5. 隠し事
初めは一週間卓球部を手伝うと新涯君に言っていたものの、思いの他新生卓球部が順調に滑り出し手伝う事が何もなくなったので、今日はオフにして本屋に行くことにした。
放課後いそいそと鞄に荷物を入れていると、同じように帰宅準備をしていた多治米が話しかけてくる。
「めずらしー。そんなに急いでどこいくの?」
「本屋に行こうと思ってさ」
「ふーん。漫画?」
「書籍。だから駅前のモールまで行くつもり」
田舎の本屋には漫画と雑誌くらいしか置いていないので、書籍関係は多少面倒だが、駅前のモール内の本屋に行かなくてはならない。ネットと大型書店に売り上げを奪われて、地元の本屋は壊滅的状態だ。
「じゃあ一緒に行こうよ。私今日バイトの日だし」
「あー、そういやモールで働いてるんだっけ」
記憶によれば、多治米はモール内のジュース屋でバイトをしているはずだった。確かシフトは平日二日と土日だった。
「そうだよージュース飲んでく?ばれない程度なら量おまけするよ!」
「あそこのジュース不味いじゃん。黒酢みたいな味がして喉がやられる」
一度だけ行ったことがあったが、一杯400円もするジュースを最後まで飲み干せなかった屈辱的な記憶が蘇る。結局ジュースの口直しに自販機で飲み物を買うという、間抜けな思い出である。
「あはは。それはチョイスが悪いね。あそこバナナ系以外のジュースは酸っぱくて飲めたもんじゃないよ」
当の店員から思いもよらない言葉が出る。そんな物売らないで欲しいですけど。
「店員の言うセリフかよ。何でそんなとこで働いてんの?」
「時給がよくて制服が可愛いから?それを着て働いてる可愛いあたしサイコーみたいな」
多治米の動機は女子特有のアレだった。絶対こいつはバイト中に写真をとってSNSに投稿している。
「あ、でも千年自転車だっけ?」
「いいや。初めからモール行くつもりだったから、今日は電車で来たんだよ」
買い物をすれば無料にはなるが、モールに停めるには100円かかるし、何より駅近くに駐輪すると、盗まれた時のトラウマで不安になるので、余り乗っていきたくなかった。
「じゃあ急ごう。次の電車の時間逃すと20分後になるから、早く行くよ」
ダイヤまで把握してるとは流石に行き慣れている。
多治米に急かされながら足早に電車に乗りそこから一駅。大量の客と一緒にところてんのようにホームになだれ込むと、そのまま地下街を通りモールの地下入り口まで歩いていく。平日だというのにまるで祭りのような人ごみだった。
「千年はバイトしないの?」
多治米の速足についていきながら歩いていると、そんなことを聞かれた。
「夏休みにバイトした分があるから、学校がある期間は考えてないな。そんなに欲しい物もあるわけじゃないし、部活もあるから」
何もない時はホントに暇だが、今回のように特集記事があって、集中的に取材をしなければならない時は、バイトをしていない分身軽に動けるメリットがある。
「千年って物欲ないよね。ホント羨ましい。私なんてバイトのせいで遊ぶ時間が減るわ、でもお金がないと遊べないわで、痛し痒しなんだよね…バイトも楽しいからそれはそれでいいっちゃいいんだけど、ままならない人生だよ」
そう言いつつも、語る多治米の表情は明るい。
部活動に、楽しさよりも苦痛を覚えている割合が多くなっている俺は、そんな顔ができる多治米が正直羨ましかった。バイト先がどんな感じなのか、本屋の帰りにでも寄ってみようと思った。
「あっ、また…」
ふいに多治米が足を止めた。その視線の先を見ると、地下道でキョロキョロ辺りを見渡している一人の女性がいた。
「知り合いか?」
「うん」
多治米の顔が何故か曇っている。
彼女はその女性と目が合ったのか、軽く会釈をすると、あちらも同じように頭を下げた。かといって特に話はしないのか、多治米はそのまま女性の隣を歩いて通り過ぎていく。暫く歩いて、女性に喋り声が届かなくなるくらいの距離になってから、多治米が再び口を開いた。
「あの人だよ。赤坂さんのお母さん。私がバイトに来た時には必ず見てるから、多分毎日いるんだろうね」
「えっ…じゃあ探してるのか。自力で?」
赤坂の家出の事は、正直俺の中では卓球部が赤坂なしでもうまく動き始めた事で、既に過去の話になっていた。
