八
莫迦なことを言った。世迷い事を言った愚かな男に呆れ果て、フランクフルトへ一人で帰っていくのだろうか。
生きていると後悔ばかり。家庭教師をしながら生活しているといっても、彼の女は子爵家の令嬢、騎士爵の男から形ばかり結婚を持ち掛けられ、財産の分与を受けられることになったといって喜ぶような女性ではない。そうだろう!
アグラーヤと娘に何か遺せないかと考えたが、あまりに彼の女の気持ちを無視していた。ベルナデットに対してもそうだったが、やはり女性の想いを慮れないようにできている。人の心は判らない。判らないなりに気を回して、独り善がりで終わることがなんと多いことか! アンドレーアスに相談しておけばもっと別な方法を考えてもらえたかも知れない。
ぐるぐると出口のない思いを巡らせて、容赦なく時は過ぎていく。
書斎の窓からの風を受け、重しで押さえられた何も書かれていない紙がはためく。
ディナスがお茶を取り替えにきて、俺の様子を窺った。
「なあ、ディナス」
「はい、旦那様」
「ディナスは女性に物を贈ったことがあるか?」
ディナスは首を傾げた。
「いいえ、私は全くの不粋者で、そういった経験がございません」
かれの言を疑っては悪い。
「例えば、リンデンバウムの伯母が生きていたとして、伯母の人生がこの先豊かになるような贈り物をしたいとして、ディナスなら何を贈りたい?」
リンデンバウム女伯爵は何でもお持ちでしたし、使用人の私が差し出した物など受け取ってくださるかどうか、とディナスは前置きした。
「私のできる精一杯は女伯爵のお好きでした鈴蘭の花束を差し上げるくらいしか思いつきません」
「花束で人生が豊かになるかな?」
「すぐにしおれて枯れてしまうにしても、受け取ったその時、花束が美しい、嬉しいと感じていただけたなら、それでよいと思います。女伯爵の人生に私などが関われるものではありませんでした」
分を弁えたと言えば美しいけれど、寂しくはないか。
伯爵家の娘で家督を継ぐことになった伯母と、甥の家の執事であるディナス。立場と身分の差があるから、伯母が自分を気に掛けていないからと、諦めきれない気持ちを抑えて見守るしかなかったディナス。
独り身を通すと決めてしまえば揺らぎもしなくなるのかも知れない。ディナスも俺も。
「鈴蘭の咲く時期は過ぎてしまったから、ほかの白い、小さな花がいいのだろうか」
「左様でございますね」
「リンデンバウム伯爵家の、フェリシア伯母上の兄、ベルンハルト伯父の結婚相手とその娘が巴里で暮らしていると前に話しただろう?」
「はい」
「アンドレーアスからも聞いているだろうが、義理の伯母と従妹と、その家族で、『ティユル』という洋裁店を営んでいる。商会から洋裁店に出資するほかに、彼の女たちに我が家にある宝飾品を贈ろうと思う。母やフェリシア伯母から受け継いだ品々が誰の身も飾らずにいるのは勿体ないだろう?」
「はい」
ディナスは俺に将来の妻にいずれ渡せば、とは言わなかった。
「巴里のラ・ヴァリエール家の人たちのほか、伯母と親しくしていた若い女性、ハーゼルブルク子爵家のアグラーヤ嬢にも同じように宝飾品を渡したい。彼の女に恩を返したい」
「ご婦人方は喜ばれるでしょう」
宝飾品は花束のように枯れはしない。そのまま使っても、マダム・ド・デュフォールのように贈った石を作り替えて身を飾ってもいい、何かの時に売ってしまっても構わない。俺の手にあるよりもずっとずっと有効な使い方をしてくれるだろう。
どうしてもっと早く思いつかなかったのだろう!
残念なのは、ベルナデットの身を手ずから飾ってやらなかったこと。ベルナデットの手に、首に、手ずから腕輪や首飾りを付けてやったら、彼の女はきっと微笑み、抱き締め、接吻を返してくれた。宝飾品の冷たく滑らかな感触、輝きは女性に官能を与え、より魅力を引き出す。
アグラーヤに渡せば、いずれは自分の娘に贈ろうと考えてくれするはず。書面上の婚姻なんかより余程まともなやり方に違いない。
「よい考えだと思うか?」
「はい、旦那様」




