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夕刊タブロイド  作者: nana
第一部:黒電話(完結)
10/21

10. 呪われているのは

 瀬戸を途中で拾うと、何の説明もなしにまた歩き始めた沼隈の後ろをついていく。


図書室のような室内と違い、廊下は外の光が入ってきやすい分、大分明るく歩きやすかった。時間的に10分ほど巻き戻ったかのような印象を受ける。


「どこに行こうとしてるんだ?」


一切の迷いなく沼隈がどこかに歩いて行っているので、俺は目的の場所があるのだろうと思った。


「瀬戸さんのクラスよ」


「私のクラス…?」


瀬戸が不安げにその言葉を繰り返す。そう、そこは彼女の話によれば、掃除道具入れからはみ出してきた幽霊を見たという、恐怖体験をした場所だ。さぞや恐ろしいに違いない。


「ええ。きっと運命というものがあるのなら、本当はどこの教室に行ったって同じでしょうけどね」


沼隈が変にロマンチックなことを言うが、瀬戸の不安はそんなものでは消しようがない。予想通り、瀬戸は教室に近づくたびに『やっぱりやめよう』と言い出したり、恐怖からか歩く速度が落ちていったが、それを無視して沼隈は足を進めていき、彼女は取り残されるのも嫌なのか、結局俺たちについてきた。


瀬戸の教室についた。


当たり前だが、この時間帯なので周りには誰もおらず、シンと静まり返った廊下があるだけだ。学校自体にも人の気配があるのか分からない。今日は土曜日で半分休みのようなものだし、運動部も日が落ちきる前に帰ってしまったのか、遠い掛け声も聞こえてはこない。


「開けるわよ」


沼隈がドアをスライドさせ、遅れて俺、瀬戸の順番で教室に入っていく。


そこには日中とはまるで雰囲気が違う教室があった。机も、椅子も、黒板も、全てが同じはずなのに、人がいないだけでこうもガランとしてしまうのか。熱がごっそりと抜け落ちたその教室は、抜け殻のような感じを受ける。


こんな暗い教室に入ったのは、宿題の忘れ物を取りに来た時以来だった。その時とは大分心境が違うが。


「何か---」


電話らしきものはあるか、と二人に言い終える前に、瀬戸が小さく悲鳴を上げた。


彼女の視線の先を見ると、窓際の机の上に、何かが置いてあるのが見えた。それは年代物の古い電話だった。闇に紛れて色は判別し辛いが、黒か、それに近い暗い色調であることはわかる。


これか、と心臓が跳ねる。まさか本当に見つかると思わなかっただけに、恐怖ではなく、見つけたという興奮が自分の中に湧き上がるのを感じる。


「本当にこれなのかしら?」


沼隈が無防備にもそれに近寄っていく。


「駄目よ!触っちゃ駄目!」


瀬戸は震えながら沼隈に制止を呼び掛けるが、彼女は全く意に介さず電話にベタベタと手を触れる。物が物なら、こいつはこの時点で呪われてもおかしくない。


「瀬戸さん、貴方こそそんなに離れていては駄目よ。…だって、貴方はこれを使って今から呪詛返しをするんだから」


俺は耳を疑った。沼隈が話そうとしなかった考えとはそういう事だったのか。


「お前…対策ってそれかよ」


「ええ。呪った相手を呪い返す。ババ抜きでいう所のジョーカーの押し付け合いみたいな物ね。もっとも、ババ抜きが始まる前のように、拮抗して呪いが黒電話に帰ってくれることを期待しているのだけれど」


沼隈は軽々しくゲームに例えていうが、本当にそんなにうまく行くのだろうか。俺たちが今から使おうとしているのは、仕組みのわからないブラックボックスだ。黒電話を破壊するという俺の案よりも、更に危険な綱渡りのように思える。


「さあ、瀬戸さん。教室の隅で震えていないで、早くこっちにいらっしゃいな。それとも、貴方はこのまま呪われたままでいたいの?」


「あ---あ、いや…でも、そんな…」


瀬戸はしばらく体を揺らしながら迷っていたが、遂におっかなびっくりに沼隈に言われるがまま黒電話が置いていある机に近寄っていき、その席に座った。


「瀬戸さん。やり方はわかるわよね。貴方は、私に呪いをかけた人間を呪い返したい、と言いさえすればいいのよ」


沼隈が瀬戸の震える手に受話器を渡し、酷く優し気な声音で語りかける。


「そうすれば、怯えていた生活から抜け出して日常に戻れるわ。あの、平穏で、安全で、退屈な、慣れ親しんだあの世界に。…さあ、早く。何を迷う事があるの?」


「わ、私がこれをすることで、呪っていた相手はどうなるの…?」


「もしかしたら、貴方と同じ現象に会うかもしれないわね。でもね、貴方がそれに胸を痛める必要はないのよ。元から人を呪うなんて最低な行為をしていた人間だもの。罰されて当然だわ」