「多分ね。きっと警察に届け出たけど、まだ見つかってないんだと思う」
俺はこの件を学校で話す時、多治米が浮かない顔をしていた理由をようやく理解した。バイトに行くたびにこれを見ていたのでは無理もない。
それきり会話は途切れ、地下街を抜けると、多治米は従業員用の通用口の方に消えていった。
一人取り残された俺はというと、少し疲れたので、目当ての本屋に行く前に休憩がてら自販機でジュースを買い、エスカレーター横に置いてあるベンチに座る。
「よく考えたら、俺全然急いでなかったんだよな」
多治米があんなに速足で歩くのは誤算だった。途中から『俺はいいからお前は先に行け!!』とRPGのボスキャラ前のノリで言いたくなったが、電車まで一緒に乗っておいて、今更それを言い出す勇気はなかった。
普段しない早足で結構疲れたのか、中々ベンチから立ち上がる気になれなかったので、暇つぶしがてらに携帯を開いた。
かといって特にやることもなかったので、先ほどの事もあり、隣のクラスの赤坂とやらをSNSで気まぐれに探してみる。名前、キーワード、学校名、クラスの順に探っていくと、それらしき子のアカウントを見つけた。赤坂ことり。アップしてある写真に、先ほど地下街で見た母親と一緒に写っているものがあったので、恐らく間違いないだろう。
投稿コメントや写真からすると、一見何の変哲もない仲良さげな母子に見えるのだが、家出をするという事は、何かしら事情があるには違いない。
余り写真を見続けるとパケットが上限に達してしまうので、俺はアプリを閉じて、モールの公式サイトで案内図を開く事にした。ここは広すぎるので、偶にしか来ないと中々間取りが覚えらえない。取り合えず目当ての店舗は何階、というアバウトな覚え方で移動をすると、他の棟への接続通路に気づけずに、延々と回遊魚のように同じ階をグルグル回ることになる。
俺は携帯としばらく睨めっこした結果、なんとか5階の本屋に直通で上がれるエスカレーターを見つけたので、そこまで一直線に歩いて行き、だらだらと上昇していった。
「…おっと?」
目当ての本屋に入った途端、遠目に思いがけない人を見た。
不安になるくらい華奢な手足、内臓が入っているのか怪訝になるくらいの細いウエスト、周りにいる女性はけして太っていないはずなのに、彼女と並ぶと肥満気味に見えてしまうのだから、女性としてはたまらないだろう。沼隈だった。
そういえば、彼女は何時も部室で読書をしていたのだ。ネット通販派でなければ、まともな書店を探すと近辺ではここしかないのだから、自然合う確率は高くなる。あれだけ長時間いるはずの学校ではなく、ここで会うと言うのが、お互いの大っぴらにできない関係性を示しているようでどこか面白い。
見た所、沼隈がいるのは文庫コーナーだったので、俺の目的とは違うようだった。近くに行くならともかく、これだけ離れていればあっちも気づいてないだろうし、挨拶は別にいいだろう。話題がないと気まずくなるだけだ。
今回は記事を書くに当たり卓球の本を買いにきたので、書店の端末でキーワードを入れて目当ての本棚を探し出し移動すると、適当に開いて数冊パラパラと流し読みしてみる。
本を手に取って読むという久しぶりの感覚に、自分がインテリのような感じがして少し楽しくなってくる。電子書籍もいいが、内容の試し読みができないから、紙の本の需要というのはまだまだありそうだな、と思った。
「そんなににやついてると、変な本でも読んでると思われるわよ」
その聞き覚えのある声に、心臓が止まりそうになる。声の方を見ると、あろうことかそこにたのは沼隈だった。スポーツコーナーには無縁そうなキャラだと思っていただけに、完全に油断をしていた。
「心臓に悪い登場の仕方をするなよ…それに変な本ってなんだよ」
18禁コーナーははるか遠くだ。スポーツコーナーの飛び散る汗は爽やかで、そういうのとは対極に近い。
「人によっては、昆虫図鑑の虫の交尾にも興奮を見出す人がいるらしいわよ。学術的興味をカモフラージュにして性欲を解消しようとするなんて、とんだ研究熱心な虫取り少年もいたものよね」
沼隈はのっけからハイギアで走っていた。花の女子高生の発言とはとても思えない。
