
「事件の調査とは、どういう調査かな?」
番頭さんがさらに尋ねた。
「いや、どういう調査かは分かりません。ただ、神主さんの遺体のある庭の方へ向かいましたね」
サトルだ。美千代はそうに違いないと思った。きっとサトルが金田一先生を引っ張っていったのだろう。金田一先生が自分から殺人事件の調査に乗り出すとは思えないからだ。
なりゆきで脅迫状の件は引き受けたものの、それは事件を未然に防ぐための仕事であり、殺人が起こってしまえば、事件は警察の手に委ねられるものと考える。だから先生は早々に事件から下りるはず。
特に先生は、この手の事件に係わるのが嫌いなはずだ。ましてや事件の当事者ならば、なおさら……。
それにしても、先ほどからやたらと義男くんと目が合う。視線を感じているのは美千代の方だ。義男くんが見つめていて、それに気がついて義男くんの方を見ると、途端に義男くんは目を逸らしてしまうのだった。
それで一旦視線を外すが、しばらくして、また義男くんが見てくるのだ。それはいかにも思春期の男の子らしい表情で、少し気恥ずかしさを覚える美千代だった。
それから番頭さんは、ここにいる人たちに簡単な注意事項を話した。
「昨日も言いましたが、義男くんが来たので、もう一度話しますが、外に出る時は必ずわたしに一言、声を掛けて下さい。勝手に出歩くのだけはやめましょう。姿が見えないというだけで不安になってしまいますからね。それと窓は絶対に開けないように。暑いかもしれませんが、用心に越したことはありません。あとは食料の備蓄は充分なので、お腹が空いた時は遠慮せずに言って下さい。水も充分に用意してあります」
そこで番頭さんが全員の顔を見渡して続ける。
「みなさんの方から何かありますか? 質問でも気になったことでも、なんでも構いません」
佐橋さんが申し訳なさそうに手をあげる。
「あの、山辺さん」
「勇くん、なんだい?」
「はい。早速ですが、外出の許可をいただきたいんですが」
「いま?」
「お願いします。どうしても牛が心配で、日が沈むまでは一緒にいて、見張っていてやりたいんです。じゃないと後悔しそうで」
「ああ、分かるよ。うん、牛は大事だからね。うん、しかし事情が事情だからな」
「いや、こういう時だからこそ、牛に何かあると嫌なんです」
そこで美千代が割って入る。
「でも、一人で出歩くのは、危険じゃないですか?」
「危険だから、牛のそばにいたいんだ」
それから佐橋さんは、美千代を真っ直ぐに見つめる。
「こんなこと言っても、きっと信じてもらえないと思うけど、ぼくの命よりも牧場にいる牛の方が何倍も価値があるんだ。これは嘘でも冗談でもなく、本当のことなんだ」
と言って、佐橋さんは白い歯を見せて、天真爛漫に微笑むのだった。
その言葉で番頭さんも納得したのか、佐橋さんを送り出すために、二人で食堂を出て行ってしまった。
ぼくの命よりも価値がある。佐橋さんはそう言った。美千代にはまったく理解できない気持ちだった。人の命よりも大切な家畜なんてものが、この世に存在するのだろうか。人間の命よりも? これは畜産経験のない自分が理解しようと思っても無理だ。
しかし、畜産業に従事する人でも、佐橋さんのように考える人間がどれだけいるだろう? 佐橋さんの表現が大袈裟なのか、それとも共感が得られる表現なのか、そこの重要な点を計りかねる美千代だった。そのことを、食堂に戻ってきた番頭さんに訊いてみることにした。
「この島の牛って、そんなに価値のあるものなんですか?」
「はい、価値はありますよ。この島にいる牛は伊豆牛の種牛ですから」
「伊豆牛ですか」
番頭さんの顔が誇らしげだ。
「そうです。特別な品種で、この島にしかいません。もし、牧場の牛が死んでしまったら、そこで伊豆牛の歴史が終わってしまうんです。ですから勇くんの言った、自分の命よりも価値があるという例えは、あれはあれで伊豆牛をうまく例えている言葉なんですよ」
そこで番頭さんが笑う。
「まぁ、あくまで例えです。それぐらいの気持ちがあるということですね。わたしも畑仕事をしていますが、やっぱり畑の野菜にも、自分の子供のような感情を持つことがありますよ。まぁ、それも例えばの話ですが」
美千代がさらに尋ねる。
「でも、牧場には、それほどたくさんの牛がいませんでしたけど、それで伊豆牛は守られるんですか?」
「はい、ここで仔牛を育てるわけではないので、牧場にいる牛の数は限られています。生まれたら、すぐに本土の牧場へ送られて、そこで育てられるんですよ。それから市場へ流れるわけです」
「それで、佐橋さんは今朝も牧場へ行かれたんですね」
「ええ、勇くんにとっては事件よりも、種牛を守ることの方が大事なんですね。そこまで思っているのなら、わたしも止められません」
「そうですね」
美千代としても同意するしかなかった。
