6. 埋められぬ温度差
昨日の事がまだ尾を引いているのか、その日は寝起きから体が重く、なんとなくスッキリしない一日を過ごした。放課後になっても俺は席から立ち上がる気力がわかず、卓球部へ向かう気持ちにすらなれない。
原稿でも書いていれば気が紛れるだろうとシャーペンを取り出したが、芯が詰まっているのか中々出てこない。しょうがないので出るまで押し続けるが、どうも何するのも冴えない日だった。
「さっきからずっと押してるけど、シャーペンの芯ないならあげようか?」
「え?」
隣の多治米に指摘されて、俺は既にシャーペンを押し続けてかなり経過していることに気づいた。言われてみれば、これだけ押して出ないなら、それは詰まってるのではなく芯がないのだろう。人に指摘されるまでそれに気づかないだなんて、今日の俺は本当にどうにかしている。
「ないんでしょ?」
「あ…いや、芯をもってないわけじゃない。ちょっとぼんやりしてた」
筆箱からシャーペンの芯を取り出して入れてみると、普通に出てきたのでやはり芯切れだった。
「その特集まだ悩んでるんだ。何か決め手にかけるの?」
その間に俺のノートを見た多治米が、ドキュメンタリーの原稿だと気づきそういった。
「悩んでるというか、上の空というか…」
赤坂の事なので、卓球部絡みで特集に関係あるとも言えるし、言えなくもない。
「ふーん、今日一日なんかおとなしいと思ったらこれだったんだ」
「そんなに態度に出てた?」
「出てたよ。だって休み時間も、ずっと黙って頬杖ついて考え事してたじゃん」
言われて、今朝からの自分の行動を思い返してみみたが、確かに席に座ってる記憶しかない。自分の事は自分が一番よくわかっているという決まり文句があるが、俺は明らかにそれに該当しないようだった。こんな状態じゃ何してもダメだろう。さっさと帰った方がよさそうだ。
俺は鞄を取り出すと、机の上の物を払い落すように乱雑にカバンに落として詰めた。
「帰るの?」
「ああ。今日は気が乗らないから部室にも行かずに帰る」
「なら気分転換に、今日もジューススタンド来ちゃう?」
多治米が悪戯めいた顔をして笑う。
「何でそんな毎日行かなきゃいけないんだよ…」
釣られて俺も苦笑した。
多治米の言うように、気分転換にどこかに寄って帰るというのは名案だったが、駅前には近寄りたくなかった。きっと、今日も赤坂母はそこにいるのだろうから。今の精神状態でそれを見るのは辛かった。考えないようにしていたのに、赤坂母の不安そうな顔がチラリと脳裏をよぎる。あの顔では、娘を探すというよりは、娘に自分を見つけて欲しいとでも言っているかのようだ。
「あんまりのんびりしてると、電車に乗り遅れるんじゃないか」
思い出し、仏頂面になって来た自分の顔を多治米に見せたくなくて、俺はしなくてもいい気遣いをした。
「あ、ほんとだ。急がなきゃ」
多治米は腕時計を見ると慌ててカバンに荷物を詰め始める。
「きっとさ」
「何だよ」
「今日も赤坂さんのお母さん、あそこにいるんだろうね」
息が止まりそうになった。俺は電車の話をしたのが失敗だった事に気づいた。バイトを連想させるキーワードを話せば、通勤路である地下街を通る度赤坂母を目にしている多治米が、その考えに容易にたどり着く事を、俺はもっと考慮すべきだったのだ。
「…そうだな」
口に出すと、それで蓋が開いてしまったかのように、昨日の記憶と感情がじわじわと噴き出してきそうになる。
「何もしてあげられないのかな…」
「そうだな」
寂し気にいう多治米を見るのが辛くて、俺はロボットのように生返事を繰り返した。胸が酷くざわついていた。多治米に言ってやりたい。赤坂は、お前がそんな風に思ってやるような奴じゃないと。
「ちょっと千年冷たくない?少しでも思わなかった?」
「いや、だから思ってるって…」
