八
諜報の仕事を色々と想像を巡らせてみようと試みたが、地勢のスケッチか測量する姿しか頭に浮かばなかった。後は新聞の読み比べくらいか。俺の思考は軍人らしく固定されているのだろう。軍礼服姿で大使に付いて回って、ひそひそ話に耳を澄ます程度では役に立つとは言えないだろう。
全ては仮定であり、自分の望む形ではない。今受け取っている内示はプロイセンの陸軍の連隊の中隊長なのだから、いくらリース大佐が煽るようなことを言っていても実現の可能性は低いだろう。忠誠の宣誓をしたからといって、プロイセンの上司に信用されるかは別の次元の話だ。
子どもは大人からもらった駄賃や小遣い銭を貯めこんで駄菓子やおもちゃを買おうとするらしい。末端の貴族やブルジョワは、今の時期はこの農作物や毛織物が儲かっているそうだから荘園を増やそうか、首都の一等地に大邸宅を構える為に土地を手に入れようかと、庶民とは違う金の使い方を考える。
君主となるとまた全く違う金の使い道を思い付くものらしい。
フランスのナポレオン3世はオランダのウィレム3世から、ルクセンブルク大公国を買い取ろうと算段を始めた。しかし、この買い物話は魚河岸の競りのように景気よい掛け声で進むはずがなかった。
ルクセンブルク大公国はベルギーとフランス、そしてプロイセンに国境を囲まれた小国だ。そのルクセンブルクを飛び地のオランダの国王ウィレム3世が治めている。同君連合の国々は時に悩ましい。
オランダ王国はかつてのドイツ連邦に加盟していなかったが、ルクセンブルク大公国は加盟していて、現在もプロイセンが守備隊を駐留させている。そしてドイツ人が多く居住している土地だ。ウィレム3世がルクセンブルクに自分の国と愛着を持っているか知らない。
ルクセンブルク大公国が今回の北ドイツ連邦に属さず、前年の戦いでフランスがプロイセンの背後を脅かさなかった代償を得られなかったことから、ナポレオン3世が外交戦を企んだ。それも国を金銭で購う形でだ。
戦争でもなく、複雑な血統による相続でもないやり方で君主が領土を得ようとは斬新過ぎ、平和な方法といえども、心情的に賛同しかねる部分がある。
「フランス皇帝はメキシコに出兵したが、うまくいっていないからだろう。既に撤兵が進んでいる」
「皇帝が軍拡を望んだのに、議会から大反対されて面目が丸潰れで、国民に何かいい所を見せたいんだろうよ」
「いや、今回の戦争で黙っている代わりにライン川の西側を幾らか分割すると、ナポレオン3世と我らがビスマルク閣下と口約束していたらしいが、そんなこと忘れたと誤魔化されたから意趣返しをしようとしているのさ」
「戦わなくて済むならいいが、どうも感心できんな」
「我らが宰相閣下が、大公国一つであのブオナパルテの気がそれで済むならと考えるか、嫌がらせの口出しをするか見物だ」
「それにしたってルクセンブルク大公国がフランス帝国の領土になるとすると、国境が直接接する場所が増えるじゃないか」
「そこが問題だよなあ」
さて、各国の大使はどのように動き、国元に報告しているのだろう。そして、各国はナポレオン3世の買い物をどのように評価するのだろうか。ヨーロッパの新たな火種にならずに済めばいいのだが。
参考
『ナポレオン三世の外交政策 第7章 普墺戦争』 松井道昭