二
フェリシア・フォン・リンデンバウム女伯爵が危篤の知らせを持って、ディナスが士官学校に迎えにきた。学校からの許可を取り、俺は急いで迎えの馬車にディナスと共に乗り込んだ。
「伯母様の様子について何か聞いているか?」
「発作を起こされて、その後の回復がないと伺っております。何とか意識が戻られたそうですが、もう起き上がれないそうです」
沈痛な面持ちのディナス。どう話し掛けたらいいか判らない。そして、ついに伯母まで喪ってしまうのかと、俺は動揺を隠せなかった。
旦那様、とディナスは傍らの花束を俺に示した。
「季節の花です。伯爵様にお見舞いにお渡し願いますか」
鈴蘭の花束。白く可憐な初夏の花。
ディナスはこの花に伯母の面影を映して見ていたのだろうか。
多くは問うまい。
長い道のり、心ばかりが焦る中、日の暮れる前にやっと馬車はリンデンバウム伯爵家に到着した。
ホフマンたちへの出迎えに、慌て気味に挨拶を返して、伯母の部屋に向かった。
部屋に入ると、伯母は以外にも明るく透明な表情をしていた。危篤と聞いて急いできたが、落ち着いているのか、と一瞬ほっとした。背後で、大きく息を吐くディナスがいる。
いつもは陰気で険しい顔をしているに、この時は安らかに微笑さえ浮かべていた。
俺は初めて伯母が美しい顔立ちをしているのに気付いた。病弱のため痩せて尖ったような印象しかなかったが、元々は端整な顔のつくりをしていたのだ。微笑んだ時に表情にやさしさと華やぎが加わっていた。
「ご機嫌よう、オスカー。
今は薬を使っているから楽なのよ」
と伯母は言った。
「ご機嫌よろしいようで、安心しました」
俺の言葉に伯母は微かに首を振った。
「もう無理のようです。でも死ぬのは少しも怖くないわ。両親もきょうだいも皆天国にいるのですから」
伯母は祖父が他界して以来、病状が思わしくなかった。
「伯母様、お気の弱いことを仰言いますな」
「いいえ、父が、貴方にとってのお祖父さまが、わたしに生きる気力を与えていたのよ。その人がいなくなってしまえばこのとおり」
「悲しいことを仰言るのですね。伯母様がお祖父さまと仲が良いようには見えませんでしたが、やはり伯母様にとって……」
「違うわ、オスカー、違うのよ。わたしにとって父より長く生きようとするのは復讐のためだったのよ。復讐する相手がいなくなって、わたしも生きる気力を保ち続けられなくなったのよ」
伯母は深い溜息を一つ吐いた。
「父から、健康な子供たちが早死にしていくのに、何故病気のおまえが生き残っている、と言われてね、父より早く死ぬものかと決めていたのよ。愛情も期待も掛けられなかった子が誰よりも長く生きて、父の死を看取り、そしてリンデンバウム家をわたしの代でおわらせる、それがわたしの復讐」
祖父は確かに未婚のフェリシア伯母の跡目を誰に据えるか悩みつつ亡くなった。既にアレティン家の当主になっていた俺をと考えていたらしいが、いくら娘の嫁ぎ先の外孫でも、騎士を伯爵家の当主にすることは、何の権勢も財力もない祖父に実行できるものではなかった。俺自身も、母の実家の後継に興味はなかった。(侯爵家に嫁いだもう一人の伯母は子を生さないうちに亡くなっている)
「わたしが死んだらこの土地も家財も全て処分させます」
伯母の言葉は穏やかだ。
「伯母様、この花を」
鈴蘭の花束を枕元に向けた。
「有難う。この花、好きですよ」
「オスカー、そこの小箱を取って頂戴」
俺は花束を置いて、言われたとおりに小箱を取った。
「開けてごらんなさい。
これは貴方に譲ります。伯母としてわたしはこれくらいの物しか残せない」
小箱にはいくつかの宝石が残っていた。我が家に残る母の形見の宝飾品より大きさや種類では見劣りするが、凝った細工の品の良い品々ばかりだった。
「どう使ってもいいのよ。わたしにとって思い出のある品々だから、同じ売り払われるにしても、管財人よりも甥の貴方の手でなされた方が、わたしも気分がいい」
「売ったりなんてしません」
「有難う。では大事にして頂戴。母は琥珀が好きでね。わたしのきょうだいたちは皆、形見として琥珀の細工物を分けて持っていったわ。きっと貴方の家にもマクダレナの持っていったものがあるはずだわ。
わたしは琥珀の中の虫だった。常に思い出だけを糧として生きてきた。歳月だけが過ぎていく。
姉のエレオノーラように家格の釣り合った相手と結婚し、侯爵夫人として生きることもなかった。マクダレナのように身分は劣っても資産家に嫁ぎ、女として最高の贅沢を手にすることもなかった。ましてやベルンハルトのように自らの信念を貫いて、貴族の身分を捨てて働くこともできなかった。
