-Beautiful World-
今──。
ジュノの心の中で激しく吹き荒んでいるのは、大きな大きな風の音。
風は頬や鼓膜を叩きながら、地面の砂を高く巻き上げ、視界を真っ白に塗り潰していく。
その強風の真っ只中で、ジュノは身動ぎもせずに、嵐が過ぎ去るのをただじっと待っていた。
やがて風が止み、上空に舞い上げられた砂がパラパラと静かに舞い落ちてくる。
開けた視界から、まばゆい光とともに覗き込んでくるのは、雲一つない澄んだ白い空。
しかし、ジュノが次に思い描いたのは、それと正反対ともいえる夜の世界だった。
あの幻想的かつ神秘的な光景を初めて目の当たりにした時、ジュノは本能で悟ったのだ。
記憶というのは頭でするものではなく、『魂』に刻むものだということを──。
《episode 1》
彼が訪れたその世界は、夜の闇に包まれていた。
朧げな蒼い夜空には、絶えず“ほうき星”のような碧光が瞬く。
眼下に煌めくは、ネオンのように淡く輝く街の灯たち。
「遠いな……」
ふと呟き、見上げた天空の星々はおろか、眼下の街さえも、今の彼にとっては遠い存在だ。
しかし、なぜだろう?
初めて訪れたはずのこの世界に『還ってきた』という不思議な既視感がジュノにはある。
まるで──ここで大切な人と交わした約束があるような。
たとえ何千、何万年かかろうとも。
それは、必ず果たさなければならない約束のように、ジュノには思えた。
《episode 2》
『──警告、警告。あなたは現在、正規の手続きではない手段で世界干渉しようとしています。ただちに離脱してください。このまま世界干渉すると処罰対象になります。繰り返します、あなたは現在──』
頭の中で、警告がエンドレスに鳴り響き続けている。
しかし、覚悟を決めてこの場にいるジュノには、一片の迷いもない。
暗い室内で、足元に描かれた魔方陣らしき図形が光を帯び、その光が上昇してジュノの体を包み込む。
「跳躍」
ジュノの言葉が引き金となり、彼の体は現世からゆっくり消え、違う次元へ飛んでいた。
室内の景色が完全に消え去り、一筋の光すらない真の闇がジュノの前に現れる。
ここは、現世とそれ以外の世界を結ぶ中間の地点。視界全てが漆黒の、上下も左右もない『無』の空間を何秒、いや何時間、旅したことだろう。
微かな光が点のように見え、その光に向かってジュノが進むと、やがて光が一気に広がって視界が開け──彼は夜の世界に降り立っていた。
体が、ふわふわする。
ジュノは夜の街を見下ろす丘の上に立っていたが、現世からこの世界にやってきた証として、彼の体は淡く発光し、輪郭がどこかぼやけた印象だ。
自分では地に足をつけて立っているつもりだが、何となく宙に浮いている感覚もあり、何度経験してもなかなかこの感覚には慣れないな、と思った。
「──じゃあ、行こうか」
誰に言うでもなく、ジュノは呟きながらゆっくり足を踏み出した。その瞳はどこまでもまっすぐ、夜の街を見据えていた。
《episode 3》
街には、思ったよりもすんなりと辿り着くことができた。
遠いような近いような、随分と時間が経ったような、しかしそうでもないような──この世界の、不可思議な距離感と時間の進み方に、ジュノは慣れているのか戸惑っている様子はない。
ジュノが足を踏み入れると、夜の街には様々な人々であふれていた。
シルクハットを被ってステッキをつく老紳士と老婦人の夫婦、若い男女のカップル、家族連れ、友人同士……。ジュノはそんな多くの人々とすれ違いながら、彼らが一様に幸せそうな笑顔を浮かべていることに気づく。しかし、彼らにはジュノの姿が見えていないらしく、時折ぶつかりそうな距離に近づいても特に咎められることはない。
辺りを見渡しながら歩いていると、ジュノの目に、道端で大人相手に靴磨きをしている少年の姿が目に入った。
19世紀頃の人々がごく普通に着ていたようなシャツとズボン姿にハンチング帽を被った少年は、大人相手に靴磨きの仕事をしているようだ。
ジュノがじっと観察していると、少年は仕立ての良い背広を着た壮年の男性の靴を、ひたすら丁寧に、丁寧に、時間をかけてしっかりと磨きあげていた。
やがて靴をピカピカに磨き終わり、相手がそのお代を払おうとすると少年は首を振って、ただただ、はにかんだ笑顔で頭を下げている。相手は気まずそうにしていたが、しばらくすると礼の代わりに手を上げて去っていった。
すると、少年はまた違う紳士に、手振り身振りで靴を綺麗にしますと伝えて仕事をとり、また丁寧に靴を磨きはじめる。その顔には充実した表情が浮かんでいるが、額には汗がにじみ、今にも地面に零れ落ちそうだ。
結局、少年は次の紳士からも代金をもらうことを笑顔で拒否し、頭を下げて別れていた。
言葉を発しないこの少年は、何らかの事情で口をきくことができないのだろうか?
