四
皆承知のことらしく、ブルックの発言に誰も驚きや疑問の声を上げなかった。俺だけが瞠目していた。
「他の国、例えばザクセン軍に行くのか?」
「いいや、軍人を辞めるんだ」
「何故?」
「結婚するんだ」
結婚? それと辞職とどうつながる。俺が渋面になっていくのに、ブルックは照れたような晴れやかさを見せている。
「アグネスが俺の求愛を受け入れてくれた。結婚してくれるとね。ただ、シュミットのように戦死されたら嫌だ、それでは悲しいから、辞めてくれたら結婚すると言うんだ。だから俺は軍を辞める」
ここに鏡があったら自分がどんな顔をしているか確認できた。同僚を祝福する面をしていないのは確かだ。
「辞めて生活はどうするつもりだ?」
俺に訊かれるまでもなく、帳面に付けているかのようにブルックは言う。
「退職金が出るし、少しばかりだが今までの蓄えがある。新聞屋の事務係の口があるとアグネスから紹介されているから、そこで二人でやっていくよ」
「は! 赤毛女は『黒い猫』を辞めるのだろう。給金もチップも無くなる。貴官も赤毛女も事務員一人の給金で満足できるか。それに元士官は予備役扱いになるから、召集されない保証はない」
「この年齢なんだから、予備役になると理解しているさ。現役でいるのと退職しているのとは違う」
俺に祝福の言葉を言わせたいのかブルックは懸命に説明をした。だが、俺には忌々しさしか感じなかった。
「女の我が儘に引きずられて、士官学校を出て今まで積み上げてきた経験を捨てるのか!」
ブルックは見捨てられた子犬のように肩を落とした。
「アレティン、もう止めろよ」
「ブルックだって悩んだ末の結論だ」
ヨハンセンたちがブルックを庇った。そうだろう、貴様らは散々ブルックの相談に乗ってきているのだから、平静に、そして同情して語れるのだ。だが、俺は今初めて聞いたのだ。声を荒らげるのを責めるのか。
「誰も悩まず苦しまなかったとは言わない。戦いの中に身を置いてきた俺たちが平穏な暮らしに満足していけるのか」
「やってみなければ判らんだろう」
ブルックは俺に掴みかからんばかりに訴えた。女に唆されて生き方を変える。それで楽しい生活になるのか。俺には大きな謎としか言いようがない。そこまで価値があの赤毛娘との結婚にあると、ブルックは惚れ込み、思い込んでいるのだ。
手を携えて共に生きるには一方だけの言い分を聞き入れていては成り立たない。父が母を金の力で妻として、その結果が何だった。
赤毛娘の要求だけでなく、ブルックが言い聞かせている事柄があるかも知れない。しかし、ブルックがこれまで選択してきた人生を否定し、変えるように迫って赤毛娘は楽しいか。軍人という殺伐とした仕事から解放してやるのだと得意満面だとしたら大間違いだ。冒険や賭けを好む男を鳥籠に入れて悦に入っていられるのは束の間だ。大平原を駆け、銃弾を放つ生活を知った者が虚しく空を見上げて嘆く日が来たら、どうする。その時やっと自分が愛する者に鎖と錘を付けてしまったと気が付くだろうか。
それともブルックが戦場を目の当たりにして、運命の女神の気紛れを懼れたか。それならば女に逃げ込むのを責められない。一度弱気に取りつかれたら厄介者に成り果てる。
「貴様は仕合せになってくれ。俺や、死んだシュミットの分までな」
「ああ」
俺は声を絞り出した。
「結婚おめでとう」
ブルックは安堵したようだった。
「有難う、アレティン」