俺の反応が素気ないせいか、多治米はむっとしてるようだった。完全に被害妄想だが、昨日の自分の判断を責められているように感じてイライラする。
「じゃあ何でそんなに冷たいの?」
「……子供にできることなんて限られてるだろ。警察に任せた方がいい」
「そんな言い方ってなくない…?」
ボロがでないように必死に考えながら話していると、つい口数が少なくなり多治米を怒らせてしまう。
理不尽だ、と思った。気づけば俺は苛立ちを覚え始めていた。そもそも俺は、多治米と赤坂の母親が傷つかないように黙ってやってるのに、何で俺がこうして多治米に非難されないといけないのだろう。悪いのは、全部赤坂なのに。
「もう少し千年って優しい奴だと思ってた」
多治米のその一言で、自分でも驚くくらいスイッチがカチンと入った。
「じゃあ俺に母親と一緒に赤坂を探せっていうのかよ!」
我慢できずに出た言葉は、自分でも驚くくらいの大声だった。残っていたクラスメイトの視線が一身に集まり、驚いた多治米が一歩後ろに下がって怯えた目で俺を見る。
やってしまった。怒鳴り散らして溜まったフラストレーションを発散してスッとしたのは一瞬だけで、直ぐに後悔で胸が一杯になった。どう二の句を継げばいいかもわからず、教室のシンとした空気と、廊下から聞こえる喧騒がアンバランスに辺りに響く。
「どうした、何かあったのか?」
救世主は、とぼけた口調で焼きそばパンを齧りながら現れた。明王院だった。部活前の腹ごしらえをしているらしい。明王院が意図的に醸しだしたその雰囲気のおかげで、ふっと、多治米の肩から力が抜けたのがわかった。その緊張を俺が強いていた事に気づいて自己嫌悪で死にたくなる。
「いや…何でもない。多治米もすまない。朝から実は頭痛がして体調が悪かった」
俺は取ってつけたような言い訳をして、明王院に会釈をして感謝を示しカバンを担ぐ。
「多治米もバイトだったろ。遅れるぞ」
すれ違い様に多治米に声をかけると、時が止まったかのように硬直していた彼女が、ぎこちなく帰宅準備を再開する。その様子を俺は横目で見届け、逃げるように教室を後にすると、部室棟の方に歩いていった。
部室を開けそこにいた人の顔を見ると、俺は安堵の余り無意識にため息をついていた。
「人の顔をみてため息つくなんて、酷い奴だなお前は」
「ここ、駆け込み寺だって聞いたんですけど、違いましたか」
「部長が坊さんばりに説教かましてくるのと、それが念仏に聞こえるって意味なら正解だな」
俺の軽口に副部長は柔和な笑みを浮かべる。その顔を見て、ささくれ立っていた気持ちが水面のように凪いで行く。ここには、穏やかな日常があった。
まあ食えよ、と副部長は言うと、机の上に広げていた小分けの自分のチョコ菓子を、バーのカウンターからグラスを滑らすかのようにシャーッと俺の近くまで流してくれる。
俺は椅子に座って何も言わずに、もそもそとチョコ菓子を食べ始める。気温のせいで大分チョコは溶けていたが、甘味を脳が欲しがっていたのか不思議と嫌な気持ちはせず、あっという間に4個を平らげた。
副部長は菓子を食べながら携帯ゲームをしているようだ。ゲームから流れる、少し調子っぱずれの歌声が室内に響く。確か最近はまっているアイドルを育てる感じの奴だろう。前見せてもらったが、副部長のお気に入りはアイドルにしては180cm越えの背の高い女の子で、背の低いキャラと組み合わせると、ダンスシーンでその子の首から上がフレームアウトすると笑っていた。
「副部長って、最近いつ怒りました?」
「ついさっき。ガチャ引いても目当ての子がでなくてチョコ馬鹿食いしちまったわ」
そのアホみたいな理由に思わず鼻を鳴らしてしまう。俺は副部長の机にちょっとした小山になっていた包装用紙の原因を知った。