しかし、それが靴磨きの代金をもらわないことの理由にはならないはず。そんなことを思いながらジュノは無言で少年に近づき、彼の前に立った。
少年は、輪郭のぼやけた姿で目の前に立った初対面の青年を上目遣いで見上げ、ハッとしたように手振りであなたの靴を磨きましょうか、と伝えてくる。
「靴磨きはいらないよ。この通り、僕のは磨けそうにないからね」
ジュノは輪郭のぼやけた自らの足を少年に差し出した。少年がその靴に恐る恐る布を当てようとすると、その手は幻のようにジュノの足をすり抜けた。
困った顔をしてオロオロする少年に、ジュノは言った。
「君には、僕が見えるんだね。一緒に来るかい?」
返事を待たず、ジュノは背中を見せて歩きだした。
急な申し出に少年は戸惑い、一人アワアワと右往左往したが、ジュノの姿が消えるまでには何かを決心したかのように顔を上げ、青年の後を追いかけて駆け出した。
《episode 4》
早足に自分を追いかけてくる靴磨きの少年を連れ、ジュノはさらに夜の街を進む。
街は歩道に沿って規則的に建てられた街灯と、この時間まで開いている商店の灯りが淡く輝き、行き交う人々も多いので賑やかな印象だ。
そんな大通りから裏道に入り、ジュノは一軒の修道院らしき建物の前で足を止め、その入口を眺める。
しばらくそうしていると、追いついてきた靴磨きの少年が『ここに入るの?』という顔でジュノを見上げていた。
靴磨きの少年を安心させるように「そうだよ」と頷き、ジュノは修道院の中に足を踏み入れた。
その小さな修道院には入ってすぐの所に礼拝所が設けられていて、一番奥まった壁面全体に厳かな宗教画が描かれ、中央通路で分割された左右には椅子とテーブルがセットになった席が数多く設置されていた。
ジュノと少年が通路をゆっくり進むと、一人の小柄な修道女らしき人物が祈りを捧げているのが見えた。
よく見ると修道女はまだ少女と呼ぶべき年齢のようで、靴磨きの少年と大差がないぐらいの年のように思える。
ジュノは、その少女が自分達の存在など意にも介さず、ひたすら祈る姿を眺めていた。少年はキョロキョロと礼拝所の中を物珍しそうに見ていたが、特に不満も言わずにジュノの傍らで従っている。
どれくらいの時間が過ぎただろうか。
少女が祈りをやめ、ゆっくりと顔をあげた頃合いに、付近をウロウロしていた靴磨きの少年が何かに躓いた弾みで、近くの席に体が当たった。
そう大きな音ではなかったはずだが、少女はビクリと体を震わせて声をあげた。
「だ、誰です?!そこにどなたか、いらっしゃるのでしょうか?」
わざわざ誰何をたださずとも──とジュノは思いかけたが、少女の様子を見てすぐに理由がわかった。
立ち上がった少女の目は閉じられたままで、席のそばに杖を立てている。彼女は──盲目なのだ。
「いらっしゃるのは礼拝の方、でしょうか?申し訳ありませんが、本日は集会日ではございませんのでまた日を改めていただけますでしょうか?」
遠慮がちな少女の声に、少年が狼狽して何も言えずにいると、ジュノが前に進み出た。
「勝手に中に入ってしまい、申し訳ないね。僕たちは礼拝者ではないんだけど、君はここのシスターなのかい?」
「い、いえ。……わたくしには、その資格はございません。ただここで、雑務と修練を行うだけの身の者です」
盲目のシスター『見習い』の少女は、両手を包みこむように胸の前で組んで、ジュノにおずおずと言う。
ジュノは少女をじっと見つめ、思ったことをストレートに尋ねた。
「君は……何を祈っていたの?」
「わ、わたくしは……」
少女は閉じた目をジュノに向けながら、わずかに口ごもった。
「その……具体的には、言えません」
「どうして?」
「祈りとは本来、己以外の誰かのための、尊い行為です。軽々しく他者にその内容を言うわけにはまいりません」