「呪いよりも話辛いネタをどうも有難う。でも、意外とそういうのが学者として大成したりすんだよ。ほっといてやれ」
その変態は国語辞典の卑猥な言葉にマーカーしたりする感じで、図鑑の交尾してる写真にポストイットでも挟むのだろうか。
「ところで、何かと思ったら卓球の本を探しているのね」
俺の読んでいた本のタイトルを見たのか、沼隈が意外そうな顔をする。自分で言うのもなんだが、俺はスポーツ系に興味がありそうな人間ではないので、その気持ちはよくわかる。
「今、卓球部のエースに密着してドキュメンタリー的な記事を書く事になってるんだよ。それで彼と一緒にいるうちに、思った以上に自分が卓球を知らなかった事に気づいて、こうして資料を買いに来てる所だ。でも正直、種類が多すぎてどれを買っていいかよくわからんな」
Wikipediaくらいの内容で写真付きの物が良かったのだが、どれもかなり分厚く千円以上する。間違ってもDVD付の物なんていらない。
「それだったら買うまでもなく、学校の図書室の物でよかったんじゃないかしら?」
「そうなんだけど、ルールが変わってると嫌だから、なるべく最新のが良かったんだよな」
スポーツの根本自体は変わらないが、国際ルールが適用されたりして微妙に細部が変わることがあるので、どうせ読むなら新しい方が良いかと思ったのだ。
「それより、沼隈はホントにその作家が好きなんだな。最近出た奴か?」
今度は逆に沼隈が持っている本の話をする。俺の記憶が確かなら、大字の入院見舞いで沼隈がプッシュしてきた作家だ。
「傑作よ」
沼隈が食い気味に断言する。どんだけ好きなんだこいつは。
「最近パッとしないタイトルが続いてたから期待はしていなかったのだけれど、さっき冒頭だけ読んでみて確信したわ。やっぱり母子の共依存物を書かせたら天才よね、この人は」
沼隈の語る口調がいつになく熱い。
「そうか、よかったな。家まで待ちきれず今すぐここのフードコートで読んじゃう勢いだな」
自分でも適当な返答になったがしょうがない。彼女の言う作家は、所謂イヤミス系に属するものだ。読んだ後いや~な気持ちになるミステリー、の略でイヤミスである。異世界物以外の小説を読まない俺は、そっちの話をされても全く興味がない。
「本が汚れるから飲食店で読むのは好きじゃないの。それに感情移入できないから、静かな所(オカ研の部室)で、誰にも邪魔されずに読みたいわね」
俺は静かな所、にオカ研の部室というルビが密かに振られているのを知っていたが、話が長くなりそうなので敢えて突っ込まないでおく。
「まあ、ホラー物を読んでる時に陽気なBGMが流れてたら雰囲気台無しだよな」
「その通りよ。折角お金を出して買ったのだから、味わいつくさないと勿体ないわ」
適当に切り上げるつもりだったのに、気づくと俺は沼隈とかなり長く立ち話をしてしまっており、喉の渇きを覚えていた。
「ごめん、本買うの今日はやめて、そろそろジュース屋にでも寄って帰るわ」
お金も勿体ないし、沼隈の言う通り図書室で借りて、後はWikipediaで最新の情報でも拾ってみることにしよう。
「私もちょっと長居し過ぎたわ。会計前の本をずっと持ちっぱなしだし。所で、このショッピングモールにはジュース屋なんてあるのね。ジュースだけでお店が運営していけるなんて驚きだわ」
それには俺も同意見だった。靴下屋とかの専門店もあるし、人が多い所は専門系の店でもやっていけるのだろう。
「結構女子高生に人気あるみたいだ。多治米が働いてるから、モールに来たら顔出せって言われてるんだよな」
沼隈の反応を見るに行った事がないのだろう。目の前でジューサーをまわしてテイクアウトするだけの、何でもない店なのだが。
「興味があるなら行くか?」
「そうね。誘われでもしないと行くことはないだろうから、よければご一緒させて貰うわ」
気まぐれに誘ってみると、意外にも沼隈がそれに乗ってきた。
俺は沼隈が会計を済ませるのを待って、ジュース屋に移動した。もう少し格好いい言い方をすると、多治米はジューススタンドと言っていた。
迷わないよう逐次自分の位置を確認しながら、二人で黙々と歩いていく。移動距離が長すぎて、ここまでして本当に行かなきゃいけないのかと自問自答したくなったが、誘っておいて今更やめるのはどうかと思ったので、我慢して歩いていく。