「でもな、むしろこうして簡単に出ないことに意味があるっつうか、押しキャラへの愛が試されているっつうか。わかるか?中々でないことに対して、その子の価値を確信してくるんだよな。安い女じゃないって。こいつにつぎ込んでる俺の目に狂いはねえわ、みたいな気持ちになっていくんだよな」
「えっ、何言ってるんですか怖いんですけど」
この人チョコの食いすぎてトリップでもしてんのか。
普段は仏のような懐の深さを持っている副部長だったが、こうして時折見せる狂気が、まるで集団に潜伏している頭のいいサイコパスを思わせて俺はマジで怖かった。
ゲームの中のライブが終わったのか、副部長が携帯を机に置き、目頭を揉みながら天井を見上げる。
「尊い…」
恍惚とした表情で呟く。どう見ても病気だった。
「副部長は課金とかしてるんですか?」
「いい女に金がかかるのはしょうがないことだ」
「俺ゲームの話してましたよね?」
お金がないので課金否定派の俺だったが、副部長の醸し出す雰囲気が完全に大人のそれで、一瞬データの売買の話なのか自信が持てなくなった。まだ頭の中が旅行中らしい。
「この子の新しい歌を見るのも、衣装を買うのも、金が幾らあっても足りゃしない。ゲームの中では俺はプロデューサーなんだけど、やってることはパトロンだよな。いや、親かな。娘のお稽古ごとに金をつぎ込んでる教育ママだ」
「娘、ですか」
ここでもそういう単語に出会うとは思っていなかったので、正直げんなりしてしまう。
「どうしたそんな嫌そうな顔して?」
赤坂の件を副部長に話すつもりはなかったが、不器用な俺は完全に隠すと先ほどの多治米との時のように失敗してしまうのがわかったので、遠まわしにでも言ってみる事にする。
「例えば、副部長はそのゲームのキャラが悪いことしたらどうしますか。万引きとか」
「二次元と三次元は分けたほうがいいぞ。楽園から帰ってこれなくなっている奴を俺は何人も知っている」
副部長がお前もようやくこっち側に来たか、とでも言いたげな顔でにやつきながら答える。
「例えば、例えばですよ。親になったと思って」
「そうだなぁ。親だろ?まあ、悲しいだろうな。自分の教育が間違っていたと知って落ち込むだろう」
その言葉を聞いて、俺は昨日の判断が間違いではなかったといわれたような気がして、少し救われた気持ちになった。
「他には?」
「その子の為に怒る。為にならないことはしないで欲しいし、自分を大切にして欲しい」
「なるほどなるほど。加えてその子が家出もしてて男とだらしなく関係持ったりしてたらどうします?」
「やってられんからアンインストールする」
そういえばゲームのキャラという設定であった。確かにそんなゲーム誰もやらないだろうし、開発企画の時点でまずポシャるだろう。
「あー、リアルだとどうでしょう」
「俺なら見つけ次第ぶん殴って家に連れて帰る」
仏からはほど遠い回答だった。破戒僧かな?
「…勘当したりしません?」
俺が気になっていた事はもう一つあって、そもそもそんな事をする娘は帰ってこなくていい、という判断を、赤坂が母が下すかどうかなのだった。
「どうだろうな。可愛さ余って憎さ百倍って感じかもしれんな。だが、勘当したくなるくらいムカつくのは、期待を裏切られた事に対する愛情の裏返しだと思う。実際に勘当して失うのはさぞ惜しかろうよ」
「そう言うもんですかね」
副部長の言葉は、どうも理詰めに過ぎて感情に訴えかける所がなく、俺の心にしっくりこなかった。反応が今一つだった事に副部長も気づいたのか、苦笑いしながら言葉を続ける。
「とは言ったものの、結局親の愛情なんていうのは、子である俺たちには想像が尽かんさ。吉田松陰の辞世の句に『親思う心に勝る親心』というものがあるが、意味は、子が親を思う心以上に、親の子に対する慈愛の気持ちは更に強い、という事だ。考えるだけ無駄ってこったな。今んとこ俺達にできるのは、それをゲームで味わうくらいだ」
そう言うと、重課金勢の副部長はまたゲームに戻っていった。