予兆
牧場で牛を見ながら夢中で話していたので、自分が何を話したのか憶えていなかった。後でちゃんと思い出さないといけないな、と思う美千代だった。それにしても、この目の前の青年、佐橋勇は素敵な男性だ。彼が世話をしている牛まで立派に見える。
「一人で牛の世話や、水運びとか、大変じゃないですか?」
「いや、そんなことありませんよ。村長さんや黒川先生が手伝ってくれますから」
幸子さんが話していたことと一緒の答えだ。
「でも、観光客の案内までさせられたり、やっぱり大変ですよ」
「ああ、それは好きでやっています」
そう言って、佐橋さんは白い歯を見せて笑った。
佐橋さんは半年前に本土から島に渡ったと聞く。それまでどこで何をしていたのか、どうしてこの島に来ようと思ったのか、そこまではまだ尋ねることができない美千代だった。
人当たりはよく、とても気さくだけれど、聞き上手ではあるが、話し上手ではない。質問をすれば気軽に答えてくれるが、それはあくまで観光客に対する対応で、どことなくもの足りないのである。
しかし会ったばかりで、私は何を考えているんだろう? ちょっとだけ舞い上がっている自分に戸惑いを感じる美千代であった。
「そういえば、お屋敷にいる双子の義男くんと伊月ちゃんのことなんですけど、挨拶をした時、ひと言も話さなかったんですよ。二人とも照れ屋さんなんですかね」
「いや、ぼくもこの島に来てから一度も声を聞いたことがないんで」
「え? それはどういうことですか?」
佐橋さんが神妙な顔つきになる。
「義男くんと伊月ちゃんが島に戻ってきたのは、ぼくが島に来た頃と変わらなくて、半年くらい前なんですけど、それまでは村長さんの親戚の家で国民学校に通っていたみたいです。それで今年の春に、高等科を卒業して島に戻ってきたんだけど、それが島を出る時は元気だった二人が、戻って来た時にはひと言も話さなくなって帰ってきたんです。それで奥さまはずいぶん心配されて、どうも、それから奥さまと村長さんの仲がうまくいかなくなったようで――」
そこで佐橋さんは自分の失言に気がつく。
「あっ、最後のひと言は聞かなかったことにして下さい」
そんなことは気にならない美千代だが、双子がなぜ変わってしまったのかは気になるのだった。やはり男女の一卵性ということで、好奇の目で見られ、周囲から不当な扱いを受けたのではないだろうか。
極度の人見知りのようにも見えるし、発育もそれほどよくないように思われる。医学的なことがよく分からないので、心の病を患っているかどうかも分からないが、どうにか二人を助けるようなことは出来ないものか。
その上、今回の脅迫状である。たとえそれが本物の脅迫状ではなく、悪質な悪戯だとしても、決して許せない、と美千代は思った。
「その反対に、屋敷の三姉妹は底抜けに明るいですからね、あそこの屋敷は、あれで案外うまくいっているのかもしれませんよ」
「そういえばそうですね。今朝も三人とも笑顔で迎えてくれました」
「ええ、三人ともいつも笑っています」
そういう佐橋さんも、常に微笑みを絶やさないのだった。
「奥さまは芯がしっかりしている感じだし、なによりみんな綺麗ですもんね。男性として気になったりしないんですか?」
「え? いや、そういうのは、よく分からないです」
佐橋さんは笑っているが、いつも笑っているので、それが照れ笑いなのか、誤魔化しているのか、どうもはっきりとしないのだった。
「さて、そろそろ仕事に戻らないと。お客さまと話し込んでいるところを誰かに見られたら、また奥さまに叱られます」
そう言って、佐橋さんは小屋の中へ去っていった。
まだまだ話し足りないと思う美千代だったが、他にもやりたいことがあったので気持ちを切り替えた。それは暗くなる前に蒸し風呂へ行くことだった。やはり日が沈んでからでは、辺りが暗くなるので不安がつきまとう。
それならばと、昼間のうちに行ってしまおうと決めたわけだ。そのために旅館から手ぬぐいと携帯用のランプを持参していた。ランプは蒸し風呂小屋の中が暗いためである。
蒸し風呂へ向かう美千代の足は軽やかだった。
男湯の着替えは、小屋の外に仕切りが一枚あるだけ。あれでは牧場の方から丸見えではないか、と美千代は思い、少しだけ気の毒に思った。一方、女湯の着替えは、ちゃんと四方に仕切りが立てられていた。