三人とも早くに亡くなったけれど、その人生の終わり方に満足していたかは判らないけれど、三人とも自分の好きなように生きたのよ」
祖父は心疾患をもつ伯母が生まれた時、冷たかった。既に長男・長女がいた所為もあった。二女が心臓病を抱えたまま成長期を乗り切ったのは貴族の家で生活していたからこそであるが、自分の娘に最先端医療の治療を受けさせるよりも、当主は自らの遊興費を優先させていた。当主夫婦の期待と愛情は、長男と、子供たちの中で一番の美貌の三女に向けられていた。
「喜びも少なかったけれど、悲しみも少なかった。それがわたし、フェリシア・フォン・リンデンバウムの人生。
オスカー、貴方は幾つになったの?」
「十七歳です」
「そう、まだ稚いのね」
「伯母様、ご心配なさらなくでも大丈夫です。私はアレティン家の当主としてちゃんとやっていけます」
「貴方はしっかりしているし、分を弁えた執事が補佐してくれている。何も心配していないわ」
伯母はまた溜息を吐く。生命が減っていく。
「お疲れなのではありませんか」
伯母は小さく首を振った。
「貴方を可哀想と言う人がいるかも知れないけれど、それは間違いだわ。傍目には両親も近い親戚も喪って寄る辺ない子と写るかも知れない。でも違うの。貴方を縛る者は誰もいなくなるのよ。貴方は誰かのために結婚させられこともないし、自分の信念を全うするために何もかも捨てて家を出る必要もない。口うるさく意見する父親も、何も知らないのにやたらと心配ばかりする母親もいない。病気ばかりの伯母ももうじき消える。
貴方の人生は誰の思惑も介することなく、貴方一人で決めていける。貴方は幸運なのよ」
伯母は言い終えると目を閉じた。伯母なりに俺の身を案じてくれているのだろう。伯母は妹夫婦のことを、そして俺がどのように育ってきたかをよく知っている。誰かを激しく愛することも憎むこともなかった人だと思い込んでいたフェリシア伯母の感性に触れ、心が揺さぶられた。伯母は甥の胸中に芽生えている負の感情をも熟知しているのではなかろうか。
「巴里にベルンハルトと結婚したお針子がいます。もし連絡してくることがあったら、親切にしてやって頂戴」
「はい」
俺は伯母の言葉を聞きながら、ベルンハルト伯父のことを考えた。何故、家を出て義絶してまで生きていこうとしたのだろう。母とは、あの愚かで身勝手だった母とは仲が良かったのだろうか。他人から奉仕されることを至極当然と受け止めて感謝しない、我が子への愛情も気分次第、そんな祖父と生活し、母は祖父の態度が正しいものとし、ベルンハルト伯父やフェリシア伯母は反抗心を抱いた。リンデンバウム伯爵から溺愛されていたにもかかわらず、長姉と違い下級貴族に嫁がされることになって、母はひどく嘆いたという。母は大きな不満を抱いていても、兄のように生家を捨てる選択はできなかった。祖父の言うがままに嫁ぎ、そして父の愛情に応える術を知らぬまま、父の財産を蕩尽していった。
「幼い甥が無事に成長している。それだけで充分」
俺は吐胸を突かれる思いがした。
「伯母様、私は……」
「オスカー、決して自分の運命を恨んではいけないわ。マクダレナや貴方のお父様のことを許してやれ、判ってやれとは言わない。あの人たちは親としてしてはいけないことをしたのだから。
貴方は悪くない。貴方は貴方にしかできない生き方をしなさい」
「親身な言葉を掛けてくださるのは伯母様だけです。感謝いたします」
伯母は俺の言葉に満足したのか、空色の瞳を向けた。
「貴方は大切な甥。愛していますよ」
どうして今まで伯母を見ようとしなかったのだろう。伯母ともっと前からきちんと話をしておけば良かった。伯母の優しさをもっと早くから知っておけば良かった。
「貴方を守って育ててやることができなかったことを許して頂戴。そして貴方が何を決断しようと、どんな行動をしようと全てを赦し、見守っていこうとする人間がいることを忘れないで」
俺はうなずいた。今更とって返すことのできない人生だ。伯母の愛情が、その死が、全ての軛を解き放つことにはならないと、俺は知っている。多分、両親や祖父に対する気持ちはなくならないだろうし、自分の生命を軽視することさえも消し去れはしない。
だが、だが、今は伯母を永遠に失ってしまうことが無性に悲しく寂しかった。誰をも愛さず生きていくと決め込んでいたのは、間違いだったのだろうかと心底思った。
伯母は翌日の朝、息を引き取った。四十三歳だった。