沼隈の言葉はまるで悪魔の囁きだ。その言葉は瀬戸にだけ優しく、他の者には容赦がない。


瀬戸はまだ決心がつかないのか、受話器を手に持ったまま、救いを求めるような顔で沼隈を見つめている。


「できないというのなら、それでもいいわ。貴方を飛ばして、大字さんから始めましょう。今からこれを病院に持っていってね」


「あ…ああ…」


瀬戸の受話器を持つ手が震え、頬に涙が伝っていく。


「お願い…お願いだからもうやめて…」


もう限界なのか、瀬戸の口から漏れたのは、中止の懇願だった。


「何故?別に瀬戸さんはまた勇気がでた時に使えばいいのよ。それとも、貴方は大字さんにこれを使って欲しくないって言っているのかしら?泣いていては何もわからないわ」


その言葉を聞いて、瀬戸は更に涙の粒を頬に流していく。沼隈はそれを見て、つまらなさそうに腕を組んで見下ろしていた。


「…それとも貴方は、自分が呪うのはよくて、人から呪われるのは嫌だなんて、そんな虫の良いことを言うわけじゃないわよね」


侮蔑の表情を露わにする沼隈の口から洩れたのは、衝撃的な一言だった。


「何言ってるんだ。その言い方とだとまるで…まるで、瀬戸が前にこれを使った事があるみたいな口ぶりじゃないか」


「だから、そういう事よ」


沼隈は今頃気づいたのかとでも言いたげに、俺の言葉を肯定する。


「大字さんを呪ったのは、瀬戸さんよ。この子はね、自分が大字さんを呪っていた事がばれるのと、呪いを今から返される恐怖に、情けなくも泣いているのよ」


瀬戸がそれを否定しないという事は、それはイエスという事なのだろう。


事実に呆然としている俺の耳に、泣き声だけがやけに響く。


「…いつから、沼隈は気づいていたんだ?」


「大体初めからよ。人が強い恨みや憎しみを持つのは、それを作るに足るストレスを自分に与えてくれる、近しい人間だけだもの。その考えを裏打ちする物があったとすれば、それは病院で大字さんが言っていた、前々からあった嫌がらせね。大字さんは気丈な人みたいだから、何かあっても黙ってて、嫌がらせをする方としては反応がなくて面白みに欠ける相手よ。しかもばれて仕返しされる時は、彼女の持っている力からして非常に激しい物になる。それでも長期間続いていたとすれば、それは、余程彼女の近くにいて、行動を見ているから仕掛ける時もばれにくく、しかも嫌がらせの反応をつぶさに観察できる、特等席にいる人間意外考えられない。瀬戸さんみたいなね」


ちら、と沼隈が瀬戸を見る。


「十分堪能できたかしら?貴方たちの確執に興味はないけれど、憎い女に復讐する為だけに親友を装って隣にい続けるなんて、中々できる事じゃないわ。まさか、呪いで重傷を負わせたいくらい憎いとは思わなかったけれど」


「違う…」


瀬戸が声を絞りだすかのように反論する。


「何が違うのかしら?」


「あんな事になるだなんて思ってなかった…いつもと同じ、ちょっとした嫌がらせ程度のつもりだったのに、あんなことになるなんて…。だから、怖くなって解く方法を探していたのよ…」


瀬戸は泣きながら、つっかえつっかえに弁明をする。その顔は涙でぐしゃぐしゃになっており、見るも無残なものだった。


「ねえ、瀬戸さん。あなたは勘違いしているようだけれど、大字さんが線路へ転落したのは、呪いというより、自分が呪われていると思った事からくる精神的な体調不良によるものなのよ。彼女が呪われているなんて証拠はどこにもないわ」


