はじめに
東京は京橋の探偵事務所に、代理人を名乗る人物から依頼があったのは、昭和二十一年、座っているだけで汗が滲む七月の終わりだった。
代理人の話を聞いた探偵助手の沢村美千代は、はじめその依頼が人をからかった悪い冗談にしか思えなかった。それは依頼内容の詳しい説明がなく、指定した日に、指定した場所への来訪を望むという、一方的な依頼だったからである。
最初は断るつもりで聞いていた美千代だったが、会話が報酬の話へ移ってから、心の中に迷いが生じたのだった。なにしろ前金だけで、この当時の平均所得の二カ月分に相当する金額、そのお金が美千代の目の前に差し出されたからである。
薄気味の悪い依頼に不安を感じないわけではないが、これほど気前がよい依頼は取り扱ったことがない。代理人には、あたかも根負けしたかのように見せて、しっかり前金を受け取る美千代だった。代理人が去った後、ひどく後悔したのは言うまでもない。これでは自ら災厄を招いたようなものではないか……。
そして、その嫌な予感は見事に的中してしまうのである!
ああ、なんておぞましい事件だろうか。この世の出来事とは思えない所業の数々。血が乾く間もなく繰り返される殺人。それが意思を持った人間の仕業だとは、どうしても思えない。意思があるとするならば、それは島の意思だったのではなかろうか。
その島の名は、首狩り島――
このおそろしい島の名を知るものは少ない。正式な名は首飾り島といって、多くの者に美しい響きで呼ばれている。名の由来については、島の記録を記した文献が少ないということもあり、はっきりとはしていないが、二重カルデラで形成された島で、島の外堀となる外輪山が首飾りのように見えるからその名がついた、とするのが一般的である。
では、なぜ高貴な名で呼ばれる首飾り島が、首狩り島などと忌み嫌われる名で密かに呼ばれるようになったのか。それは太平洋上の島々を研究している郷土史家の手によって、次のように記されている。
そもそも伊豆諸島と小笠原諸島の中間に位置するこの島は、室町時代中期に最初の島民が入植したとあるが、入植者の出自については定かではない。八丈本島の島民が移り住んだとする説や、南方の諸外国からの渡来とする説など様々である。
島民の出自に諸説ある理由は、島の噴火活動により、入植と離島を繰り返したため、一定の文化が根付かなかったからだと考えられる。この島が最後に噴火したのは二百年前なので、現在の島民の祖先を特定できるのはそこまでといえよう。
そこで現在の島民の先祖をたどるとおもしろい名前が見つかる。江戸時代、刀剣の試し切り役で名前を残す山本吉右衛門である。その腕を買われて処刑の斬首を拝命していたのは記録に残っており、首切り吉右衛門という異名で呼ばれていた。
現在の島民に山本姓を持つものはいないが、血脈が受け継がれていることは確認されている。おそらく島の先祖の首切り吉右衛門の存在によって、他島の島民から首狩り島などと呼ばれる由縁になったのではないか。
――と郷土史家は記している。
他にも首狩りにまつわる話として、現在も斬首を行っているのではないか、との憶測や、人さらいの噂が絶えないが、さかのぼっても、実際に島で斬首刑が行われていた記録はなく、どれも想像の域を出ず、根拠のない噂話にすぎないと言わざるを得なかった。おそらく島民同士の交流がないため、薄気味悪い話が陰口となって伝わっているのだろう。
島民同士の交流がないのには理由があった。首狩り島の周辺の海には、黒瀬川とも呼ばれる激流の黒潮が横たわっており、島への渡航が困難を極めるからである。島の南端に位置する赤岩港への接岸は、高波の影響で接岸率が三割を下回る。物資の海上輸送もままならず、気軽に島へ遊びに行くということはまずありえないのである。故に、絶海の孤島と呼ばれることもしばしばであり、容易に近づく者もおらず、交流が持てないのであった。
そこへ、特別に貸し切った連絡船に乗り、島へ渡る一行がいた。奇妙な依頼を引き受けた探偵事務所の面々である。
一人は先刻登場した沢村美千代だ。半袖の白いブラウスを着ており、むき出しの両腕には、太平洋上のたくましい太陽の陽射しが照りつけている。奇妙な依頼に不安を抱いてはいたが、生まれて初めての船旅にすっかり顔はほころんでいる。
美千代が戦争で両親を亡くし、十九で終戦を迎えたのが去年の夏。弟を抱えて現在の探偵事務所に就職できたのは仕合わせだと思っている。京橋に構えた探偵事務所は、立地面と、なにより事務所の名前のおかげで依頼が途切れることがなかった。今回の依頼も、もとをたどれば事務所の名前が呼び水となっているのだった。
美千代の弟の沢村サトルは、同じ事務所で探偵見習いとして働いている。自分から働き口を探そうとしない弟を事務所で働かせたのは美千代で、一人前になるまで報酬を受け取らないことを条件に、事務所の先生に頼みこんで置いてもらったのだった。当のサトルは、眠そうな顔をして、海ばかり見ているのだった。十五にしては身体が大きく、目鼻立ちが整っている。ただし羊に似て、利発そうな顔ではなかった。
一方、肝心の探偵先生はというと、先ほどから船底でぐったりしていた。八丈本島で食べたおかゆを、出航してすぐ海にぶちまけ、それからは死んだように眠っているのだった。船は昨年の復員船以来だが、先生にとっては慣れるものではないらしい。
先生と呼ばれる探偵は、三十四、五の年齢で、いまどきでは珍しく、和装に身を包んでいるのだった。それは何年も着古したもので、清潔感のかけらもなかった。身だしなみには無頓着のようで、髪型がくずれようが、服がしわになろうが、元来、気にならない性分らしい。
「さぁ、見えてきたぞ」
と突然、連絡船の船長が声を張った。
その声に美千代は船首の先を見つめる。
目を凝らした視線の先に黒い塊が見えた。
首狩り島だ。
それはまるで南の空と海の間に、まるで穴が開いているかのように存在していた。船はその穴に吸い込まれるように進んでいく。次第に迫り来る孤島は、今にも大きな口を開けて、船ごと飲み込もうとしているかのようだった。
美千代は、得体のしれない恐怖に身震いし、急いで探偵を起こすことにした。
「先生、起きて下さい」
と、身体を揺すって起こす。
「起きて下さい。金田一先生」