そこで安心して衣類をすべて脱ぎ、全裸になることができた。あまり室温が高くならないように小屋の戸を半開きにする。昼間の小屋の中は、思ったほど暗くはないが、それでも一応ランプは点けておくことにした。
ほどよく身体が上気してきたところで足を揉む。旅館から屋敷まで往復で約二時間。いくら体力と足に自信があるからとはいえ、疲れていないといえば嘘になる。
今のところ脅迫状に書かれてあるような危険が迫っているとは思えないが、まだまだ見て回らなければいけないだろう。そんなことを考えていた美千代だったが、なにやら小屋の外に人の気配のようなものを感じるのだった。
最初は何をしているのか分からなかったが、どうやらそれが衣類を脱いでいるようだ、と思い当たる美千代だった。
誰だろうと考えるが、顔が出てこない。屋敷の人ではないだろうな、だとしたら女中の幸子さんだろうか、それ以外には考えられないな、などと思っていたところ、戸を開けて入ってきたのは三賢神の一人、見ざること神主の半田真人だった。
黒眼鏡を外した半田さんは、腰に手ぬぐいを巻いた状態で歩を進めるが、人の気配を察したのだろう、立ち止まって、小首を傾げるのだった。その瞬間、美千代は声を出せないくらい、怖くて身体が強張った。
「おや? 先客かな?」
「あっ、あの……」
「いや、これは失礼。その声は昨日の探偵事務所のお嬢さん」
美千代はうまく言葉を発することができないでいた。
「どうか、怖がらないように。この通り目が悪いので、男湯の傾斜のある道を歩くのが怖くてね。それで、こちらの近場の風呂に入らせてもらっているので、なに、襲ったりしませんので安心して下さい」
そう言って、腰に手ぬぐいを巻いた神主さんは、美千代の正面に腰を下ろすのだった。
美千代は手ぬぐいを、後で身体を拭くためにと、濡らさないように外に置いてきたままである。身体を隠すものが何もないまま、何もできないでいた。
「都会では、なかなかこういう天然の蒸し風呂は経験できないでしょう?」
そう言って、神主さんは気持ち良さそうに額の汗を拭うのだった。
「はい」
そうか、神主さんは私のことなど気にしていないのだな。気にしているのは自分の方ではないか。考えてみれば、娘のような年頃の子供を意識するわけないではないか。
こうなると自分が神主さんを意識していると思われる方が恥ずかしい。ここは堂々とするべきだと、緊張を解いて、あらわになっている胸を堂々と張る美千代だった。
「他の探偵さんはどうされました?」
神主さんは、まるで縁側にいるような感じで話し掛けてくるのだった。
「それが、どこに行くのか聞かずに別々になったもので」
「そうですか。会ったら、首山の頂上に登るように、薦めておいて下さい」
「ああ、頂上というと、首山神社があるところですね?」
「そうですそうです。登るなら早い方がいい。明日は天気は崩れそうだ」
「分かるんですか?」
「ああ、これでね」
と、神主さんはあごの下の髭をさするのだった。本当だろうか? 猫じゃあるまいし、美千代は半信半疑であるが、神主さんが髭をさすりながら続ける。
「なんなら、わしが頂上まで案内すると付け加えておいて下さい」
「はい。伝えておきます」
神主さんは悪い感じの人じゃなさそうだ。昔の時代はお風呂も混浴だったというし、この島にはその風習がいまだに残っているのかもしれない。これが俗にいう裸の付き合いということだろうか。それならそれで悪くないな、と思う美千代だった。
「ところで、お嬢さん、この島が首狩り島と呼ばれているのはご存じか?」
「はい。ここに来る前に、少しだけ調べてきました。島民の先祖に首切り吉右衛門がいると書かれてありましたけど」
「うん。それもある。いや、それが本当のところじゃろう。しかし村には、それとは別の言い伝えがありましてな」
「言い伝え?」
「うん。今からおよそ百年前、もう吉右衛門さんの時代じゃないな。当時は今よりも島が栄えていて、島の当主の力も絶大だった」
「栄えていた時代があるんですか?」
「ああ、驚くかもしれないが、島に伝わる秘薬が高値で売れた時代があったんだ。それが明治になるまで売れ続け、ひと財産築いたというわけだ。それが英の家と黒川先生の先祖なんだな」