「ふぅん…?ということは、君は自分のためには祈らないのかい?」
「それはありえません」
「なぜ?」
「わたくしの生き方に反するからです」
「君の?」
ジュノは少し驚いた。こういう時、一般的には『教義に』と言われると思ったからだ。
「はい。誰かの笑顔、誰かの幸福、誰かへの想い、誰かと誰かの絆、誰かが誰かに向ける慈しみ……。願いも祈りも、わたくしは誰かのためにと思っております。それが生まれてきて、わたくしが今ここに存在する意味だと思っています」
その目は固く閉じられたまま。
しかし凛とした表情で、少女は力強く言い切った。
「……そうか。君も『そう』なんだな」
「え?」
ジュノの独り言に、困惑する少女。
「ぜひ、君に頼みがあるんだ。ほんの少しだけの時間でいいから、今から僕たちと街に付き合ってくれないか?」
「えっ、え……?!」
あまりに急な、初対面の来訪者からの申し出に戸惑う少女。
ジュノが靴磨きの少年に目配せすると、心得たように少年は少女に近づき、手を差し伸べた。
「僕の連れの子が、君の杖となり道しるべになろう。そして、ジュノ・フレングスの名と魂に誓って約束する。今から君を、君自身の祈りの根源に引き会わせることを」
ジュノの声は、特別大きなものだったわけではない。しかし、それは少女が今までの人生で聞いたことのないほど澄んだ声音で、その言葉は『耳』ではなく彼女の『魂』を震わせた。
少女は胸の前で自分の手をぎゅっと握りしめ──、やがて力を抜いてゆっくり手を前に差し出した。
「……わかりました。あなた方と、参りましょう」
《episode 5》
夜の街の中、盲目のシスター見習いの少女を、口がきけない靴磨きの少年が手をひき、さらにその前をジュノが先導するように進み歩く。
ジュノが時折視線を送ると、目の見えない少女に対して少年がさりげなく段差や障害物から避けるように補助をし、存外危なげないコンビの様子だ。
そうして歩いていると、街の一角から美しい旋律が聞こえてきた。
商店と商店の間の小さな空間で、弦楽器を弾いている人物がいる。その周りに幾人かの聴衆の輪ができていて、ジュノたちもその囲みに加わった。
弦楽器を弾いているのは、すらりとした長身の燕尾服を着た黒髪の青年だった。
淀みなく弦楽器を操る青年の手つきは非常に洗練されていて、そこから生み出される美しい旋律に、足を止めた人々はみな聞き惚れている。
やがて青年が最後の小節を弾き終えて弦楽器を持つ手を下げると、聴衆から拍手が起こった。
少年と少女も賛辞の拍手を送ったが、ジュノだけは弾き終えて楽器をケースに仕舞う青年に、黙って視線だけを向けている。
黒髪の青年にお金を渡そうとする聴衆もいたが、そういう目的で弾いていたわけではないのか、彼は受け取ろうとしなかった。
その様子を見て、何か思うことがあるのか、靴磨きの少年がじぃっと青年を見つめている。
次第に聴衆たちが離れていき、青年の前にはジュノたち三人だけが残った。
帰り支度を終えた青年は、当初自分に視線を向ける奇妙な三人の聴衆を無視して離れようとした。しかし、先頭に立つ青年・ジュノの持つ『雰囲気』に気づいて足を止めた。
彼はまるで、この世界の住人ではないような──体は不思議な淡い光に覆われ、輪郭自体が微かに揺らめいているようにも見える。
青年は楽器ケースを手にしたまま、対峙するかのような構図でジュノの前で立ち止まった。
無言の見つめ合いの中、先に口を開いたのはジュノだった。
「君は、すごいね」
ジュノの賛辞の声に、青年はぴくりとも表情も変えない。
その手の賛辞を聞き慣れているのか、そもそも興味がないのか。
しかし、ジュノの次の言葉に、青年は表情を変えた。
「本当にすごいよ──君はほぼ『耳が聞こえない』のに、あれほどの素晴らしい演奏ができるなんて、ね」
「──!」
なぜ初見の他人が自分の難聴を?