「島の男も、種牛くらい大事にされるといいんですけど」
と言って、番頭さんは自嘲気味に笑うのだった。それは一瞬だが、島で事件が起こる以前の卑屈な笑い方をする番頭さんの顔だった。
今の話を聞いて、美千代は少しだけ佐橋さんの気持ちが分かったような気がした。それは仕事に対する使命感に近いのではないかと。改めて美千代は、佐橋さんの責任感の強さ、勇敢さに胸を打たれたのだった。
それよりも、先ほどから幸子さんの表情が優れないのが気になった。これまでまったく口を開かず、黙って椅子に腰掛けたままだった。そこで美千代が声を掛ける。
「幸子さん、大丈夫ですか?」
「はい」
幸子さんは短く答えるが、答え通り大丈夫とは思えなかった。
「さっちゃん、もう少し休んだ方がいいかもしれないね」
番頭さんも心配の様子だ。
「いえ。大丈夫です。心配されると、かえって申し訳なくなるので、心配しないで下さい」
幸子さんらしいと思う美千代だった。
「さっちゃん、水を持ってこよう、ね」
と言って、番頭さんが炊事場へ向かった。
「番頭さんって、すごく親切な方なんですね」
美千代が番頭さんに対する印象を素直に口にした。
「はい。とても親切で、お客さまも、みなさん満足されて帰ります。ほんと旅館で働くために生まれてきたような方ですから」
ただ、美千代は思う。昨日までは日陰のような印象だったが、黒川先生や神主さんが亡くなってから、急に日向に出てきたようだと。それは年長者という責任でもあり、私たちを元気づかせるためでもあるのだろう。
ひょっとしたら番頭さん自身、いま現在、相当無理をしているのかもしれない。それでも気遣いだけは絶やさないのだ。それには、ただただ感謝する美千代だった。
「義男くんも、大丈夫? 疲れていない?」
美千代が義男くんの目を見て尋ねた。
するとどうだろう、義男くんは顔を赤らめて頷くのだった。さっきまで美千代の顔を見ていた義男くんは、それきり顔を伏せたまま、美千代と視線を合わそうとしなくなってしまった。これは単なる照れなのだろう、と美千代は思った。
決して自分のことを都会的とは思わないが、それでも島の外から来ているわけで、その島の外から来た人に対して、年頃の男の子が敏感に反応する。それだけのことなのだろう。
きっと自分じゃなくても、他の女の人でも似たような反応を示すはずである。そう冷静に考える美千代であった。しかし頬を染められるのも悪くない、と思ったのも事実だった。
しばらくして金田一先生とサトルと清さんの三人が、英屋敷から旅館へと戻ってきた。
三人を食堂で出迎えた番頭さんは、すぐに冷たい水を用意して、すぐさま質問を投げ掛けた。
「金田一先生、その手に持っている手帳は、ひょっとしたら村長さんの物じゃありませんか?」
「ええ、そうです。遺体の上着の内ポケットに収められていました。犯人を示す、何か手掛かりのようなものが書かれていないかと思いまして」
番頭さんが興奮気味に尋ねる。
「中を確認されたんですか?」
「いや、すべて見たわけではありません。昨日の分の記述だけです。それは、清くんやサトルも確認済みですよ」
番頭さんが畳み掛ける。
「それで、犯人が分かるようなことが、書かれてあったんですか?」
「いや、それが、清くん、僕の代わりに説明してくれないか、きみの方が話がうまい」
美千代が知らないうちに、いつの間にか清さんが金田一先生の片腕になっていた。先生に指名された清さんも嬉しそうである。
「ええ、それでは簡単に説明しますと、村長さんの手帳には時間と、その時の行動しか書かれていませんでした。残念ながら、手帳から犯人が誰であるのか、特定することはできません。しかし、かろうじて殺害時刻だけは特定できました。それは十五分ごとの記録が一時で中断されていることから、村長さんは一時から一時十五分の間に殺されたと見て間違いないということです。それが金田一先生とぼくの見解です」
「ありがとう、清くん」
そう言って、金田一先生が清さんの労をねぎらうのだった。美千代には、それが茶番にしか見えなかった。そんな思いを知るはずのない金田一先生が続ける。
「この手帳は捜査資料として、私が預からせてもらいます。もちろん私には守秘義務があるので、この手帳の内容を他言することはありません。しかし、何か手掛かりになるようなことが書かれてあった場合、その時はちゃんと情報を共有するつもりです」
美千代は、金田一先生の口からはじめて守秘義務という言葉を聞いた。番頭さんが畏まって尋ねる。
「金田一先生は、その、犯人の目星というのが、ついているんでしょうか?」
「それはまだ、調査中としか言えません」
「そうですか、いや、そうですね」
それから金田一先生は番頭さんの案内で二階へ上がって行った。
金田一先生の後ろ姿に、妙な胸騒ぎを覚える美千代だった。