それに、と言って沼隈は置いてある黒電話を恐れげもなく掴んで裏返すと、ドライバーをスカートから取り出して、手際よくねじを緩め、パカリと開ける。


「こんなもの、ただのコイルとベルの塊よ。このパーツのどこに人を呪う力があるのか、逆に聞いてみたいものね。貴方たちに呪いをかけているとすれば、それは在りもしない被害妄想を膨らませた、自分自身よ」


電話の中身は、今どきのICチップや基盤さえ碌にない、これで電話がかかるのが不思議なくらいの簡素な代物だった。『電話回線さえ繋がっていれば電話が使えるんだよ』そう言っていた多治米の言葉が思い出される。これだけシンプルなら、確かに電源などいらないだろう。枯れ尾花、その言葉が頭に浮かんだ。


沼隈はこういったが、まだ解決していない事もある。


「ホーム転落の件が体調不良だとして、歯が下駄箱に入れてあったのとかは?」


「そんな事、呪いじゃなくて人力でできるじゃない」


「えぇ…」


今一つ釈然としないが、歯ってそんなどこかで売ってるものなのか?


「じゃあ、瀬戸が体験してた、他の怪奇現象は?」


「瀬戸さん以外に、誰かそれを一緒に目撃した人はいたの?」


「それは…」


いなかった。


瀬戸は、自分が一人になった時に起こるから、一人にならないように気を付けていると言っていたのだ。それは裏を返せば、誰かといる時には発生しない。本人以外誰も真偽を確認する事ができない。嘘をつかれていても、わからない。


全てが、自作自演---


俺は沼隈に言われてたどり着いたその結論に、頭が痛くなりそうだった。瀬戸は、自分の作った影の大きさに怯えていただけの、ただの間抜けなピエロだった。


「何で、瀬戸はこんなことしなきゃいけなかったんだ…」


「それは彼女に直接聞くのね」


沼隈が、興味なさげに瀬戸を顎でしゃくって指す。


「あいつが私の彼氏を奪ったからよ」


すると、先ほどまでと打ってかわって、怒気を孕んだ瀬戸の明瞭な声が響いた。


「奪ったって、大字が?」


「…そうよ。あいつ私の彼氏を誘惑して、飽きたらすぐに捨てやがったのよ。問い詰めたら相手が勝手に好きになって困ってたなんて言い訳して…ふざけるにも程があるわ…っ」


思い出したら怒りがわいてきたのか、涙に塗れた顔を、怒りに歪めながら瀬戸がわめく。


「そういえば私の所にも、大字さんから彼の気持ちを取り戻したいっていうお呪い系の相談が、たまに来るわね」


沼隈が火に油を注ぐような事を言う。一々いらない事をする奴だった。


「そうよ…あいつばっかりよ。ちょっとくらい痛い目見て当然なのよ!恵まれすぎてるからこれでちょうどいいのよ!誰かが、誰かが罰を与えないと帳尻が合わない。それを私がやっているだけなのよ!」


歯をむき出しにしてそう訴える瀬戸の表情は、正視に堪えない鬼の形相だった。醜い。人を呪わば穴二つ、というが、こんな精神状態のままでは、もう大字の友人の振りなどできはすまい。


瀬戸は興奮したまま机から急に立ち上がると、沼隈を突き飛ばして黒電話に手を伸ばす。


「おい何を!?」


彼女はそれを持ち上げると、思い切り振りかぶり、地面にたたきつけた。パァンという乾いた音とともに、盛大にプラスチックの破片が辺りに飛び散った。


「うわっ」


少し離れていた俺にも飛んできたのだから、近くの沼隈と瀬戸は脚に破片が突き刺さってもおかしくないくらいの威力だった。奇しくも、俺が言った黒電話の破壊が成し遂げられた瞬間だった。


「私もう学校にはいられない。退学して一生底辺の人生を歩むしかないじゃない…」


瀬戸が体を震わせながら恨めし気に俺に言う。その震えが、恐怖ではなく怒りであることに俺は気づいていた。


「い、いや…?別に黙っとくよ。言ってもメリットないし、落ち着けって…」


瀬戸から放たれる何をしでかすか解らない狂気に危険を感じ、俺は必死に宥めようとする。


「信じられるわけあるか!」


絶叫すると、彼女は近場の机に手を突っ込み何かを取り出し、カチカチカチと耳慣れた音ともに銀色の何かを掌から伸ばしていく。カッター。恐らく偶然にあったのではなく、今手を入れていたのは自分の机なのだろう。考えうる限り最悪な状況だった。