自分の秘密を看過され、青年の目が大きく見開かれる。そして、ある事実に気づいた。
──なぜ、自分はジュノの言葉をはっきりと認識できているのか?
その答えを、青年は視線でジュノに問う。
「理屈じゃないよ。うまく説明もできないが、僕には君たちのことが『解る』し、伝えるのは耳ではなく『心』にしているのだから」
──そういうものなのか。
黒髪の青年は、何となく納得してしまった。
目の前の青年はまるでこの世界の理の外にいるかのような存在に見える。そのジュノが言うのだから、そんなものかもしれない、と青年はぼんやり思った。
そんな青年に、ジュノは穏やかに語りかけた。
「よかったら、君も僕たちと来ないか?君と……僕と一緒にいるこの子たちに、これから見せたいものがあるんだ」
「見せたいもの?」
青年は、初めて自らの声を口に出して答えた。
「ああ。それは、一緒に来ればわかるけども。ジュノ・フレングスの名と魂にかけて、君にこの世界の『真実』を見せると約束しよう」
青年はジュノの瞳を見つめた。
その蒼い瞳はまるで宝石のようで、曇りなどは微塵もない。
──この青年の『言葉』と同じだな。
ふっと、黒髪の青年は笑みを見せた。
「いいだろう。では見せていただこうか、その『真実』とやらを」
黒髪の青年はジュノに大きく頷いてみせることで、同意の意志を伝えたのだった。
《episode 6》
同行者がまた一人増え、夜の世界の街歩きはさらに続く。
この世界で時間が進む感覚は曖昧だが、往来から人が消える気配はなく、街灯や商店の灯り、人々のざわめきであふれ、夜の街は暖かな光で満ちている。
その中をジュノ、手を繋いだ少年少女、楽器ケースを持った黒髪の青年、の順で一向は進んでいく。
不思議と誰も、目的地をジュノに訊く者はいない。
彼に付き合う動機は各人ともに別々のものだろうが、彼らは疑うことなく、それぞれの思いを胸にジュノに付き従っているようだ。
「……ん」
先頭を歩くジュノが、一軒の商店の前で立ち止まった。
その商店は、雑貨店だった。
ガラス張りの店内には、アンティーク調の家具やレトロな雑貨など数多く置かれているようだ。
「こちらが、何か気になるのですか?」
盲目のシスター見習いの少女が、ジュノに訊く。
「うん」
ジュノが頷くと、靴磨きの少年が背伸びをして一生懸命、店内を眺める。
「そんなに気になるなら、中に入ってみればいい」
黒髪の青年も後押しをしてくる。
「そうだね」
ジュノは雑貨屋の入口のアンティークな装飾を施されたドアノブに手をかけ、ゆっくりと引いた。
店内の光と古い雑貨の放つ独特な香りが、四人を静かに迎え入れる。
「~~!」
靴磨きの少年が、少女の手を引きながら瞳を輝かせて店内を眺め回した。
天井に吊るされた大きなランタンからの光が、室内全体を柔らかな暖色に包んでいる。その光に照らされているのは、アンティーク調の椅子やテーブル、上品な西欧人形、古めかしい蓄音機、ランタン、陶磁器製の食器、宝飾品、骨董品、大小様々な時計、シャンデリアをはじめとする様々な照明器具たち。そして壁には、複数の絵画がかけられている。
そう広くない店内に所狭しと詰め込まれた陳列品の数々は、乱雑に置かれた印象はなく、むしろ心地よい間隔を保って整頓されていた。
全員が店内に足を踏み入れ、各々が興味のある品を眺める。
靴磨きの少年は目の見えない少女のために、小さな置物を彼女の手に持たせた。手触りだけでその正体を探ろうとする少女。
それを見た黒髪の青年が、口のきけない少年の代わりに「それは兎の置物だ」などと横から口を出して少女に解説をしている。少女はその形を脳裏で想像しているのだろうか、笑顔を浮かべ、撫でるように触っていた。
ジュノは店内の隅々まで視線を送り、入口から順に置かれている雑貨をゆっくり見て回る。
なぜか店内にスタッフらしい人物の姿は、まったく見当たらない。留守の可能性もあるが店の扉に錠はされていなかったので、それだと不用心すぎるだろう。
入口から時計回りに各コーナーを回っていく中で、ジュノは店内に一番奥まった空間に木製の大きな年代物のアームチェアーが置かれているのに気がついた。背の部分には赤い上等な革が貼られ、アームの部分には凝った装飾が施されている。そしてその座面には──まるで置物のように、一匹の白い猫が丸くなっていた。
