水曜日の朝
この島の日の出と日の入りは東京都心と変わらないので、午前五時には太陽が顔を出す。
美千代が目を覚ました時、サトルは隣でまだ寝息を立てていた。枕が変わっても睡眠時間は変わらないようだ。サトルを起こさぬように静かに着替えて、ランプと手ぬぐいを持って部屋を出た。
廊下を出た美千代は、一応気になったので金田一先生が起きていないか確かめることにした。しかし部屋は内側から鍵は掛かっているが、中にいるはずの金田一先生からは返事がなかった。
昨日の夕方から眠り続けているのだろうか? しかし、それで心配する美千代ではなかった。先生は一日の食事の回数も決まっていなければ、その日の睡眠時間も決まっていないからだ。特に用事もなければ、話したいこともなかったので、早々にその場を離れるのだった。
「本当だ」
旅館を出た美千代が空を見上げて呟いた。
昨日神主さんが、明日は天気が崩れると言っていたが、本当に曇り空になった。これで雨が降れば、予想が的中したということになる。
曇天の下、美千代が旅館を出て向かった先は蒸し風呂である。朝湯を楽しむためだった。それには美千代なりの期待があって、牧場に行けば佐橋さんがすでに働き始めていて、会って話ができるかもしれないと考えたからだ。
しかし牧場に着いても佐橋さんの姿は見当たらなかった。仕方なく蒸し風呂へ向かった美千代だが、そこで思いもよらない経験をすることになる。
服を脱ぎ、全裸になって、小屋の戸に手を掛けて入ろうとすると、薄暗い小屋の中に先客らしき姿が見えるのだ。
あれ? わたし以外に誰かいるのかな?
せっかく人がいない時間を狙ってきたのに。
でも、おかしいよな……。
などと考えつつ、挨拶をする。
「おはようございます」
と、声を掛けるも返事はない。
目が暗闇に慣れていないせいもあるのだろう。
それとも、陰になっているせいだろうか。
その人の顔がよく見えないのだ。
でも、確かに座っている。
壁に寄り掛かっている姿は見えるのだ。
身体の凹凸から女性であることも見て取れた。
美千代は話し掛けようと近づくことにした。
そこで、はじめて顔が見えない理由が分かった。
顔が見えないわけではなかった。
それは首から上がなかったからだった!
息をのんだ瞬間、美千代は慌てて外に出た。
その死体は誰かに殺されたのだ。
外に出て、周りを見渡す。
自分に危険が迫っていないか警戒する。
周囲には誰もいない。
そこで急いで服を着る。
驚くほど冷静だった。
それでも、心臓の音は耳まで届いていた。
誰かを呼びに行かなくてはいけない。
その時、一番近くにいると思われる佐橋さんの顔が浮かんだ。が、どうしても、ここは金田一先生に真っ先に伝えるべきだと考えた。
その前に、もう一度一人で死体を確認しておく必要があると美千代は考えた。ここを離れる間に、何か起こってはいけないし、わずかな時間でも変化を見逃さないためだ。なにより、その死体が一体誰であるかが気になるからだった。
美千代は小屋の周りに人がいないことを確かめ、ランプを持って小屋に入った。その女性の死体はとても美しく、肉付きもほどよい感じから、すぐさま三姉妹の中の一人であることが分かった。
しかし、三姉妹の中から一人を特定するのは困難だった。首は綺麗にすぱっと切り落とされており、肝心の首から上が見当たらないからだ。
髪の長さが分からないので美千代には判別が不可能だった。血は蒸気で綺麗に洗い流されたようだ。下半身に死斑が認められるが、死亡推定時刻までは美千代には分からなかった。
硬直を確かめようかと思ったが、それは黒川先生を呼ぶまで死体に触れない方がいいと考え、そのままにした。背中から襲われる恐怖に耐えられるのはそれまでだった。
小屋を出て、再度周りに人がいないか注意をして、腕時計の時刻を確認する。午前五時半すぎ。走れば余裕で六時前に旅館に着くだろうと考え、美千代は走った。
走りながらも色んなことが頭をよぎる。
お屋敷の人たちは無事だろうか。
誰があんなことをしたのか。
これが脅迫状に書かれていた凶行だろうか。
幸子さんや番頭さんにも伝えないと。
警察はいつ来るのか。
犯人は今もこの島に?
