十
大慌てで呼び鈴を鳴らし、人を呼んだ。後はよく覚えていない。衣服を改め、医者を呼び、気が付いたら寝台で寝ていた。体温は微熱といった程度のようだが、それよりも喀血が俺自身もディナスたちをも驚愕させた。
報せが送られたのか、商会の者たちが顔を見せた。消耗していて小難しい話はできないと判断してくれたか、伝染ると気にしたか、優しい慰めを口にして短い時間で帰っていった。
アンドレーアスも駆けつけ、抱き着かんばかりに顔を寄せた。
「感染するといけない」
かれを押しとどめようとする我が腕のなんと衰えたことか。
「今更言うかよ。だがあんたがそう言うなら気を付けよう」
アンドレーアスは明るく振る舞う。辛気臭い雰囲気を逸らそうと、世間話を始めた。フランクフルトと昴の流行りがズレているとか、そんな内容。
「面白い話を小耳に挟んだ。上つ方のあやしい噂なんだが、プロイセン王家の親戚で、カトリック教徒で奥さんがポルトガル王女のレオポルド・ホーエンツォレルン゠ジグマリンゲン侯子に、王様にならないかとスペインから声が掛かったそうだ」
「噂だろう?」
「噂だ」
「そんな話、フランスのウージェニー皇妃が嫌がる」
「だろうね」
血統を辿るにしても下手をすると、カルロス2世の死去でスペイン・ハプスブルク家直系の血筋が途絶えて起こった十八世紀のスペイン継承戦争のようなことが繰り返されるおそれがある。色々と不安要素が頭に浮かんだが、それを上手く言葉にしてアンドレーアスに伝えられない。
「もし、もしもプロイセン、北ドイツとフランスが相争うようになったら、そうなったとしても、俺はベルナデットを守れない」
起き上がろうとする俺をアンドレーアスは抑えた。
「悪かった。実現しっこない与太だと思ったんだが、大使館勤めをしていたあんたには冗談事に聞こえないんだな」
とにかく落ち着けと言われ、喘ぎ喘ぎ、息をする。
「ベルナデットやルイーズたちが危険にならないだろうか」
「大丈夫だ」
「早めに宝飾品を贈ろう。それに『ティユル』に備えになるような物資も渡しておきたい。何か考えておいてくれ」
「ああ、判った。任せておけ」
俺をなだめなくていい、彼の女たちの為に動いてくれないか、とつい口にした。無理難題を言う我が儘な病人になってしまった。それでもアンドレーアスは俺の願いを聞き入れてくれて、巴里へ発った。
本や新聞を読む気力もなくして、天井を見上げる。
見舞いの客が来たと告げられて、部屋に入ってきたのはアグラーヤだった。優雅な佇まいに一種の安らぎを感じる。
「アンドレーアスさんから報せをもらいました。お加減はいかが?」
「あなたの顔を見たら良くなった」
これは本心だ。
「お上手を言えるのなら安心ね」
「もう会えないのかと思った」
「あの時、取り乱してしまって恥ずかしかった。よくない態度だったと謝るわ」
「いや、謝らなくてはいけないのは俺の方だ。悪かった。短慮だった。あんなことは二度と口にしない」
アグラーヤは駄々っ子を見るようにやさしく微笑んだ。出会ったばかりの昔を思い出す。時間が巻き戻らないと理解しつつ、懐かしさは苦味を含みながら甘く、心地よい。
「詫びの品ではないが、受け取って欲しい。母や伯母から受け継いだ宝飾品は俺が所有していても役に立たせられない。女性の身を飾る品は女性が持っているのが正しい」
部屋にある小箱をアグラーヤに開けてもらった。
「伯爵夫人がお持ちだった品々ね」
「ああ」
彼の女に小箱を枕元まで持ってきてもらった。小箱から一つ、金鎖を撚り合わせた腕輪を取り出し、彼の女の手首に巻き、留め具を留めた。
「受け取ってくれ。あなたを飾り、いずれはアガーテを飾って欲しい」
そうするわ、とアグラーヤは涙ぐみながら肯いた。
「やり残したと思うこと、後悔の念は尽きない。だができ得る限りのことはしてきた」
受け取ってくれて有難う、と伝えた。
俺の命がいつ尽きるか知れない。愛しい人、親しい人たちがある世で災いが起こっても自らの腕で守ることも、知恵を働かして避難させることももはやかなわない。己の無力さに打ちのめされる。俺は結局何事も成さず終わるのだろう。
小箱の中を見て、アグラーヤは呟いた。
「琥珀の指輪や首飾り」
かつて俺は琥珀に閉じ込められた虫のようにはなりたくないと思った。虫とて羽があれば飛び回る。アグラーヤは俺とは違った感慨を抱いたようだ。
「小さな羽虫が飛び回って捕食者に食べられることがあるでしょう。食べられなくても虫の生は短い。たまたま舞い降りた植物にからめとられて一緒に凝って石となり、こうして永遠に近い姿を保つ。自然の力って不思議よ。
寂しいことは言わないで、この石に潜り込んだ虫に負けないよう、あなたも生きてちょうだい」
「俺の気力が保てるように、あなたも息災でいて欲しい」
「ええ、そうね」
握手を交わし、アグラーヤは去った。
やがて冬を迎えるが、この状態では避寒で南国に移動するどころではない。生まれ育った土地でこのまま過す。窓や温室の天井から見上げる故郷の空はいい。これからの季節、星空を眺めれば南に昴を望めるだろう。
美しい空と緑の大地。
我が足で大地を踏みしめ、大空に手を伸ばす。
ただそれだけがいかに仕合せであったか。再び春を迎え、鈴蘭の花束を大切な人に贈れたら。今となっては何もかもが夢となる。よい夢を見るため、眠りに就こう。
了