「あんた達さえ気づかなければ、うまく行ったのに…」


「流石に八つ当たりだろそれは!」


精一杯の強がりで毒づいては見たものの、緊張で声は裏返っていた。


「あああああ!」


倒れている沼隈より、出口に近い俺の方を逃がさないと決めたのか、瀬戸は叫びながらカッターを振り上げてこちらに一足飛びに襲いかかってくる。


「ちょっ…!」


恐怖で後ろに仰け反るのと、腕が降りおろされたのは同時だった。暗闇で目測を大分見誤ったのか、カッターの一撃はさっきまで自分がいた所をヒュンッという冷たい音ともに目の前を過ぎる。


その肝が冷えるような音に、足が震えた。俺は無我夢中に、手先にあった椅子の背もたれを手繰り寄せ瀬戸に思い切り投げつける。瀬戸の肘に当たり大きな音が響いたが、彼女は怯む処か更に激高した。


「ふざけんな!おとなしく刺されろ!」


「ひっ…!」


理不尽に叫びながら突進してきた瀬戸のカッターの一撃を、左脇に抱えていた鞄で辛くも受け止める。ズン、という体重の乗った衝撃と共に、カッターの刃が教科書に刺さって折れたのか、瀬戸の体が少し横に逸れバランスを崩す。


その機を逃さず、俺は腹を思い切り蹴り上げた。瀬戸が蛙が潰れたような声を出しながら、机を薙ぎ倒し3メートルほど吹っ飛んでいく。


「あっやば…」


とっさのことで手加減ができなかったせいか、蹴りは見事に決まってしまった。足裏に残る、深々と人体にめり込んだその柔らかい感触に、内臓破裂の予感がして一瞬青ざめる。


瀬戸の方を見ると、口から吐しゃ物を吐き散らしながら床で身もだえしていた。だが執念深くカッターは手に握ったままだ。その恨みの深さに、俺は背筋が震え戦慄した。


「沼隈、おい沼隈。こいつここから出した瞬間、病院にまで行って大字を刺し殺したりしかねない!呪いじゃなくて人力で不幸をばら撒くぞ!」


遠巻きに、壁にもたれかかってこちらの様子を見ていた沼隈に話しかける。


「そうかもしれないわね…ったく、頭が痛いわ。思いっきり突き飛ばしてくれて打ったじゃないの」


沼隈がぶつくさ言いながら立ち上がる。そんなに強く押したようには見えなかったが、沼隈は見かけ通り体重が軽いのか、軽く小突くだけでえらく吹っ飛ぶらしい。


「どうする。捕縛して警察にでも突き出すか?」


「私と貴方だけの証言で警察が取り合ってくれるか難しい所ね。処分保留で一瞬でも彼女を自由にさせたら、私たちの身に危険が及ぶわ」


「じゃあ、ずっとどこかで軟禁するか?それは流石に…」


そもそもそんな事ができる場所を俺はどこにも知らない。何かいい案はないものかと沼隈を見ると、彼女はじっと宙を見つめ、何かを考えていた。


「千年君、今から何が起こっても、黙っててくれるって誓える?」


「おいおい、殺しは…」


抑止の究極はそこだが、こんな奴の為に刑務所に入るのは正直御免だった。沼隈も相当動転しているらしい。


「そんなことしないわよ。ほんのちょっと、彼女に不幸になってもらうだけよ。千年君、彼女を逃げられないように後ろから羽交い絞めにしてくれるかしら?」


言って、沼隈が瀬戸に近寄っていく。刺される心配をしたのも束の間、彼女は瀬戸のカッターを持っている方の手をサッカーキックで思い切り蹴り上げ、カッターをどこかに吹っ飛ばした。


拳の痛みで沼隈の存在にようやく気づいたのか、瀬戸が呻きながら彼女を見上げる。だが遅い。その時には近寄っていた俺が、瀬戸の手首の関節を決めた状態で両手を後ろに回し、床に座らせたまま動かせない状況を作り上げる。多少暴れはしたが、手首の関節を更に強めに決めると、直ぐに瀬戸は大人しくなった。


「いい顔をしているわね。まるでこの世で一番自分が不幸だとでも言いたげだわ」


屈んだ沼隈が、瀬戸と同じ目線で語りかける。問いかけるタイミングを逸してしまったが、彼女は一体何をするつもりなのか。こいつならできそうだが、うまく恫喝して丸めこむのだろうか。