ジュノは静かに足を止め、やや距離を置いて白猫を眺める。
猫の目は閉じられ、腹部が規則的に上下に揺れていた。首輪の類いは着けていない。しかし、こんな特等席に堂々といるのだから、この雑貨店に何らかの関わりがあるのだろう。
ジュノの視線に気づいて、他の三人も傍に集まってきた。
靴磨きの少年は猫に触りたいのかウズウズした表情、黒髪の青年がシスター見習いの少女に白猫の存在を告げ、少女は「まぁ猫ちゃんですか?」と、目が見えないなりに表情を輝かせる。
しかし──。
ジュノだけは、他の三人とは違うまったく違う表情で白猫を見ていた。
その顔には、哀しみとも、悦びともとれる複雑な表情が浮かんでいる。どんな感情の時に、人はこのような顔になれるのか──。
ジュノはわずかに唇を震わせ、小さく呟いた。
「……やぁ。やっと、逢えたね」
彼の言葉は、たった一言。
だが、その言葉をきっかけに、寝ていた白猫の瞼がゆっくりと開き……、蒼いルビーのような瞳が見開かれた。そして、驚くべきことが目の前で起こった。
『ようこそ、旅の方。そしてわが同胞たち』
「?!!」
唐突に、白猫が喋った。
その事実に、ジュノ以外の全員が驚愕する。
『どうしました、喋る猫がそんなに珍しいですか?』
白猫は、厳密には猫の声帯で人語を口にしたのではなく、それぞれの頭に直接語りかけるという、テレパシーのような形で意思を伝えていた。靴磨きの少年は震え上がって少女の手を両手で繋ぎ、その彼女の手にも震えがあった。耳の悪い青年も、瞠目して白猫を凝視している。
「どうだろうね?僕には夜世界のことがよくわからないから、何とも言えないけど。ただ、君にやっと逢えたことには、とても感動しているよ」
『おや、それはそれは……。このわたしに、何か御用でも?』
「ああ。でも、本当は君も解ってるんだろう?僕が君の前に現れた理由を──」
『ふむ……。』
白猫は目を細め、値踏みするようにジュノを見つめる。
喋る猫も珍しいだろうが、幽体のような姿をしているジュノ自身も、人外具合では負けていないかもしれない。
『その様子だと、込み入った話になりそうですね……わかりました、場所を移しましょうか』
「うん、任せる」
白猫は首をわずかに上げ、ジュノ以外の三人に意思を伝える。
『同胞たち、少し旅の方をお借りしますね』
そのテレパシーとともに、白猫とジュノの姿が忽然と消え失せ、雑貨店にはジュノに付いてきた三人だけが戸惑いとともに取り残された。
《episode 7》
先程までの暖かな光に満ちた雑貨店から、ジュノの眼前にはこの世界に来たばかりの場所──丘の上の、夜の街を見下ろす光景が広がっていた。
来た時と違うのは、目の前に見知らぬ一人の長い髪の少女が、彼と同じ幽体のような姿で立っていることだ。
ジュノは特に動揺もせず、ごく普通に少女に語りかけた。
「やぁ、僕はジュノ・フレングス。……それが君の本当の姿なのかい?」
『これがわたしの、本当の姿?──ふふ、そうとも言えるし、そうではないとも言えますね』
脳裏に響く少女の言葉は、先ほどの白猫と同じ声。そしてその内容は、東洋の禅問答のようだ。
少女の憂いを帯びたその儚げな瞳と唇には不思議な魅力があり、全体的にどこかジュノと似た雰囲気をまとっているようにも見える。
『あなたは何のために、ここにいらっしゃったのです?』
ぴくり、とジュノの肩が揺れる。
『……わたしを、どうしたいのです?』
少女の問いかけに対し、ジュノはまったく違うことを答えた。
「あの子たちは……、君の欠片だね?」
『──!』
ジュノの言葉に、少女は少なからず驚いた様子だ。
『──やはり、解っていたのですね』
「まぁ、ね」
『わたしたちのこの会話は、あの同胞たちにも聞こえるようにしております』
『それにしても、よく三人とも正確に見つけることができましたね?』
「それは当然だよ。僕は、君を探しにきたんだ。だから君を見間違うはずがない」
『……それでは根拠に乏しいのですが?』
「ん。では、僕なりの考えを言ってもいいかな?」
少女はこくりと、首肯した。
