9. 糸
バリンボリン、という硬い物を砕く子気味よい音が聞こえ、俺はそれで目を覚ました。
「つっ…」
ここがどこかわからない。辺りを見渡したが、暗くて何も見えない状態だった。
記憶が途切れる前に何があったかを思い出す。赤坂がああなって、それで…背後からの衝撃で俺は倒れた。頭だけでなく全身を打ったのか、体中が痛んでいる。
どこか体に異常がないかと調べようとしたが、何故か体が動かなかった。何かで縛られているようだった。完全に失敗した。もしかしたら、このホテルに住み着いている誰かから鈍器で頭でも殴られたのかもしれない。
せめて携帯でもあれば助けが呼べるのだが、気絶する前に手放してしまったのか、近くにライトらしき光は見当たらなかった。
意識は戻ったが、まだ半分夢うつつのようだった。あの赤坂は何だったのだろうか。もしかして俺が気絶していたのは、実はあれよりも少し前で、変な夢でも見ていたのかもしれない。…それにしては全てがリアル過ぎて、思い出して身震いがまたやってくる。目の前でグチャグチャになっていく人体の様子が脳裏に焼き付いて離れない。
それにしても、先ほどから聞こえるこの音はなんなのだろうか。樹を切り倒される瞬間の音にも似ているが、一緒に混じっている粘着質な音が、酷く勘に障る。音の方を向こうと身をよじるが、縄は全身にびっしりと執拗にまかれており、方向転換にはかなり難渋した。力んで外そうと思ったが、全身を輪ゴムでくまなく巻かれているように弾力があり、自由はあるのに解けない。
音がやむと、ガサガサというビニール袋を更に大量に鳴らしたような移動音がした。
「ひっ」
直ぐ近くに俺以外にも人がいたのか、男性らしき悲鳴が聞こえた。思ったよりも近い。半径2~3メートルくらいだ。
「ああっ、ああ助け…」
その誰かの助けを呼ぶ声の後、また、パキリ、とさっきと同じ音が響く。パキリ、ぐちゃぐちゃ、メリメリ。絶叫と一緒に何かが折れる音がする。闇に慣れてきた目で音のする方を見ると、そこには、牛くらいの大きさをした毛むくじゃらの蜘蛛が、悲鳴を上げる綿菓子を少しずつ咀嚼していた。
痛みに身をよじる誰かが血をまき散らし、辺りには血臭が立ち込める。暴れる餌を逃さまいと蜘蛛がその足の先端でお腹の辺りを抑えると、柔らかい肉にズブリと刺さり、誰かが串刺しになる。
悲鳴。
人間だった何かは食われて少しずつその形を失っていき、叫び疲れた疲労からか、声が一瞬収まるが、また蜘蛛に大きく身を咀嚼された瞬間、痛みによって絶叫を上げる。
俺は恐怖で声を出しそうになったが、蜘蛛の意識を引いてしまわないよう、歯を食いしばってそれを耐えた。涙が止めどなくあふれる。アレが終わったら、次は俺だと本能がささやいている。
食われている誰かは、腹部を乱雑に噛み千切られて絶命したのか、物言わぬ塊と化し、辺りにはまたボリボリくちゃくちゃという生理的嫌悪感を誘う音のみが響いている。
眩暈がした。
糸が地面とくっついているせいか、逃げようともがいたが、上着が脱げただけで、一部が取れてもまた他がくっついてしまう。
何故、何故こんなことに?この建物の一歩外に出てしまえば日常が待っているはずなのに、たかが数センチのコンクリの壁が今は限りなく厚く、俺を現実から遠く突き放す。
俺は涙で顔を濡らしながら、ポケットに忍ばせていたスタンガンを取り出して力の限りぎゅっと右手に握った。ホテルに入る直前にカバンから取り出してポケットに忍ばせておいたものだ。瀬戸が暴れた時に、護身道具が何かしら必要と痛感して買ったものだが、化物にこれが効くのかどうか。俺は本当にそれができるのか。歯の根がガチガチと震えて中々合わず、歯が折れそうなくらい必死に顎に力を入れてその音を止める。
「あ…」
気づくと音は止んでいた。絶望の合図だった。こちらに振り向いた蜘蛛が、無機質にその複眼で見つめている。
多脚類特有の巨体に似合わぬ足の速さでこちらに近寄ると、生臭い体を近づけて一脚を俺の体に突き刺した。腿に火箸を差し込んだかのような痛みが走る。叫んで全てを忘れてしまいたくなる衝動を抑え、運よく動く右腕で、スタンガンを思い切り蜘蛛の胴体に密着させスイッチを押した。
途端、暗闇に閃光が走り、電流の流れるダダダという音と共に蜘蛛が足を痙攣させた。半狂乱になり、俺は何度も目を閉じて蜘蛛にスタンガンを当て続ける。
スタンガンのバッテリーを使いつくすと、蜘蛛は足も痙攣させず最後には動かなくなった。
終わった。
腕の力で匍匐前進し、蜘蛛から離れた所で放心していると、暗闇を切り裂くように白い光が俺を照らした。
「あら、助けはいらなかったみたいね」
