十二時
旅館に到着した。屋敷を出てちょうど一時間である。これは早くもなく遅くもなく、標準的な歩きの速度ということだ。ここで番頭さんと幸子さんが別行動となる。
旅館に着くなり、番頭さんが美千代とサトルに携帯用のランプを用意した。南の洞穴の中を探索するためのもので、屋敷で黒川先生が話していたのをちゃんと憶えてくれていたわけだ。美千代とサトルはお礼を言って、そのランプを受け取った。
「屋敷でもちらっと話したが、案外と客室に隠れているかもしれないので、もし見つけたら、あまり刺激しないように頼むよ」
黒川先生から番頭さんへの忠告だった。
「そのことですが、部屋の鍵はなくなっていなかったので、今も誰かが部屋に立て籠っているなんてことはありませんよ」
番頭さんが冷静に説明するのだった。
「そうか、それでも一応、すべての客室を調べてみて下さい」
黒川先生は冷静にお願いするのだった。
「そうですね。隠れるのは無理でも、隠すことは可能ですからね」
あまり愉快な会話ではなかった。また険悪な雰囲気になりそうである。やはり黒川先生と番頭さんはあまりいい相性ではないのだろう。それを察するかのように、黒川先生は幸子さんに声を掛けて、番頭さんとの会話を絶った。
「さっちゃん、さっちゃんもあまり無理をして、はりきりすぎないようにね」
番頭さん以外には優しい、いつもの黒川先生だった。
「はい――」
と返事をしつつ、幸子さんが黒川先生に問い掛ける。
「あの、先生方、傘はお持ちしなくて大丈夫ですかね? 降りそうな気がしますけど」
その場の全員が天を仰ぎ見た。
「いや、どうだろう。港から戻ってくるまでは持ちそうな気はするけど、どうしますか?」
黒川先生は美千代とサトルに尋ねた。
「わたしとサトルは着替えがそれほどないので、よければお借りできますか?」
「そうでしたね。どうも気が回らなくて失礼しました。こういうところがダメなんだな」
そう言って、黒川先生は笑いながら頭をかくのだった。
ずいぶん久し振りに人の笑顔を見た気がする。なんだか、そこで一旦気持ちが軽くなったような気がする美千代だった。そして幸子さんから傘を受け取り、新たな気持ちで港方面へと向かうのだった。