「まず、口のきけない靴磨きの少年。彼は一生懸命、お客さんの靴を最終的には無償で磨いていた。決して裕福には見えない彼自身の生活もあるだろうに、それは驚くべきことだし、何が彼をそうさせるのだろう?」
「………」
少女は無言。しかしこの会話を、少女の力で遠く離れた雑貨店で聞いている少年は、ジュノの言葉にびくりと体を震わせていた。
「次に盲目のシスター見習いの少女。彼女は、自らの目が見えないというのに、その自分のためには祈らず、他人のためだけに祈りを捧げるという。それは篤い信仰心からなのか、それとも…?」
『………』
今度は、盲目の少女が小さな身を震わせる。
「最後に難聴の音楽家の青年。彼は何のために、あの素晴らしい音楽を街頭で一人、奏でるのだろう?あれだけの技術とセンスがあれば、耳のことを差し引いてもどこかの音楽団に入ることも可能ではないだろうか?または、古の音楽家のように、難聴でも作曲活動に専念するという手段もある。なぜ、街頭で聴衆に弾き聴かせる必要がある?」
『………』
黒髪の青年が、硬い表情でジュノの言葉に聞き入る。
直接言葉を向けられている少女は、ずっと無言を貫いている。
ジュノは一度言葉を切り、さらに言葉を繋ごうとする。
「彼らすべてに共通しているのは、無償のあ……」
『やめてっ!!!!』
突然、絶叫に近い少女の金切り声のような強い思念が、ジュノの言葉を遮って頭の中に響き渡る。
ジュノはわずかに顔をしかめたが、怯まなかった。
「君は、何をそんなに恐れているんだい?」
『……しったようなことを──』
「?」
『したり顔で、知ったようなことを、言わないで!!!貴方なんかに、わたしの……わたしたちの、何がわかるというのっ?!!』
いつの間にか、少女の目には止めどなく涙があふれていた。
ジュノはその様子を、目を逸らさず真っ直ぐ見つめる。
『わたしの心が、悲鳴をあげているのをっ!誰にも知られずに助けを求めているのも知らずにっ!──誰も彼も、わたしの上っ面を見ているだけじゃない!わたしのことを本当に考えてくれる人が……、理解してくれる人がいない苦しみを、今会ったばかりの貴方なんかに、わかるというのですかっ?!!』
それは『魂の慟哭』と言うべきか。
第三者には推し量ることのできない、少女の本音。誰に対して、何のことを言っているのか、当人以外には決してわからないだろう。だが、彼女もそれはおそらくわかった上で……その上で、ありったけの想いを思念として、ジュノにぶつけているのだ。
その尋常ではない様子を、雑貨店に残された三人も固唾を飲んで見守っている。
ジュノは言葉を返さない。
碧光が煌めく蒼い幻想的な夜空が、ただ黙って彼らを見下ろしている。
『妬み、嫉み、嫌がらせ。わたしが何かをすればするほど、その負の反動も大きくなっていくの!なぜ、みんなわたしを放っておいてくれないの?なぜ、好きでもないはずのわたしなどに、干渉したがるのですか?』
『わたしは……、わたしはっ!ただ………だけ、なのに』
最後の方は消え入るような思念で、そこまで言ってから少女は俯いた。
ジュノはかけるべき言葉がないのか、少女を黙ってみやるだけだった。
彼が重い口を開いたのは、嗚咽をやめた少女が、涙を拭って顔をわずかに上げた時だった。
「確かに僕は、ただの部外者で、今日が君と初対面で、理解者などではないかもしれない。君の抱える苦しみも、君だけのものだろう。──でもね。君の欠片たちと出会い、触れあい、あの街を実際に見て、歩いて……君にかけるべき言葉が一つだけあることに、気づいたんだ。もし、ちゃんと聞こえているなら、君たちもぜひ一緒に聞いてほしい」
最後は、雑貨店にいる三人に向かってジュノは言った。
一方の少女は、半ば絶望的な気分の極致だった。
この男がこれから何を語ろうとしているか、正確にはわからない。しかし、何となく想像はつく。
──君は一人なんかじゃない。
──もう一人で苦しまなくてもいいんだよ。
どうせ、そんな類いの慰めや励ましの言葉なのだろう。
今まで散々聞き飽きた、そんな毒にも薬にもならない半端な言葉などで。
自分の苦しみと、哀しみを。
この男は、どうするつもりなのだろう?
