一時
港に到着した。すでに三人は港の異変に気がついていた。それはあるはずの物が見当たらないからであった。
あるはずの物とは艀だ。この島の場合でいうところの艀は、連絡船からの乗客を乗せ換えて、人を島に運ぶためのものであり、貨物船からの荷物を乗せ換えるためのものであり、釣りのために沖へ出るためのものであり、つまり島にとってなくてはならない生命線のようなものだ。これには黒川先生も慌てに慌てた。
「艀がないよ! こりゃ大変だ。なんだって、こんな荒れた日に……」
誰に対する言葉か分からないが、海に向かって文句をたれるのだった。さらに続ける。
「一体、なにを考えているんだ!」
ついには怒りだす始末だ。
さらに続ける。
「あのバカが!」
と怒り心頭で毒づくのだった。
こういう時、つまり大人の男の人が怒っている時は、あまり係わらないようにした方がいいと考える美千代だった。理性を取り戻すまで少しだけ時間を待つのである。個人差はあるが、ちょっと待つだけでまともに会話ができるようになる。なぜそうするかというと、これまで機嫌が悪い時に話し掛けて良かった試しが一度もなかったからであった。
「いや、すまない。きみたちの前で口にする言葉じゃなかった」
そう言って、黒川先生は微笑むのだった。理性への戻りが早い。やはり知的な人なんだ、と美千代は思った。
「しかし、大丈夫だろうか。沖へ出て、流されたまま帰って来られない、なんてことも考えられるからね。そうかといって、こちらから捜すこともできないし、いやはや、これは参ったな」
黒川先生が自問を繰り返すのだった。
「いや、待てよ……」
空を見上げ、何かを考え始めた。
この場合、黒川先生は読唇で会話を行うため、唐突に口を挟むことはできなかった。だから質問したくても黙っている美千代だった。
「姿が見えないのは、土門くんだけじゃない。これで四人の行方が分かっていないということになる。いなくなったのは人だけじゃないんだ。艀もなくなっている。ということは、もう捜しても無駄かもしれないね」
そう言って、黒川先生は気が抜けたような表情で溜息をついた。
「つまりそれは、殺人を犯して、舟で逃げてしまったということでしょうか?」
美千代が尋ねた。
「そういうことだろうね、簡単に言えば、うん。逃げてどうなるって思うけど、そうすることしか考えられなかったのだろう。浅はかといえばそれまでだが、つらいね、なんとも」
黒川先生は、やりきれないという思いを滲ませるのだった。サトルはずっと黙ったまま首を捻っていた。美千代は何も口にする言葉がなかった。
「お二人には、いや、金田一先生にもとんだ迷惑を掛けてしまって、本当に申し訳ない。人捜しの協力までしてもらっているというのに、牢に閉じ込めてしまうなんて、なんてお詫びしていいものか」
島の代表として謝罪しているような印象だ。
実際に、この黒川先生が島の実務をこなしているように、美千代には見えていた。戦時中だって島に残ったのは、大奥さまと、英紫乃と、目の前にいる黒川先生だけだと、サトルから聞いた。
捜索隊を指揮して自ら陣頭に立つ。これまでの行動は村長さんよりも村長という肩書が相応しいように思える。それでも奥さまには頭が上がらないように見えたので、優秀な参謀のようなものだろうか、と美千代は考えるのだった。
「サトルくん、どうした?」
黒川先生はずっとサトルの行動を目で追っていた。
「なにか気になることでも?」
サトルは、さっきから土門さんが暮らす小屋の方を振り返っていた。
「いえ、一応、小屋の中も調べた方がいいんじゃないかと思いまして」
「ああ、そうだね、書き置きがあるかもしれない」
そう言って、黒川先生は小屋へと向かうのだった。美千代とサトルも後に続く。しかし、小屋の中に土門さんの元気な姿はなかった。
「これは」
黒川先生の呻きだ。
背後にいる美千代とサトルからは声も出ない。
なんと、土門さんは殺されていたのだった!
「ああ、なんていうことをしてくれたんだ」
三人とも立ち尽すだけであった。
死体は腹部を刺されており、絶命していることはひと目で分かった。それに、なんといっても目につくのが、その、露わになっている下腹部……。
「ああ、沢村さん、見ない方がいい」
そう言って、黒川先生は気遣ってくれたが、もうすで美千代は視界で土門さんの遺体を捉えていた。それは、なぜか性器が切り取られているのだった。
「なんだってこんな真似を……」
黒川先生が首を振る。
「こりゃ一体、何があったというんだ」
黒川先生の独り言だ。
「黒川先生、土門さんがいつ亡くなったのか分かりますか?」
美千代が尋ねると、黒川先生は後ろを振り返り、やっと我に返った感じで答えるのだった。
「ああ、そうだね。ちょっと調べてみよう」
それから黒川先生は簡単な検死を行った。
「いや、十二時間以上は確かだが、どの程度かまでは分からないな。昼から夜中であることは間違いないだろうが。いや、勉強不足で申し訳ない」
美千代は黒川先生の勉強不足を責めることはできなかった。検死に関する基礎的な知識も持ち合わせておらず、探偵小説から得た知識も曖昧だからだ。
「サトルくん、どうした?」
黒川先生は、やたらとサトルのことが気になるようである。それはサトルが気を引くような行動をしているからでもあった。
サトルは土間――そこは簡単な炊事場となっているのだが――で、なにやら首を捻っているのだった。
「黒川先生、これを見て下さい」
サトルが指し示したものは、すでに捌いてある魚の切り身だった。
「アオダイだ。この辺では珍しくない魚だよ。刺身にするとうまい魚でね」
黒川先生が簡単に説明した。
「はい。それは昨日、ぼくが昼過ぎにここへ来た時も同じことを聞きました。夕飯は刺身とお酒だけで充分だって言っていたんです。これ、この干からび具合からすると、昨日ぼくが見たアオダイじゃないかと。つまり夕飯を食べなかったのかなって思ったんです」
それを聞いて、黒川先生は何事か考えるのだった。
「うん、まぁ、それは分からないが、いずれにしても、これで二人を殺害して艀で海へ逃げたことは確かだ。可能性としては、まだ三人生きている。うん。でも、これもまだ分からないな」
黒川先生は一人で喋り、一人で納得するのだった。そして、一人でまとめる。
「誰が死んで、誰が生きているのか? そこがまだ分からないからね。それを知る必要がある。ここで話し込んでも仕方がないし、そろそろ行こうか」
サトルは黒川先生の話に納得したのか、それともしていないのか、それは分からないが、何か言いたそうな顔をしているのだけは、美千代には分かった。
それでも、何も言わずに自分で処理してしまうのがいつものサトルだ。案の定、ここでは黙っているのだった。それでも、そろそろ行こうという言葉には賛成のようであった。
そこで三人揃って港小屋を出るのだった。