一人で歩いている時と違い、やたらと視線を感じるのは沼隈のせいだろう。男からは好奇の視線を、女からは恐らくその細さと美貌故、驚きと妬みに近い視線を感じる。
「お前と歩いてると今まで感じた事ないくらいの視線を感じるんだけど、ナンパされたりしないのか?」
自分で言うのもなんだが、俺と沼隈では全くといっていいほどつり合いがとれていないので、誰もカップルとして見ていない感じがして、変に気負う所なく隣を歩けていた。
「近寄ってきたら呪うつもりで睨みつけると、人違いでしたみたいな顔して素通りしていくから大丈夫よ」
「…そんなので今までよく無事に生きてこれたな」
剥き身の刃みたいな女だ。
「めんどくさ過ぎて仮面でも付けたくなるわ。花粉症用の大き目のマスクをしてると少しだけマシね。今日は私としては逆に、あなたと歩いてるからか視線は減ってる気がするわ。こんなに楽になるなんて思わなかった」
「体のいい弾除けがわりに使われてる気がする」
多分沼隈は本当に煩わしく感じているのだろうが、俺からするとただの自慢にしか聞こえはしない。同性だったら嫉妬にかられている所だ。
そんな話をしながらジューススタンドにようやくついたかと思うと、店は女子中高生で溢れていた。並んでいるだけでも十人はいるだろう。学校帰りに来たのは初めてだったが、凄い人気だ。
「たかがジュースにこんなに並ぶの…?」
沼隈も同じ感想だったのか、目を白黒させている。
「テイクアウト専門だから早いはずだ。並ぼう」
予想通り5分と待たず、並んでいた人間は捌けて行った。
「よお、お疲れさん」
接客モードで何時もとは違った顔をしている多治米にねぎらいの言葉をかけ、自分の存在をアピールする。
「あ、千年じゃん来てくれたの?って沼隈さんもいるじゃん!」
カウンターでジューサーを操作していた多治米が、こちらに気づいて声を上げる。
「たまたま会ったから流れで一緒に来たんだよ」
「えっ、何時からそんな女たらしになったの?幻滅しました。千年君のファンやめます」
「いいからオーダー取ってくれよ」
「できませーん。おすすめは私の笑顔です☆彡」
イエーイと決め顔で多治米がピースサインをすると、隣の同僚が『あんた最高に輝いてるよ!』と合いの手を入れて更に盛り上げる。
「ありがとう!ライブには絶対きてね!」
客そっちのけでカウンターの向こうでワイワイする二人を見て、沼隈の顔が少し引きつっていた。
「バナナジュース二つで。沼隈もそれでいいか?他のは酸っぱくて飲めたもんじゃないらしい」
「そうだよ!他のは飲めたもんじゃないね!」
他の客に聞こえるのに、それを物ともしない大胆な発言だった。バイト首になるぞ。
「え、ええ。それでいいわ…お幾らかしら?」
「ああいい。沼隈、ここは俺が出すよ。この間の礼がわりだ」
結局黒電話の時に約束したマックには行っていなかったので、代わりにここを奢ることにした。
ジュースを受け取り、ジューススタンドを後にする。どうも立ち飲みに抵抗があるのか、沼隈が一向にジュースに口をつけようとしなかったので、中央のベンチがあるスペースに座って飲むことにした。
「美味しいわ」
「へぇ、そりゃよかった」
万事に於いて文句をつけそうな沼隈のお眼鏡にどうやら適ったらしく、俺はひとまず安堵した。
「あのお店にはよく行くのかしら?」
「いいや、これが2回目だよ。前回は人気ナンバーワンのキウイジュースを頼んだけど、酸っぱすぎて外れだったな。多治米にキウイ選ぶなんて素人だって馬鹿にされたよ。なんだよ素人って…」
玄人はフルーツ同士のパーセンテージやミキシングの粗目にでも指示を出すとでもいうのだろうか。それではただの面倒くさい客だ。
俺は小腹もすいていたので、ジュースを一気に飲んでしまったのだが、沼隈はまだ半分も飲んでいなかったので、俺は解けてきた氷と混ざった薄いものをチマチマ飲みながら、彼女が飲み終わるのを待つことにした。
座りながらエスカレーターを見ていると、乗り降りしていく人たちの中に、パラパラうちの学校の制服を着た人間がいる事に気づく。