「でも、加害者である貴方がその顔をするのは筋違いだわ。反省なんて微塵も感じられない。…そもそもするつもりがないのでしょうね」


「…当たりっ前じゃない…反省するなら大字の方よ…っ」


「それを聞いて安心したわ。反省しないなら、貴方には記憶なんて必要ない。千年君、しっかり逃げないよう捕まえていて頂戴」


沼隈がこの場に似つかわしくない穏やかな笑みを浮かべ、両掌で西瓜を持つように瀬戸の頭を抱える。


「うまく行けば三日分くらいで済むわ」


既に夜になりつつある教室の中で、その微かな光さえ食らうような闇が、ジワリと沼隈の全身から染み出した。目の錯覚かと思ったそれは、そのまま量を増していき、異変に気付き瀬戸が逃げようともがくが、関節が決まっているので動く事はできない。俺は目の前の異様なその光景に、体が硬直し目を奪われていた。


「やめろ…やめてぇ…っ」


闇は沼隈の手から瀬戸の頭を覆うように広がっていく。瞬間、彼女は大きく仰け反ると、電気ショックを浴びたように、ビクビクと体を痙攣させ始めた。


俺は呆然としていた。何が何やらわからない。その何かはほぼ一瞬で終わり、気づけばぐったりしたままの瀬戸と、何時も通りの無表情の沼隈がいた。


「もう終わったわよ」


事も無げに沼隈が言う。


俺は瀬戸をその場に横たえながら、沼隈から視線を外さないように見続けた。ここ数日見ていたのと何も変わりはない。そう、何時もと変わらないはずなのに、今はその無表情が怖い。


俺は今更になって気づいていた。たかが数日しか行動を共にしていない俺は、彼女の事を何も知らない。彼女が人間なのか、根本的な所から。黄昏時には魔が訪れると、彼女自身が言っていた。


次瀬戸のようになるのは、俺ではないのか。人の口に戸は立てられない。その想像に、急に心臓が早鐘を打ち始め、体中に血を送り出す。脳は沸騰しそうなくらいに煮えたぎっているのに、手足は嫌になるくらいに冷えて固まっている。上手く走って逃げだせるか未知数だ。まだ危機は、去っていない。


「なあ、沼隈」


俺は話しかけながら、沼隈に蹴り飛ばされたカッターナイフの行方を視線の端で探していた。


「何かしら」


「お前は何で、瀬戸に一体何をした?」


「話してもいいけれど、そんなに警戒されると、流石に私も傷つくわ…」


沼隈がこちらから視線を逸らしながら、弱弱しささえ感じる口調で答える。その顔は、さっきあんな事をした人間とは思えないほど、どこか悲し気に見えて、そのギャップに理解がついていかず俺は気持ち悪くなる。


彼女は態度を軟化させない俺を見て、何かを諦めたのかため息をついて喋りだした。


「私は人の負の感情を喰らう事ができて、瀬戸さんへはその応用で、ここ数日分くらいの感情の熱量を丸ごと奪い取ったわ。うまく行けば、一週間前の朝ごはんを覚えてないのと同じように、さっきまでのでき事が、思い入れがない事として彼女の記憶から消えることになる。それが私と、私がした事よ」


それは先ほどの出来事を見ていても尚、衝撃的な告白だった。負の感情を喰らう。聞き覚えはある。


「まるで悪魔じゃないか…」


俺の問いに、沼隈は何も答えない。悪魔。人を誘惑し堕落させる象徴。願い事と引き換えに魂を奪う

悪徳の権家。


「嘘…じゃないんだな」


喉に張り付くような、硬い唾を飲み込んで彼女を見る。


「別に嘘なんて付かないわ。そんなに疑うなら、貴方自身で試してみる?…なんて。マックを奢るっていう約束を忘れられると困るから、貴方には頼まれたって絶対してあげないけれど」