「その秘薬というのは?」
「労咳に効く丸薬じゃよ」
ああ、結核だ、と美千代は得心する。ストレプトマイシンが発見されたのは今から二年か三年前だから、その秘薬というものがどこまで効くのかは分からないが、薬を求める人は後を絶たなかったのだろう。その人たちにしてみれば、きっと藁にもすがる思いだったに違いない。
「すいません。話の腰を折って」
「いや、かまわんよ」
神主さんが続ける。
「当時のお屋敷には、今と同じように綺麗な娘さんがいたそうだ。その娘に恋をしたのが身分違いの男でな。それは絶対に許されるものではなかったんだな。それで添い遂げられないと知ったその男は、村人の首を手当たり次第に刎ねていったそうじゃ」
「村人の首を……」
と言って、美千代が口元を押さえるのだった。
「そう、その言い伝えによって首狩り島と呼ばれるようになったんだ。そして、その男が祟り神として祀られているのが、首山神社というわけだ」
そういう言い伝えがあるのか。身分違いの恋。この小さな島にもそういうものが当たり前のようにあったんだ。でも、なぜ村人の首を? 叶わぬ恋と首切りがうまく結び付かない美千代だった。
「その男の人は、村人を殺した後、どうなったんですか?」
「忽然と姿を消した」
「え?」
神主さんが髭をさすりながら説明する。
「男の最期を見た者はいないそうだ。おそらく崖から入水自殺を遂げたといわれているが、真相は分かっていない。しかし崖から飛び込めば、この島は引っ掛かるような岩場がないのだから、死体が上がらないのは当然。よって、忽然と姿を消したと表現されてもおかしくないわけで、わしもそれが真相だと思いますよ。なにしろ波が高くて早い。飛び込んでしまったら、もう崖の上からは発見できないのですからな」
そろそろ限界だった。神主さんの話に付き合って、長く留まりすぎたかもしれない。立ち眩みしそうな予感がしたので、気力を振り絞らなければいけない。こんなところで意識をなくすわけにはいかないからだ。恥ずかしい思いをするなら、いま集中したほうがいい。そう思いながら美千代は立ち上がった。
「すいません。そろそろ失礼します」
「大丈夫ですか、手を貸しましょうか?」
「いいえ。大丈夫です」
神主さんの申し出を断り、自分のランプを持って、小屋を出る美千代だった。
小屋を出て、頭から水をかぶったらすっきりとした。服を着て、心配させないように、神主さんに挨拶をしてから旅館へ戻った。濡れた髪は旅館に着く前に乾いてしまった。これで畳の上でごろっとできたら気持ちがいいだろうな、と思う美千代だった。
旅館へ戻ると、金田一先生が三姉妹の一人とどこかへ出掛けるところに鉢合わせした。あれは誰だったかな? 一番髪が長いから久子さんだ。これは今日屋敷から戻る道で、屋敷の子供は、ひ、ふ、み、よ、いつ、の順番で名前が並んでいると、サトルが最初に発見して教えてくれたのだ。それには珍しく金田一先生も感心しきりだった。
「先生、お出掛けですか?」
「うん。ちょっとな」
「どちらへ?」
「ん? まぁ、そこら辺」
「首山に登るんです」
答えたのは久子さんだった。
「あっ、いいな。わたしもご一緒していいですか?」
美千代が尋ねると、金田一先生と久子さんは顔を見合わせるのだった。
なんだろう? これは目配せだろうか? なにか二人の間に無言の会話が行われているような気がして不快に感じる美千代だった。
「いや、それより、サトルが探してたぞ」
「サトルが? なんの用でしょう?」
「知らん。それはサトルに聞いてくれ。確か、港の方へ行ったな」
そう言い残して、金田一先生と久子さんは神社へ向かう道を目指した。
金田一先生の姿が見えなくなってから美千代は気づいた。サトルが私を探しているなら、港の方へ行くわけがないということを。サトルにはちゃんと牧場に行くと伝えてあるからだ。
体よく断られたのだな。いや、追い払われたと言った方がいいか。しかし、そんな簡単な嘘も瞬間的に見破ることができなかったのだから、今回は自分が悪いんだと、美千代は反省することにした。