何一つ答えが出なかった。
それでも、そのまま美千代は走り続けた。
美千代の目に旅館が見えてきた時、こちらへ向かって歩いて来る神主さんとばったり出会った。神主さんは走ってくる何者かの姿に、いや、足音に気がついたのだろう、立ち止まって美千代を待ち構えるのだった。
「朝からお急ぎのようだが、どなたかな?」
「探偵助手の沢村です」
美千代は息を切らしながら答えた。
「大変なことが起こりました。黒川先生はもう起きていますか?」
「ああ、ちょうど起きる時間だと思うが、どうされました?」
神主さんが神妙な顔つきで尋ねた。
「理由は後で話します。今すぐ黒川先生を起こして下さい。金田一先生を連れて、後から私も黒川先生のところへ伺いますので」
神主さんが黙って頷いたので、すぐに金田一先生を連れて行くことを繰り返して、美千代は旅館に向かった。
旅館に戻り、金田一先生を叩き起こしたはいいが、死体発見の経緯を簡単に説明した途端、先生の顔に動揺が広がった。
いや、違う。緊張が走った、でもない、狼狽えた、でもない、強張った、でもない、それをうまく言葉にできない美千代だった。
それはともかくとして、サトルを連れて三人で黒川先生の元へ向かう。
探偵一行を出迎えた黒川先生は、起き抜けという感じではなく、すでに身支度を整え終えていた。
美千代が先ほど金田一先生に報告したように、黒川先生と神主さんにも死体発見の経緯を話した。黒川先生は、一度も聞き返すということがなく、すべて正確に聞き取れている、いや、唇が読めている様子だった。
「それじゃ、早いところ現場へ急ぎましょう」
それが話を聞き終えた黒川先生の最初のひと言だった。それから神主さんにはここに残ってもらい、旅館の番頭さんに簡単に説明してもらうようにお願いしてから腰を上げた。
蒸し風呂へ向かう黒川先生を加えた探偵一行の口は重かった。そして、死体を見た瞬間、その口は完全に言葉を失くすのだった。それから黒川先生と金田一先生の間で簡単な話し合いが行われた。
「つまり、警察へは連絡できないということですか?」
「無線が通じないのであれば、そういうことになりますね」
金田一先生の言葉に黒川先生が答えた。
「無線が使えないというのは、確かなんだよな?」
金田一先生は、念を押すように美千代とサトルに尋ねて、サトルは首を縦に振り、「うん」と簡単に返事をするのだった。
「この島には、舟はないのでしょうか? 村長さんが釣りをしていると聞きましたが」
美千代が黒川先生に尋ねた。
「いや、あるにはありますがね、動力のない艀ですからね、それを漕いで八丈本島へ行くことはできなくもないでしょうが、沖へ出るのは波を見てみなければなんとも言えません。いや、たとえ波が穏やかでも、沖へ出てしまえば海流に流されてしまうかもしれませんのでね。それより土曜日の連絡船を待った方が賢明かもしれないと考えるわけですよ。連絡船が来れば無線で本島へ連絡できます。それなら命の危険を冒す必要はないわけで、そこはもう少し慎重に決めるべきだと思いますね」
黒川先生が苦しげに答えるのだった。
これがこの島の時間なのだ。事件が起こり、警察へ通報する、そんな当たり前の手続きができない状況に、美千代は焦る気持ちをどうにも抑えられないでいた。
「それにね、金田一先生、ここはまず状況を把握してからだと思うんですが、つまり、その、わたしが何を言いたいのか、分かりますよね?」
黒川先生は金田一先生を挑発する風でもなく、とても言いにくそうに投げかけた。
「ええ、この島には現在、限られた人間しかいません。それはつまり、この凶行に及んだ犯人がこの島にいると、黒川先生は考えられているわけですね」
金田一先生が落ち着いて答えたのに対して、黒川先生は同意しつつも、やんわりと否定する。
「いや、そこまではっきりとは考えていません。わたしは、ただ屋敷の方が心配なんですよ。他の者のことがね。ここは一刻も早く屋敷へ行くべきで、考えるのはそれからにしませんか?」
黒川先生のその言葉が、この場での結論となった。話し合いの最後に金田一先生が黒川先生に尋ねる。
「先生、あの遺体が誰か、先生には分かりますか?」
「分かりません」
黒川先生はそう言い残して項垂れるのだった。
金田一先生と黒川先生は、このことを神主の半田さんと番頭の山辺さんに伝えるべく、一足先に旅館へと帰っていった。
美千代とサトルは佐橋さんを見つけて、旅館に連れてくるように指示を受けた。この時、女中の幸子さんは、朝ご飯を作りに屋敷へ行っていることを知らされた。