聞き慣れた声に振り向くと、そこにはライトを携えた沼隈がいた。
「お前…何でここにいんだよ」
幾ら何でも、こんな所で偶然はあり得ない。本屋じゃないんだぞ。
「何でって、モールの本屋さんから帰ってると、貴方が駅前から明らかにラリってる女の子と手つなぎデートしてたから、気になってつけて来たのよ。ここに入ってからは見失って、下から見回ってたから追いつくのは遅れたけど、何か楽しい事があったみたいね?」
と言って、沼隈がライトで奥にいる蜘蛛の死体を照らす。駅前であれだけ注目を集めていれば、その可能性もあるか、と思った。俺自身も赤坂が人垣を作っているのに気づいて見つけたのだ。
「ああ、ちなみに次の公演は予定してない。悪いけど、この糸取るの手伝ってくれないか?」
「えぇ…しょうがないわね。私虫大嫌いなんだけど」
沼隈は心底嫌そうな顔をすると、手近にこのホテルのライターが数本あったのを見つけて、着くかどうかを確認し、両手に持って俺に近づいてくる。
「おいお前何するつも熱アッッッ!」
糸に火が付くと、アルコールのように瞬時に燃え上がり、全身が一瞬火だるまになった。火は直ぐに消えたものの、熱伝導が異常にいいのか、素肌の部分が軽く焼けた。が、体は自由になった。
「無茶苦茶だ…」
髪を燃やしたような変なにおいが辺りに立ち込めている。
「文句が多いわね。それで、用事は済んだのかしら?」
沼隈に言われて、俺はようやくこのホテルに来た理由を思い出していた。
「そうだ。沼隈も見ていたなら、俺と一緒に入った女の子を建物内で見なかったか。気絶して見失ってしまったんだが、あれが赤坂なんだ」
ここまで危険を冒してまで見つけたのだ。絶対に連れ戻さなくては。
「赤坂さん?いえ、見ていないわ。下から見てきたけど、私が上ってきた非常階段では誰ともすれ違っていないもの」
「くそっ、せっかく見つけ出したのに」
これではまた振り出しに戻ったのと同じだ。
「沼隈、悪いが赤坂を探すのを手伝ってくれないか」
「探す?」
沼隈が俺の言葉に、怪訝そうな顔をする。
「そうだよ。この建物のどこかにいるかもしれないから、手伝って欲しいんだ」
そう俺は訴えかけるが、沼隈は返事をせずに、辺りをじっと眺めていた。
その視線の先には、真新しい赤い水たまりがあった。先ほど絶叫を聞いた辺りである。ライトのある今ならよくわかるが、褐色になっている古い血痕が、床を覆いつくさんばかりに点在していた。
「ねえ、千年君。もう一度聞くけれど」
沼隈は赤い染みと、蜘蛛の化物を交互に見るようにして、俺に問う。
「私は、何を探したらいいの…?」
「だから、赤坂、を…」
探すのだ。どんな手を使ってでも家に帰す為に。
「自分でもわかっていることを人の口から言わせて、そんなに私を悪者にしたいのかしら」
「そんなつもりじゃねえよ…」
そんなつもりはなかった。
わかっている。
十中八九、赤坂ことりは蜘蛛の化物に喰われて殺されている。その茶色い染みのどれかがそうだ。食われるのみならず、信じがたいことだが、彼女は死後も化物に操られ、新たな餌を誘き寄せる道具として使われていたのだろう。今日俺がここに来たように。
「別に、あなたが探したいのなら、私は止めないわ。でも、私はこっちの方を調べさせてもらうわね。これ、あなたのでしょう?」
沼隈は俺に何かを投げると、蜘蛛の死体の方へさっさと歩いて行った。俺が危なげにキャッチしたそれは、ライトが付きっぱなしの俺の携帯だった。バッテリーがよく持ったな、と思ったが、意外と気絶した時間は短かったのかもしれない。長ければ、その間に喰われていただろう。
ライトで照らした室内には、何故かバッグや衣服の切れ端だけ奇妙に集められている一画があった。食べられない物はなるべく巣から排除する蜘蛛の習性だろうか。その中に、うちの学校指定のカバンが見えた。
『鞄…』
赤坂がここに来る前に発していた言葉は、俺をこのホテルに誘いこむ為だけの嘘だったのだろうか。
「え…?ぐぶっ」
「は?」
変な沼隈の声に驚いて振り返ると、蜘蛛の足先の鉤に沼隈が腹部を貫かれて宙に浮いていた。沼隈が身を捩って蜘蛛の顔面に蹴りを入れるが、何の効果もなく、蜘蛛がそのまま沼隈の体を地面にたたき付ける。
「もう勘弁してくれ…」
散々殺されかけたせいで感覚がマヒしているのか、先ほどよりは体が動いた。
俺は素早く足元にあった殺虫剤のスプレー缶とライターを構えると、即席の火炎放射器を作り蜘蛛にギリギリまで近寄る。着火と同時にジェット音と闇夜を切り裂かんばかりの赤熱の炎が、蜘蛛の粗雑な毛を焼き散らし、蜘蛛をかなり怯ませる。見かけは派手だが、丸焼きにするにはてんで火力が足りていない。
