二日目のまとめ
港から戻り、美千代とサトルが役場を訪れたのが午後三時すぎ。そこで美千代は考える。島の食事は一日二食で、夕食まではまだまだ時間がある。とはいえ、昨日と同じように今日も四時間以上歩いているので、さすがにこれから首山に登ろうとはならず、それはサトルも同じ考えのようだ。
二人で首山に登ったところで、どうせ金田一先生に嫌な顔をされるだろうし、登るのは明日以降にした方がいいだろう。ということで、二人で旅館の泊まり部屋に戻り、そこで幸子さんからいただいた豆菓子で小腹を満たそうと、千代子は思ったのだった。
部屋で寛いでいると、番頭さんがよく冷えた番茶を運んできてくれた。
「よく冷えていますが、こんなに冷たい水もあるんですね」
番茶の味より、温度が気になるのだった。そのことについて、番頭の山辺さんが丁寧に説明してくれる。
「はい。隣の洋風旅館で貯水されている水を使っているので、こちらの旅館の水より、いくらか冷たく感じるかもしれませんね」
「洋風旅館というのは新しくできたばかりですか?」
「はい、そうです。計画は戦前からありましたが、なかなか着工することができず、今年ようやく完成させることができました」
美千代が泊まりたかったのは洋風旅館の方だった。それを金田一先生が畳の部屋じゃなきゃ嫌だと駄々をこねるから、こちらの和風旅館にしたのだった。
「あの、番頭さん」
今まで黙っていたサトルが口を開いた。
「はい。なんですか?」
番頭さんは誰に対しても口調が変わらなかった。
「番頭さんは、普段どこで寝泊まりしているんですか? いや、あの、番頭さんだけではなく、女中さんとかもそうなんですが、島を歩いても、民家がまったく見当たらないから、ちょっと気になったので」
「民家はありません。わたしも含め、みんな住み込みで働いているんですよ。戦前は何軒かありましたけどね。疎開先から戻らなくなった者がほとんどです」
サトルが質問を重ねる。
「村長さんや黒川先生は家がありますけど、神主さんはどこで寝泊まりされているんですか?」
「ああ、半田さんは変わっていましてね、決まっていないんですよ。黒川先生のところにお邪魔することもあれば、空き部屋があれば旅館に上がり込むこともある。あの方だけは自由なんですね――」
番頭さんは、仕方がないという顔つきで続ける。
「派遣された職員によりますと、今後この島は電気、電話、水道などの工事が行われて、今よりも豊かになると言っています。人も増えて、学校もできる。そのうち車も走るそうです。そうなれば民家も増えるでしょうね。いくらお屋敷が反対しようが、その流れは自然なことですし、逆らえることではありません。昔を懐かしんだところで、二度と戻ることはできないということです」
誰に話しているのか、番頭さんは独り言のように話すのだった。
「番頭さんは、島の開発に賛成ですか? それとも反対ですか?」
美千代の質問だが、番頭さんの言葉からは、それがよく分からなかったから尋ねたわけだ。
「わたしの考えは、あまり重要ではないような気がします。その時が来たら、その時に考えるだけです」
穏やかに答える番頭さんだった。
「でも村長さんは、まだ具体的な計画がないって言っていました」
サトルが午前中に聞いた話を口にした。
「それは何年先を見据えているかによります。一年先か、五年先か、十年先か、それによって具体的な計画の進捗状況の捉え方が変わってきますから。十年先、二十年先の計画は、もうすでに動き出していますよ」
番頭さんは冷静に、サトルに言葉を返すのだった。サトルは話を聞き終えて、口をつぐんだ。
美千代は番頭さんの話を聞きながら、ずっと考えていた。この人には主体性が感じられないが、それはでも変わりゆく島で生き抜くための術なのではないかと。
戦争によって急激な過疎に陥ったこの島で、二度と帰らぬ昔の日々を取り戻そうとするのではなく、自然に身を任せて生き残る。それも否定できない生き方の一つではなかろうか、とも考えられるからだ。
しかし同時に、それで島で生きることを理解した気になるのは早いな、とも美千代は思った。なにせまだ、島に来て二日目だからだ。
番頭さんが部屋を出て、美千代はサトルと二人きりになった。サトルは畳の上で寝転がっていた。考え事をしているのか、ただ惰眠を貪っているのかは分からない。
おそらく後者だろう。仕事の依頼があったとはいえ、弟はまだ子供なのである。緊迫した状況が感じられないこの南の島で、観光気分に浸ってしまうのも無理はないと思う。
しかし弟のように怠惰に過ごす。それがこの島本来の余暇の過ごし方かもしれないな、と美千代は考えるのだった。
観光資源に恵まれているとはいえないこの島は、それでも観光客が絶えないと聞く。それはつまり、慌ただしい日々から抜け出した人が、自ら外界から遮断された土地を目指して来ているのだ。
