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君影草  作者: 惠美子
第四十八章 故郷の空
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 弁護士に相談をして、遺言の内容はあらかたまとまった。フランクフルトから戻ってきたアンドレーアスやアレティン商会の代表たちと、俺に何かあった時の名義の書き換えや、取引の方針など話し合い、決めた。

「商会の今後の取り分、役割をはっきりできれば偉いさんたちに文句はないさ。俺もこれまでの働きが認められて、今後の裁量も自由だから満足だ。

 あんたがあんたの財産をどう使おうがあんたの自由だ。ま、持ち株の譲渡相手は選べよ」

「ディナスを含め、この家で働く者たちの退職金や年金に充てる分と、それと巴里のラ・ヴァリエール家に贈る」

 もっともだ、アンドレーアスは肯いた。

「マドモワゼルはオスカーの奥さんになりそびれたんだし、ほかに近い親戚がいないんだからあんたがそう考えるのは当然だろう」

「有難う」

 柄じゃないだろう、とアンドレーアスは笑った。かれには告げなかったが、アンドレーアスにも遺産の一部を渡す。父から受け継いだ商会で俺に代わって働いてきた。俺の乳兄弟、兄弟分なのだから、受け取ってもらう。

「それと、母や伯母から受け継いでいる宝飾品はベルナデットやアグラーヤに渡したい」

 俺個人の持ち物であるから、これに関して誰も異議はないはずだ。

「アンドレーアスに意中の女性がいて、何か贈り物をする予定があるなら好みの物を譲るが、見てみるか?」

 ないないと、かれは手を振った。

「そういう相手はいないし、もしいたとしても自分の手の届く値で選ぶ。貴婦人が持っていた品を渡して、また同程度の品を贈ってもらえると期待されでもしたら困る」

「ではベルナデットとアグラーヤに渡すのに異存はないな?」

「ああ。ただフロイライン・ハーゼルブルクにどんな品を贈るのか教えてくれ」

「判った」

 夏の暑さを何とかしのぎ、秋の風が吹くようになった。夏の間は木陰を好んで、日向(ひなた)を避けていたが、涼しさを感じる日は陽光を追うようにして過した。外で過すには向かなくなった。だが温室で過すのにはまだ早い。ガラス越しに注ぐ日光を受けると厨房で焼かれる鶏の気分にさせてくれる。ディナスはやたらお寒くありませんか、暖かくなさってくださいと、言ってくる。

「平気だ。ディナスは寒いのか?」

「いいえ」

「ならば気を回さなくてもよい」

 かしこまりました、と答えるものの、ディナスは案じ顔だ。結核の療養をするのに冬でも窓を開けておくとも聞くのに、初秋から寒さを心配されたら、冬は一体どんな部屋に設えるのだろう。

 差し出がましいと存じますが、とディナスが言い、促した。

「旦那様はお痩せになりました。ですからお体がすぐに冷えてしまうのではないかと」

 俺はディナスを見上げた。

「そうか。心配させて悪かった」

 だんだんと体を動かすのが億劫になって、食欲が落ちた。食べなければいけないと判っているのに、どうしても喉を通らない。のんびりと日々を送っていながら、回復には程遠い。

「何が体に負担になっているのか、自分にもよく判らない」

「お心を乱して申し訳ございません」

 ぼんやりと過すほか、新聞を読むのが日課だ。スエズ運河がいよいよ完成する、開通式にはフランスを代表してウージェニー皇妃が参加するめでたい話と、女王を廃位したのに王制自体を廃する気はないスペイン政府がボルボン家と血縁のあるあちこちの王家に打診しているらしい、と不穏な話が載る。フランスに関する海外の情報に敏感にならざるを得ない。スペイン出身の皇妃の言動が軽はずみに映るのは依然として変わらない。ゴルツ大使の後任となったカール・フォン・ヴェルタ―大使の為人(ひととなり)は知らない。外交官としてロシアやオーストリアの大使を歴任してきたそうだ。国王からの信任を受けて働いているのだし、交渉事は上手いのだろう。欧州の情勢が巴里に暮らす大切な人たちに災いを及ぼさないよう、祈るしかない。

 秋風が吹き荒れるように、呼吸器の中が荒れ狂う感じがした。咳が止まらなくなって、それから、一体どこから、と目を疑う量を喀血した。

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