どんな言葉を口にするつもりなのだろう?
絶望する少女の目から一筋の新たな涙が流れ、それは頬を伝って宙に浮いた。
一滴の大きな雫となった涙の塊に、様々なものが映し出される。
それは、夜の街の人々の喧騒と笑顔。靴磨きの少年の懸命な仕事振り、弦楽器を弾く黒髪の青年の見事な演奏。そして、一人祈りを捧げる盲目の少女の無垢な姿。
それらを映し出した雫が、ゆっくりゆっくりと地面に零れ落ち、その音は波紋となって、夜の世界全体に深く静かに広がっていく。
そして訪れる、夜の静寂。
空の星々は哀しそうに瞬き、冷え込んだ風が吹き荒む。
少女が、そして他の三人が──、いや、この世界全体が。
ジュノの言葉を待ちわびているようだった。
彼は、すうっと深呼吸を一つした。
自分が言うべき言葉は、すでに決まっている。
迷いはない。
この世界に来て、ジュノが素直に思ったこと。
それは───
「君の、この世界を。
僕はただ、美しいと思ったんだ」
ささやくような、ジュノの微かな言葉に。
少女の目が、大きく見開かれる。
その途端。
世界が、とてつもない勢いで収束した。
《episode 8》
夜空に浮かぶ“ほうき星”のような碧光は、その面積を急激に拡大させ、一面を覆う巨大なオーロラとなって下界の街へ津波のように押し寄せる。それに触れた物や人は溶けるようにオーロラと一体化し、次々と消えていく。
ジュノが三人と別れた雑貨店も例外ではなかった。
店内に光の洪水が入り込み、靴磨きの少年、シスター見習いの少女、黒髪の青年を包み込んでいく。
彼らの顔に、恐怖の色はない。
その顔には、まるで最初からこうなることを知っていたかのような──どこか満足そうな笑みが浮かび、ゆっくりと三人は光の帯に巻かれていった。
そうして世界が、ほんの一瞬で収束すると、ジュノは最初に通ってきた漆黒の闇を通り抜け、いつの間にか元の魔方陣がある暗い室内に戻ってきていた。
そこには先程の少女の姿も夜の世界も、すべて跡形もなくなっていた。
ジュノの体は幽体ではなく、しっかりと輪郭を持ち、完全に人の形を保っている。
自分が右手を強く握っていることに気づき、ジュノは掌を広げてみた。
すると、掌からあの世界の光の残滓がふわりと浮かび上がり、それはすぐに宙に溶けて消えた。
すべては、夢か幻か──。
いや、違う。
間違いなく『彼ら』は、『彼女』の魂とともに今もあそこに『いた』のだ。
暗い室内で、ジュノは天井を見上げた。その部屋は吹き抜け構造になっており、天井には天窓が備え付けられ、ちょうどそこから月明かりが微かに洩れている。
その光を見て、ジュノは思い出さずにはいられなかった。
あの世界で見た物。
すれ違った人々の笑顔。
それぞれ順番に出会い、一緒に夜の街を歩いた、無垢な魂を持つ三人。
人の言葉を喋る白い猫。
そして、『夜の世界そのもの』ともいえる少女──。
それらの姿を、己の魂に刻んだ記憶を。
目を閉じても、濃密に思い出せる。
あの少女に告げた最後の言葉も。
もしも、あの場面にもう一度戻ったとしても。
その言葉が世界の収束をもたらすと、もしも最初から解っていたとしても。
ジュノは繰り返し、何度でも同じ言葉を、偽りのない想いを彼女に告げるだろう。
ささやくように、
呟くように──。
It's A Beautiful World.