その2
「も、百瀬、百瀬璃緒!!」
関口が声を上げて、飛び込んで来る。その形相はただ事ではなかった。
「あ、忘れてた」
璃緒は思わず立ち上がる。
「おまえ、そんな返事で、済まされると思っているのか!」
関口は声を荒げた。残っていたクラスメイトが驚いて、注目する。
「いつも、おまえはそうだ。自分の事を、何様って思ってるんだ」
「何よ、それ!」
璃緒は関口目がけて、喰って掛かった。
「り、璃緒って! 関口君、ゴメン。私のせいなの。璃緒を引き留めたの」
早紀が二人の間に割入って仲裁する。
「早紀、いいから」
璃緒は手で早紀の行動を振り払った。
「関口、あんた男子の癖に、いちいち細かいのよ。この委員だって、くじ引きで決まっただけじゃない。私は、やりたいとも言ってない」
かなり開き直った璃緒の発言だ。
「百瀬、おまえなんて奴だ。自分の事を棚に上げて、今更そんな事言うのか。くじ引きなら、俺も引いたさ」
「あんたは、一番最後で残りものだった。運命よ」
聞いた関口は、璃緒よりも大笑いする。
「一番最後の残り物で運命なら、一番真っ先に引いて当たったおまえも運命だ」
璃緒は戦慄いた。それから彼女は押し黙る。
「運命は、最初からこの役目を百瀬にやらせたかった。だからおまえは学習合宿の委員なんだ」
鼻息荒い関口は言い切った。
「こっちも結構、強引だよ」
二人の前で早紀は呆れて呟く。
「どっちにしてもだ。会議に来なかったおまえが悪い。そこで委員長から仕事を預かってきた」
手に持っていた大量の用紙を、璃緒の前に置き放った。
「文句言うなよ。明日までに、ここに書いてあるアンケート意見をまとめて、一覧表にして提出してくとのことだ」
璃緒の顔が仰天し、顔面蒼白となる。
「こ、こんなに! 一体何のよ、これ!」
紙の束から一枚抜き取って見つめた。
「前年度参加した先輩たちからの、ありがたい言葉だ」
「これ、全部要望と反省文……」
机の上にある用紙を見渡して途方にくれる。
「そうだ。これをもとに今年は、効果抜群のやる気の出る合宿にする!」
関口は拳を振り上げながら璃緒に少しだけ視線を置いて、笑って教室を出て行った。
「まったく、あいつ……」
口を尖らせて璃緒はため息をつく。
「案外、関口君、璃緒の面倒みてるのかもね」
「何か変な事、言ってない?」
璃緒が訊ねると早紀は軽く首を振った。
「あのね早紀。念のため言っておきますけど、関口のせいで私が巻き込まれてるんですからね」
早紀は手で口を押さえて、笑いを堪えている。
「大体、野球部でも無いのに坊主頭して、ド真面目なのは苦手なの」
頬を膨らます璃緒を、彼女は宥めるように言った。
「わかった、わかった。よーし、宇宙人のヒメ君。私も手伝ってあげるから」
彼女の肩を叩き、早紀はアンケート用紙を一枚取り上げる。璃緒も呼応するように頷いた。
****
親友の本宮早紀は、璃緒の自宅の近所に住んでいる。同じ幼稚園から高校まで、クラスこそ違った時もあったが、行き帰りは常に一緒に過ごしている幼なじみだ。今の高校2年生から、再び同じクラスになっている。
早紀の母親は彼女が小学一年生の時に亡くなった。璃緒は子供ながらに心配し、よく家に招いて食事を同じにした。早紀と璃緒の母親たちも古くからの知り合いだったらしい。
君子は早紀を我が子同然に気遣って世話をしていた。璃緒は早紀を迎えに父親が来る時、いつも君子にすがりついては泣いていた彼女を知っている。璃緒はその時、嫉妬心にも似た感情が沸き上がり、わざと母親の前で仮病を見せたりしていた。
中学生での早紀は、父親の身の回りや自分自身のことをやるようになってきた。高校生になった昨年、父親が再婚した。家庭がどうなっているのかは璃緒の知る由もなかったが、彼女は現在、マンションで一人暮らしをしている。
「もう、変なことばかり。かなりの壮大な理想と夢が書いてあるね」
早紀は何回もその言葉を繰り返していた。
「もう遅いから帰ろうか、早紀」
「そうだね」
学校から璃緒の自宅まで、歩いて二十分程度だ。早紀はその後、十分掛かる。
「遅くなったし、何か食べて帰ろうか。私が奢るよ」
璃緒は振り向いた。
「ごめん、璃緒。これから待ち合わせなんだ」
早紀は舌を出して、両手を合わせる。
「え、そうなの。こんな時間まで、付き合わせて、こっちこそゴメン」
「いいのよ。璃緒のためだもん」
彼女は微笑んだ。
「でも、早紀も隅置けないな。デート?」
早紀は苦笑する。璃緒はきょとんとした。
「そうだったらいいけど、違うよ。家族で食事するの」
「あ、ああ」
璃緒は、幼い頃の早紀を思い出す。君子にすがりつき、泣き止まなかった頃を。
「明日は大丈夫だから」
「もう、気にしないで。それより、美味しいもの食べてきてね、早紀」
何故だか璃緒も笑みがこぼれる。
「けど璃緒のことも、誰かさんが気にしているみたいよ」
早紀は彼女の背中の方角を指差し、手招きした。
「い、今、終わったのか、百瀬」
「関口」
反射的に璃緒は身構え、彼を睨む。
「じゃあね、璃緒。また明日ね。関口君も」
関口は「お、おう」と、小さく返事した。呼び止めようとする璃緒を無視して、彼女は小さく手を振って小走りに去る。
残された二人はその場に立ち尽くした。