五
書斎で子爵令嬢と無言のまま時間を過していると、やっとホフマンがお茶を運んできて、次いで伯母とエリザベートがやってきた。救われた気分で俺は言った。
「私はこれで失礼します」
「いえ、貴方ももう少し付き合いなさい」
伯母の言葉に、俺と子爵令嬢は、異口同音に、はあ? と声を上げた。
「オスカーとの話の途中でしたし、アグラーヤ、貴女は落ち着くことが必要です。一緒に一服しましょう」
「いえ、しかしフロイライン・ハーゼルブルグは大事なお話があっていらしたのではありませんか」
「わたしは貴方と大事な話をしていました。
お判りですか、アグラーヤ。先触れなく来られても、すぐには対応できない時もあるのです」
子爵令嬢はすっかり縮こまってしまった。
「フェリシア様、申し訳ございません。わたくしこそ遠慮すべきです。下がらせてください」
「貴女を追い返して済む話ではありません。公爵様とのことでしょう?」
子爵令嬢は黙ってうつむいた。
「少しわたしの若い時の話をしてもよいかしら?」
伯母は俺たちの様子に構わず、エリザベートにお茶を淹れさせた。エリザベートは伯母と令嬢にお茶を淹れたあと、俺にお茶を渡しに来た。カップソーサーを持つ手が触れそうで触れなかった。
「有難う」
「どういたしまして」
我ながらぎこちなくて情けない。
伯母はお茶が行き渡ったのを確認すると、口を開いた。
「先ほどオスカーにはわたしの兄の話をしていました。兄は父の後を継がずに家を出てしまったので、父の亡き後、わたしがこの家の当主になったのは二人ともご存知でしょう」
はい、と俺は返事をしたが、伯母の兄の話は令嬢には初耳だったらしく、わずかに身じろぎをした。
「元々父と兄は仲が良くなかったのね、よく喧嘩をしていました。兄には軍人や政治家の才はなかったようですが、絵を描くのが好きでした。単なる手すさびではなく、上手だったと思います。画家になれたら、と考えていたようです。
でも、父は絵画は道楽の一種でしかないと考えていたようですし、それを職業にするのは職人だと偏見もありました。
この家は豊かではありません。しょっちゅう、兄は父に道楽を控えろと言い、父は兄に絵の具に金をかけるのはやめろ、姉が侯爵家と縁を結ぶのに嫡男が絵ばかり描いているのは体裁が悪いなどと言っていました。
次いで妹のマクダレナに――オスカー、貴方のお母様ね――縁談が出た時、父に向かって兄は体裁の悪い真似をしているのはどっちだと、怒鳴りつけました。
その時のことは詳しく話す気になれないわ。とにかく、兄はこの家と訣別しました。わたしや妹に一緒に行こうか、と言ってくれましたが、わたしは病から、妹は父に逆らい家から離れるのを怖がって、ついていけませんでした。
兄が画家として何とか生活していると、その時々の便りで知りました。維納や巴里、羅馬を転々として、最後は巴里で生活していたようです。苦労して、早くに亡くなりましたが、わたしは父よりも兄が好きでした」
行方知れずの伯父はそんな人だったのか。
伯母はやや話し疲れたようだ。
「大概の人たちは世間体や安定を重視しろと言うし、それに従った方が間違いない場合が多いでしょう。
でもね。こうと決めたのなら、それを破って進んでいってもいいんですよ」
アグラーヤ・フォン・ハーゼルブルグはお茶を飲まずに伯母を見詰めていたようだった。
「兄はわたしの誇りです」
あとでディナスから聞かされた話である。
ディナスは、リンデンバウム家の使用人たちと、厨房にいた。ホフマンや使用人たちが朝食の世話をしているのを手伝いながら、交替で朝食を摂っていた。食後の飲み物を食堂に運んで、使用人たちも一服しようかと思っていたら、警備の者が慌ててホフマンを呼びに来た。騎馬の女性が一人でやって来た。主人の知り合いの女性だ。玄関先まで連れてきたがどうしたらいい、と報告したらしい。
ホフマンは急いで玄関に向かった。訪問者を出迎えると、確かに主人の知り合いの子爵令嬢だ。警備の者に馬を任せて、ホフマンは令嬢を応接室に案内した。
「主人は只今食事中ですので、急いで知らせてまいります。しばらくお待ちください」
ホフマンはそう言って応接室を出た。しかし、この子爵令嬢は落ち着けなくて、結局ホフマンの後を付けて食堂まで入ってきてしまった。
リンデンバウム伯爵家の玄関広間でディナスから朝の顛末を聞かされ、俺はまたも呆気に取られていた。
「朝から馬を飛ばしてきた?」
「はい」
「ハーゼルブルグ嬢はドレス姿だった。横乗りだぞ?」
「そのようでございます」
貴婦人の乗馬は嗜みのようなものだと思っていたが、預った馬の様子から大分急がせてきたという。横乗りで、無茶をする。
「相当な悍馬だな」
「……」
ディナスが令嬢の品評めいたことを口にしないのは判っている。だが、ハーゼルブルグ子爵令嬢に関する話を教えてくれた。
ハーゼルブルグ子爵家の縁戚に、シュタウフェンブルグ公爵という人物がいる。縁戚の間柄から家族ぐるみの交際があり、子爵家の三人の娘の内の一人と公爵が結婚するであろうと、誰もが目していた。そして、末娘のアグラーヤがシュタウフェンブルグ公爵と婚約すると話が進んだ。ところが、シュタウフェンブルグ公爵は他の女性と電撃的な恋に落ちてしまった。それも未婚の令嬢ではなく、他の貴族の囲い者になっている女性だった。子爵家との縁談は立ち消えとなった。公爵家の方が身分も財力も上だったために、その女性を自由の身にしてやり、結婚しようとしたのだが、女性の方が公爵と結婚を望まなかった。理由は判らない。噂ばかりが流れているそうだ。
とにかく振られた公爵と、婚約・結婚の話を抜きにして、以前のように会いたいとアグラーヤは願うのだが、今度は子爵家の家族が反対をする。恥をかかされたのだから相手にするな、未婚の女性が汚点の付いた男性の許を訪れようとするな、と。
それで未婚の女性が未婚の女性を単身で訪れるのは構うまいと、伯母の家に飛び込んできた次第である。
俺からすれば、一途というよりじゃじゃ馬だ。母のように親の決めた相手と結婚してから自儘に過ごす貴婦人が多いのに、結婚前からここまで行動力があるのだから大したものだ。
「伯母様の心労が心配だ」
「左様で」
亡くなった伯父を偲び続ける伯母にはディナスは眼中に入るまい。故人の思い出にディナスは勝てそうもない。
俺は俺でエリザベートが気に掛かる。お互い一夜のことと割り切っていたつもりだけれど、忘れがたい夜にしてくれた。その上、例の子爵令嬢が俺を噂の騎士だの言うから、混乱してくる。腕に触れた、手袋をした小さな手。面紗ごしにも見えた朱に染まった肌。俺を見詰めた瞳。
女から俺はまたどう見られた?
母親譲りの顔立ちが女に受けている訳か。伯母が自慢して触れ回っているとも思えないから、どこから噂が立つのだろう。
これから男ばかりの士官学校で暮らすのというのに、浮ついた気持ちの処理に困る。