だが反撃されないよう、ガスが切れるまで放射し続けるしか今は手がない。
「おい沼隈!生きてんのか!返事しろ!」
致命傷を与える手など思いつかないので、もう逃げの一手しかなかったが、あの状態の沼隈は走れるのか。やばい、やばいやばい。焦燥にジリジリと精神が蝕まれていく。まさかの二人とも死亡パターンか。俺たちも赤坂みたいに操られ不幸の拡大再生産を繰り広げるのか。
数十秒噴射していると、スプレーのガスがなくなり勢いが見るからに落ちて来た。身をすくめている蜘蛛が反転攻撃に移るのも時間の問題だ。
「千年君、そのままくぎ付けにしておいて」
突如、沼隈の声がした。
次の瞬間、ブン、という空気の唸る低い音がすると、蜘蛛の脚が一本天井に吹き飛んだ。
「やっぱり。これは効くのね」
起き上がっていた沼隈の体から、続けざまに闇が円錐状になって蜘蛛の足をまた吹き飛ばす。蜘蛛がその場に倒れ混みながら渾身の一撃と脚を振るうが、それも錐に空しく切り飛ばされる。
「やだ、これ楽しいわ」
笑いながら沼隈は一本、また一本と無慈悲に脚を切り取っていく。蜘蛛は最後に胴体だけが異様にでかい、綿埃の塊のようなものに成り果てる。
「私の胴体を貫いた時に、反射的に足先を吸収できたからもしやと思ったけど、初めからこうしておけばよかったわね。霊体には霊体で触れるのね」
沼隈は加虐心がそそられるのか、錐で僅かに胴体に残った手足もスライスして完全に蜘蛛を達磨状態にしていく。胴体は俺が炙った火傷以外は無傷だったが、蜘蛛は自らの死を覚悟したのか完全に動かなくなった。
「沼隈、お前普通に動いてるけど貫通した所は大丈夫なのか…?」
沈黙した状態になってようやく俺は彼女に話しかける。出血が酷くスカートと右の太ももが血まみれになっている。
「駄目ね。内臓が完全にグチャグチャだわ。私じゃなかったらどう考えても死んでるわね。ほら、完全に背中まで指が通るのよ」
沼隈はお腹に空いた穴に、その長い指をスポ、と入れると、完全に埋没してしまう。何でもないような顔をしているが、何でこいつは生きてるんだろう。
「それ、ちゃんと治るのか?」
「そこの所私もわからないのよね。半分人間やめてるから、なんとなくだけどこいつを食べたら回復するような気がするのよ」
こいつ自身も、自分の存在を探り探りで生きているようだった。
沼隈の体からわさわさと闇が滲み出る。ゆっくりとした速度で近づけているのは、より一層蜘蛛の恐怖を引き出す為だろうか。纏わりつくように嫌らしく覆っていく闇に、蜘蛛は最後に胴体だけで芋虫のように身じろぎしたが、ひときわ大きく体を震わせると、動きが止まって静かになった。
闇が退くと、驚くことに、床には脚を丸めて天井を向いて固まった10㎝程の小さな蜘蛛だけがそこにいた。本体は思いのほか小さかったらしい。
沼隈はそれを靴の裏でゆっくりと体重をかけて潰していく。靴からはみ出るように蜘蛛の体液が床を汚していくと、彼女は満足げに息を吐いた。
「終わったわね」
結局、俺たち二人を除いて、生きている物は全て床の染みになってしまった。
辺りが再び静けさを取り戻したころ、俺はアドレナリンが切れて痛む腿を引きずりながら、ずっと気になっていた、固められているゴミ山に近寄り、うちの学校指定の鞄を取りだした。
それには血がベッタリとついており、手にすると、渇いた一部がナイロンからぱりぱりと剥がれていく。外側のリングの所に、学業成就のお守りがキーホルダー代わりについていたが、金糸が眩い以外は、血を吸い過ぎて元が何色だったかわからなくなっている。
ファスナーを開けて中身を見ると、教科書はほぼ入っておらず、ポーチやお菓子、手帳、デオドランドシートなど持ち主が女子だという事を示すような物が入っていた。財布を見つけたので、何枚か会員証を抜き取って裏を確認すると、そこに『赤坂ことり』という名前があった。それが意味することを受け止められるまで、少し時間を要した。
放心している俺の後ろに、いつの間にか沼隈が何も言わず立っていた。
「モールでさ、赤坂の事を話した時があったよな」
余りにも多くの事がありすぎて、たかが2、3日前の事なのに酷く昔の事のように思える。
「ええ、したわね」
「これじゃあ…」
俺や赤坂の母親があんなに必死になって探していたのは、ナイロンでできた鞄でも、ましてやただの床汚れみたいな、こんな赤黒い染みでもない。
「こんな鞄じゃ、駄目だよなあ…」
俺は遣る瀬無い気持ちを堪えるように、震える両手で鞄をきつく握りしめた。




