六
「俺も貴女が無事で安心した。フランクフルトではプロイセン軍が市民に対して無茶な要求をしていたと聞いていたから、気に掛けていた」
「ローンフェルト氏のフランクフルトでの住まいの周りでも大分騒がしかったので、不安な毎日でした。でも、お屋敷から出ませんでしたので、奥様も子どもたちもわたしも無事に過ごせました。
ローンフェルト氏やディナスさん(これはアンドレーアスの方だ)はかなりご苦労なさったようです」
アグラーヤは辛そうに口に出した。
「プロイセン軍の将軍が物資やお金を提供するように迫り、市議会と板挟みになった市長さんが自殺しました。どうして軍人でない人がそんな選択をしなければならなかったのでしょうか」
俺は判らないと答えた。
「まず、掛けましょう」
テーブルの向かい合わせに腰を下ろし、アグラーヤの顔をもう一度よく見た。やつれた様子はないが、心痛が表情を透き通らせている。
「争い事は戦場でばかり起こるのではない。宮廷や社交界でだってそうでしょう?」
アグラーヤは力なく肯いた。
「フランクフルトのフェルナー市長の件は聞いている。マントイフェル中将はかなり強硬な態度で臨んだそうだし、それに関してプロイセン……、ビスマルクやヴィルヘルム陛下も謝罪の発言をしていない」
敗けたとはそういうものだ。だが、アグラーヤには割り切って考えられまい。いや、割り切っていてもなお、心苦しい思いがあるのだろう。
「このまま国王陛下は亡命なさったまま、カレンブルクは北ドイツ連邦という国の一部になってしまうのですね」
「ああ、そうだ。そして俺は軍人を辞する気はない。このまま伯林青の軍服を着るようになるだろう」
「それで貴方はご満足?」
「満足も何もそれ以外の生き方を今更考えろと?」
「ディナスさんのようには働けない?」
「金勘定を一から勉強し直しすれば、できるかも知れないが、それは俺の求めるものとは違う。
貴女とて生活が変わると予想はしないのか? 父君が縁談を考えはじめているかも知れない」
アグラーヤは自嘲した。
「父くらいの歳で、わたしより年嵩のお子さんがいるような貴族の後妻くらいしか口は無いでしょう。それだって難しいかも知れませんわ、なにせ本人は曰くつき、姉のアデライーダはハノーファーの貴族と結婚したものの上手くいってなくて別居している。面倒な家の人間です」
縁談は有り得無いし、あったとしても受け付けないと決めているようだ。
「先妻の息子が父の後妻とどうとか、ギリシア悲劇かシラーの戯曲であったかな」
アグラーヤはお芝居と一緒にしないでちょうだいと、他所を向いた。彼の女の賢さと美貌なら婚家で好きなように振る舞うのは可能だろうと思うが、自身が結婚を望んでもいないようだから、悪い冗談で済まさせてもらおう。
「国が滅んで、戦勝国に併呑されようと、貴女も俺も生き方を変えようと一切考えていない。そこ程切羽詰まっていないし、弱り切ってもいない。今のところはそれで満足するしかないだろう」
アグラーヤはしばらく考えて同意した。
「そうですわね、人生の最後にどうなるかは判らなくても、自分の好きなように生きたと胸を張って言いたいですもの」
「ああ、そうだ」
それ以上言うことはなかった。我々はお互い手探りながら、余人に曲げられることなく、自らの生き方を全うさせようとしている。確認できて、胸が軽くなる。
精神的にも潔く美しいアグラーヤ、賛辞するのに口付けや抱擁は相応しくあるまい。老いてはいないが、血気だけの年齢ではなくなった。今は握手で充分だ。
暇乞いをする時にローンフェルト夫人が俺に囁いた。
「フロイライン・ハーゼルブルグを悲しませるような真似はなさいませんように」
かなり真剣な目付きで睨むようだった。恋人か何かのように誤解されているのか。
「奥様、中尉はお友だちですわ。軍人が危険を冒すのは常です」
慌ててアグラーヤが間に入った。
それにしたってと、夫人が続けようとするのを制して、アグラーヤは晴れやかに見送ってくれた。
「またいつか、元気でお会いしましょう」
「ああ、また会える日を祈る」
参考 『ビルマルク 上』 ジョナサン・スタインバーグ著 小原淳訳 白水社
ウィキペディアで「プルシアン・ブルー」の漢字表記に「伯林青」があると知り、作中で使用しました。