何もないから不便だと感じるのではなく、まさにその不便さを求めてここへ来るのだろう。でなければ、わざわざ砂浜もない南国のこの島へやって来たりはしない、と考える美千代だった。
夕飯は泊まり部屋で幸子さんと一緒にいただくこととなった。番頭さんも誘おうとしたが、館内に姿がないので、その日はやめにした。
「金田一先生は、いいんですか?」
美千代とサトルが座についた時の幸子さんの言葉だ。
「いいですよ。さっきも呼びに行ったんですが、返事がなかったので、きっともう眠ってるんだと思います。起こすと機嫌が悪くなるので放っておきましょう」
金田一敬助をよく知る美千代の答えだ。
「夕飯は摂らなくて大丈夫ですかね?」
「大丈夫ですよ。元々一食二食抜いても平気な人ですから。時間にだらしない方がいけないんです。幸子さんが気にすることありませんよ」
これは本当だった。金田一先生は、普段から三食いただくことはまずなかった。一日一食というのも珍しくなく、ときどき水だけという日もあるくらいだ。だからといって食が細いというわけではなくて、胃腸の調子がいい時はもりもり食べる。だから要するにだらしがないのである。そのことをよく知る美千代だった。
「番頭さんは蒸し風呂にでも行かれたんでしょうか?」
食事をしながら美千代が幸子さんに尋ねた。
「いえ。島の人間は夏場に蒸し風呂へは入りません」
「え? そうなんですか?」
「はい。熱くて我慢できませんもの」
あっけらかんと答える幸子さんだった。
そうなのか。しかし地元の人にとっては、天然の蒸し風呂といっても、その程度のものかもしれないな、と美千代は思った。
「番頭さんは、きっと久し振りにゆっくりできるので、のんびりされているんじゃないですかね。いや、お客さんを前にこう言うのもなんですが、お休みみたいなものなんで」
食事中でも幸子さんの言葉数には変化がないようだ。
「そういえば従業員の方がみなさん帰省されたり、旅行に行かれたりしているそうですね。幸子さんも一緒に行きたかったんじゃないですか?」
美千代は午前中に敬助から聞いた話をした。
「いえ。わたしは、彼女たちとは持ち場が違うので邪魔になるだけです。きっと今ごろ熱海の露天風呂でのんびりしているんじゃないですか?」
「女性だけなんですか?」
突然、サトルが幸子さんに尋ねた。
「はい。女だけで六人。いつもがんばっているので、今回の帰省や旅行は奥さまからのご褒美なんじゃないですかね」
そう言って、幸子さんは手酌の焼酎を美味しそうに口に運ぶのだった。
島の焼酎はさつまいもが原料で、旅館の裏手に畑がある。この島の緯度は九州と変わらないのでさつまいもの栽培に適しているのだ。銘柄を首焼酎といい、観光客に特に人気のある特産品でもある。
美千代もなめる程度にいただいているところだが、その酒の力を借りて、気になっていたことをほろ酔いの幸子さんに尋ねてみるのだった。
「あの、お屋敷にいる三姉妹ですけど、みなさん綺麗ですが、両親とも日本人ということはないですよね。そうなると、やはり奥さまと村長さんの間に出来た子供ではないということでしょうか?」
「はい。そうです。奥さまにとっては村長さんが二番目の旦那さんみたいで、まだ再婚されて十年も経っていないって聞いていますけど」
幸子さんの口はなめらかだった。
「え? ということは、義男くんと伊月ちゃんも村長さんとの間に出来た子供ではないということですか?」
「はい。そういうことになりますね。いえ、あたしも『この子、誰の子ですか?』 なんて奥さまに聞けませんから、それ以上は知りませんけどね」
幸子さんは上機嫌だった。
「結婚されているのは村長さんだけですか? 黒川先生や、神主の半田さんに家族はいないんでしょうか?」
美千代が重ねて尋ねた。
「はい。黒川先生は結婚されていたみたいですが、それがどうなって今に至るのか聞いたことはありません。神主さんは生涯独身を公言されています。他には土門さんも独り。土門さんの場合は、浮いた話を聞いたことがありませんね、はい。うちの従業員の子からも慕われているんですが、うまくいかないみたいで。ふふっ」
そこで、幸子さんが思い出したように笑うのだった。
「あとは……」
「番頭さん」
と、サトルが助け舟を出した。
「はい。番頭さんも昔は結婚されていたそうですが、別れたのか、先立たれたのか、自分から話しませんので分かりませんね」
ずいぶんと男やもめが多いな、と美千代は一瞬思ったが、戦前は民家もあったというし、戦争が終わっても島に戻らなかった者がいると聞く。となると島に戻ってきたのは、なんらかの共通点をもった人たちで、それが独り身の者だったということか。島を去った人は今、どこで何をしているのだろうと、そんなことを考える美千代だった。
その夜は、酒の肴がなくなったところでお開きとなった。