その中の一人が40代程のスーツ姿の男性と歩いているのが見えた。女子の方の顔にどこか見覚えがあるような気がして目に留まったのだが、誰だったか今一つ明瞭に思い出せない。
その二人組は初めは親子かとも思ったが、こんな平日のまだ夕方早い時間に父親と歩くというのも何かおかしい。顔も似ていないようだし、歩く距離が家族のわりに少し離れているのが不自然だ。彼女の後を男が無言でついていっているように見える。
ただ行く方向が一緒なだけかと思ったが、離れていないかたまにアイコンタクトを取っているそぶりがあるので、そういうわけでもなさそうだった。恐らく、余りよくない関係だろう。ばれたら一発で退学だろうに制服でよくやるものだ。
「…金が欲しいなら、多治米みたいにバイトすりゃいいのに」
見ていて気分が悪くなったので、沼隈に聞こえないように小声で呟いた。それとも、俺の言葉を彼女達が聞いたら、バイトして稼ぐなんて馬鹿らしいとでも言うのだろうか。
「何かいったかしら?」
「いいや、何も」
沼隈の聞き返しに、俺はかぶりを振って否定する。
見ると、彼女もようやくジュースを飲み終わったらしいので、俺はその場で帰ることを告げた。沼隈はまだ用事があるらしかったので、ここで彼女とは別れる事になった。
駅に戻るために地下連絡通路を歩いていると、驚いたことに赤坂ことりの母親がまだ街頭に立っていた。
「嘘だろ…もう二時間はあれからたったぞ」
赤坂母にそのままどんどん近づいていったが、俺の顔は覚えてないのか、話しかけられることもなく赤坂母の横を素通りする。
すれ違う瞬間に何気なく見たその顔は、SNSで見た写真よりも、幾分か痩せて疲れが溜まっているように見えた。『私がバイトに来た時には必ず見てるから、多分毎日いるんだろうね』。ここに来た時の多治米の言葉が思い出される。それが事実なら、あの疲れようも無理もない。
あのまま街頭に立っていたって見つかるものだろうか。一日何千人通るのかは知らないが、たまたまた通りがかって、偶然会うなんて事があるとはとても……
「あ…」
脳に電流が走るようにして急にあるイメージが繋がった。さっき中年男性と歩いていた、うちの制服を着た女子の顔が誰に似ていたか、今ようやく判明した。『赤坂ことり』なのだ。道理で見た記憶があったはずだ。パーツは完全につながった。
俺は急遽立ち止まると、振り返って赤坂母の元にかけだそうとした。正直自分の閃きに興奮を覚えていた。伝えたかった。探し求めていた娘がすぐそこにいる事を。急げばまだモール内にいるかもしれない。
半ば走るように来た道を戻っていく、伝えた時の赤坂の母親の表情を想像すると、浮足立つのが止められない。俺は赤坂母に感謝された時になんて言葉を返そうかまで考えていた。いいえ、大したことじゃありませんよ、当然の事をしたまでです。それにしても良かったですね!いやあ本当によかった!良かった…
ぱたりと、俺は足を止めていた。
何が良い物か。
『あなたの娘さんが中年男性と援助交際しているのを見かけましたので今からモールへ走って捕まえにいくといいですよ』と言って、喜ぶ人間が果たしているのだろうか。援助交際の一言を隠して行かせたとしても、現場を見られてしまえば、赤坂が今から何をしようとしているかは一瞬で赤坂母も気づくだろう。隠し立てすることに意味があるとは思えない。
先ほどの赤坂母と、昨日までの多治米のあの心配そうな顔が、脳裏に浮かんでは消えていく。俺の胸に、気づくと砂のように重い何かが詰まっていた。きっと二人はこの事実を知ってしまったら、心配している今以上の、もっと悲しい顔をするのだろう。そう考えてしまうと、俺はとてもでもないが、言い出す事ができなくなっていた。
何もかも知る必要なんてない。俺がこのまま喋らなければ、きっと家出に疲れて気が済んだ時にでも、赤坂も家に帰るはずだ。そうすれば、何も知らない赤坂母は、娘が帰ってきた事実だけを喜んで受け入れることができ、誰も傷つかずに全てが丸く収まってくれる。
俺は落胆のせいか、さっき飲んだジュースが、まるで異物のように腹の中を渦巻いている感覚がして気持ち悪くなっていた。さっきまでと打って変わってやたら重く感じる足を使いながら、俺はとぼとぼと家路に着いた。