佐橋さんは牧場内の平屋に一人で暮らしているはずだが、美千代とサトルが小屋を尋ねても、佐橋さんの姿を見つけることはできなかった。
「いない」
美千代とサトルは口を揃えた。
「ここにいなければ見つけようがないよ」
サトルが美千代に尋ねるが、これは暗に捜すのは無理だと言っているわけだ。
「うん。じゃあ、戻ろうか」
「その前に、もう一度、蒸し風呂に寄ってもいい?」
サトルの提案に美千代が頷いたが、それは単純にサトルの行動に興味があるというだけである。そして美千代は、サトルと本日三度目の蒸し風呂へ行くこととなった。
現場に到着すると、サトルは辺りを入念に観察するのだった。美千代はその姿を目で追うだけだった。先ほどは金田一先生と黒川先生の手前大人しくしていたが、サトルはサトルでじっくり調べたかったようだ。
「おねえちゃん」
サトルが美千代に問い掛けた。
「おねえちゃんが最初に来た時、着替えはなかったの?」
「え?」
「お風呂で死んでいる人の着替えだよ」
ああ、それだ。美千代が死体を発見する前の違和感がそれだったのだ。
「うん。確かになかった。それははっきりと憶えている。それで先客がいたから、おかしいなって思ったんだもん」
そこで美千代は疑問を持つ。
「じゃあ、着替えは、どこに?」
「犯人が持ち帰ったと考えるしかないんじゃないかな」
「なんのために?」
サトルが考える。
「黒川先生は遺体の身元が分からないって言ってたよね。犯人は首だけではなく、衣類まで持ち帰った。そこまでして遺体の身元を隠す理由は分からないけど、早くお屋敷に行って全員の無事を確かめた方がいいっていうのは分かった気がする」
「じゃあ、もう行こうか?」
美千代の言葉と同時に、二人は旅館へと走った。美千代はここでも時間を確認するのだった。走れば旅館までは七時前には到着する。歩きの金田一先生の到着とさほど変わらないだろう、と考えるのだった。
二人が旅館に到着すると、なにやら黒川先生と番頭さんが揉めている様子だった。
「わたしは旅館に残ります。なにも全員で屋敷へ行くことはないでしょう」
それが番頭さんの言い分だ。
「いや、ここにいるみんなで行くべきだ。屋敷の状況を確認したら、全員で話し合う必要があるからね」
それが黒川先生の言い分だった。
「話し合いはお任せしますよ。いつもそうしているじゃありませんか」
すかさず番頭さんが反論した。
「いつもと状況が違うじゃないか、人が殺されているんだ。今この島には屋敷の人間と、ここにいる人間しかいないんだ。一緒に来てもらうぞ」
そう言った黒川先生の顔は、昨日までの柔和な村医さんじゃなかった。
「つまり、先生はこの島の人間の仕業だと言いたいんですね。それならそうと、はっきり言ってくださればよかったのに。疑われているというのならば、わたしだって行きますよ」
番頭さんのその言葉に、もう付き合う気はないのだろう、黒川先生は何も言い返さなかった。
二人の会話に誰も口を挟もうとしないのだった。どちらも話せば感じのいい人たちなのに、当の二人が会話をすると口調が荒くなったり、とげのある言い方をしたり、これではまるで犬猿の仲の見本のようだ、と考える美千代だった。
「あれ? それなら、港の土門さんはどうするんですか?」
番頭さんが黒川先生に尋ねた。
「あれはいい、後で知らせれば」
「土門さんはよくて、わたしは駄目なんですね」
陰険な微笑みを浮かべながら番頭さんが呟いた。
「時間がないんだよ、時間が。きみと話をしている時間もないんだ」
苛立たし気に黒川先生が言い放った。
嫌な間が空いた。
そこでサトルが頃合いを見計らって報告する。
「佐橋さんが牧場にいなかったんですけど」
黒川先生は話し相手を変えることができて安心したのか、途端に表情を緩ませるのだった。
「そう、だったら屋敷にいるんだな。彼は独り身で若いから、よく屋敷でご飯を食べさせてもらっているんだ。包丁も握ったことがないっていうからね、うん。それじゃあ、そろそろ出発しようか」
その言葉を聞いて美千代はひとまず安心した。牧場の近くで殺人が起こったわけで、今の今まで、万が一のことを考えないようにしていたからだ。佐橋さんの身に何かあったとは思いたくもない。とにかく無事であってほしい、そう願うだけの美千代であった。
こうして金田一敬助、沢村美千代、沢村サトル、村医の黒川、神主の半田、番頭の山辺の六人は屋敷へ向かうのだった。