そういって、おどけるように沼隈は肩をすくめた。


「はっ…」


その場にそぐわない軽口を聞いて、俺は一瞬にして体から力が抜け、警戒を解いてしまった。


「なんだよお前、そんなこと覚えてたのか」


俺は何でもない軽い気持ちのつもりで言っていたのに、こいつは本気で覚えていたのか。俺と行くのを、本当に楽しみにしてくれていたのか。


完全に脱力した俺は、床に胡坐をかいて、彼女を見上げた。


「今、思いついたんだけどさ」


「何かしら?」


俺はふいに頭に浮かんだある考えを、沼隈に聞いてみたくなった。


「今回の特集、黒電話じゃなくてお前を書いていい?」


俺の言葉に沼隈は破顔すると、こういった。


「駄目よ。そうなったら、今度は私が貴方を呪うわ」



 瀬戸が目を覚ます気配が中々なかったので、俺は彼女を教室の後ろに移動させ、鞄を枕代わりにして介抱した。


沼隈はというと、事が終わったら電話は私が預かる、という公言通り、飛びちった黒電話の破片をせっせとカバンに放り込んでいた。一体何に使うつもりかわからないが、熱心な事だ。


俺の内臓シュートが悪かったのか、はたまた沼隈に何かを食われすぎたのか、瀬戸は名前を呼び掛けて揺らしてみても、唸るだけで中々目を開けようとしない。


そうこうしているうちに、気づくと回収が終わった沼隈が隣に来ていた。


「早くその子を起こして帰りましょう。警備員にこの惨状を見られたら厄介なことになるわ」


「た、確かに…」


明らかに暴れた跡が残っているこの教室で、気絶している女子を見守っている時点で、何を抗弁した所で停学処分は割と固そうだった。


「お姫様の眠りを覚ますのは、何時だって王子様のキスらしいわよ」


沼隈は血も涙もない奴だった。お前瀬戸が散々ゲロを吐き散らしたの見ているだろうが。


「今の季節風邪ひくわけじゃないし、このままここに置いていきましょうか」


そういう沼隈の冷酷な言葉に反応したのか、瀬戸が今までよりも大きなうめき声を上げて、ようやく目を開けた。


「お、おはよう…」


様子を伺うために、おっかなびっくりに話しかけてみる。


「…おは…よう?」


瀬戸は寝ぼけ眼でようやく起き上がると、呆けた顔で辺りを見渡した後、『夜…?』と呟いた。記憶が混乱しているようだった。


「そうよ。もうとっくに下校時刻を過ぎてるんだから、早く帰りなさい」


沼隈が言うと、瀬戸は納得したのかよくわからないが、腰をかがめながらふら付いた足取りで本当に教室を去っていった。少し心配だったが、枕代わりにしていた鞄はちゃんと持っていったようなので、何とかなるだろう。というか、本当に忘れているのか怖くて近寄りたくなかった。


「あれで大丈夫なのか?明日になってまた刺しに来たりしないか?」


「今までの経験からしか語れないから断言はできないけど、大丈夫なはずよ。むしろ手加減なしで吸い取ったから、忘れ過ぎて浦島太郎になっていないのか、そっちを心配した方がいいかもしれないわね…」


それはもっとまずいんじゃないのか、と思ったが、助けられた以上何も言えなかった。


「それよりあなた、帰る時一応視線を気にした方がいいわよ。服がぱっくり切れてるから」


「へ?」


言われてみると、Yシャツの胸元より下の部分がぱっくり割れて下のTシャツが見えていた。それどころか、よくよく見るとTシャツもカッターが通った部分が微妙に筋になってほつれている。


「えっ、俺結構ギリギリだった?」


「そうみたいね」


今更ながらどっと冷や汗が出て、自分の幸運を知った。あんな大立ち回り二度と御免だ。


「まあ、カッターくらいなら骨と筋肉は貫けないから、うっかり切られても20針縫うくらいで助かったんじゃないかしら」


「それ助かるって言わないんだよな!」


登山で滑落して全身骨折したけど命があったからラッキーみたいな最高なポジティブシンキングの匂いがする。他人事だからって適当いいやがって。


目立ちすぎるのでYシャツはあきらめて脱いで、Tシャツ一枚になって帰ることにした。校則違反の柄物のTシャツを着ていて、この時だけは正解だったらしい。


「母さんにどうやって説明しよう…」


誤魔化そうにもYシャツの枚数でばれてしまう。


工事現場を横切った時にうっかり番線で引っ掛けて切れたとでも言おうか。それともいっそこけてボロボロになったからその場で捨てたことにでもするか。いや、それにしてはズボンが無傷すぎるしダメか。


沼隈と校門を出て別れながら、さっきまでの修羅場とはまた違う平和な悩みを抱えて帰路につく。


陽はとうに沈み切っており、電灯が道を眩しく照らしていた。まるで帰る道はこっちだとでも言っているように。


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