港へ向かって歩くのは今回が初めて。サトルは自分のことなど探していないのだから、べつにこちらから見つけに行くこともないけれど、サトルが何のために港へ向かったのかは気になるのだった。
港の方の道には、土門さんが暮らす港小屋と、南の洞穴しかないではないか。サトルはいったい何をしに行ったのだろう? 美千代は歩きながら、そんなことを考えていると、さっそく分岐点に差し掛かった。
一方は崖を登って下りたところに港がある道で、もう一方は真っ直ぐ行って洞穴に突き当たる道だ。ここまでは歩いて三十分。どちらに向かうにせよ、旅館から出発して、港か洞穴に行くには一時間は掛かるということだ。
さて、サトルはどちらに行ったのか? それは考えるまでもなく、一人で洞穴に行くわけがないと思い、港へ向かうことにした。予想通り、そこで美千代はサトルを見つけることができた。
港小屋の入口が開いており、入口から中の様子を窺うと、小屋の中で、サトルは土門さんと顔を寄せ合い、なにやら親しげに会話をしているようだった。人見知りのサトルにしては珍しい姿である。美千代は二人に近づいて、こちらから挨拶をすると、会話を止めて土門さんが挨拶を返すのだった。
「なにしに来たの?」
サトルがぶっきらぼうに言い放った。
「え? 金田一先生が、サトルが私を探しているって言うから」
「探していたら牧場に行くはずだろ」
即答で返された。
まぁ、いい。おねえちゃんがサトルの行動に探りを入れていることまでは気づかれていない。これでいいと思う美千代だった。
「それなら、頼むよ」
土門さんが会話に割って入ってきた。
「はい。村長さんへは、僕から伝えておきますので」
土門さんに、サトルが返事をした。
「ああ、それじゃ」
それを機に、美千代とサトルは小屋を出た。
「あんた、珍しく知らない人と話し込んでいたね」
少し歩いてから、美千代がサトルに話し掛けた。
「え? うん、あのおじさん、いい人だね。すごく優しい」
「へぇ、そうなんだ」
土門さんに限らず、この島の人はみんな優しいと思う。それだけに脅迫状の存在だけ浮いたような印象があるわけだ。ひょっとしたら観光客が、「首狩り島」で一句詠んだだけかもしれない。それが冗談にも思える、あの下手くそな脅迫状の正体ではなかろうか。
屋敷で脅迫状の話を聞いた時は、ぞくっと身震いしたが、島の人たちと接してしまえば、その緊張感もすぐに解けてしまう。島に異変はないようだし、やはり脅迫状は、観光客の残した洒落っ気のある悪戯ではないかと、美千代はこの時まで思っていた。
「そういえば、頼んだって、あんた、なに頼まれたの?」
先ほどのやりとりで、土門さんの頼み事が気になった。
「いや、昨日船が着いた時、どうも無線が通じていないみたいだったから、気になって来てみたんだ」
歩きながらサトルが続ける。
「そしたら、やっぱり無線の調子が悪いみたいで」
「え? 使えないの? どうするの?」
美千代は心配顔だ。
「機械を見たら、部品を交換しないと直らないみたいで、それで僕が換わりの部品がないか、村長さんに聞いてくるっていう話になったんだ。返事をしに行くのは明日になるけど、急いでどうにかなるものでもないし、仕方ないね」
「え? 無線がないとどうなるの? 連絡できないんじゃないの?」
美千代は必死である。
「いや、元々電話がない島なんだから、これくらいは仕方ないよ。電池式の無線機で、あまりいい代物ではないんだ」
「ああ、そうね。そういえばおねえちゃん、ここに来る前は無線もないって思っていたんだ。通信が充分じゃないって聞いてたもんね」
美千代は一転して安堵するのだった。
「おじさんも次の貨物船が来るまで辛抱だって言ってたけど、それでも緊急のことも考えて、直せるなら直した方がいいと思ってさ」
「直せるの?」
「故障個所の部品を取り換えるだけだから、部品があれば直るよ。ただ、昨日までは使えたっていうんだよね」
美千代は、サトルの言葉の最後の部分が気になった。
結局、村長さんに無線の交換できる部品がないか尋ねたところ、予備の部品はなく、新しい無線が届くのはやはり次の貨物船の入港を待たねばならないということだった。それは早くても土曜日に連絡船が来るまで外部と通信ができないことを意味していた。
思えば、これが予兆だったわけだ。