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君影草  作者: 惠美子
第四十八章 故郷の空
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 アグラーヤはあれからまた見舞いに来てくれた。一月ばかりの休みをもらったので気にするなと言い、ひょっこり顔を出しては風のように去っていく。病人を気遣ってのこと。こちらも短い時間だけならと、できるだけ元気そうにしてみせる。

 話題が、アグラーヤの実家のハーゼルブルク子爵家に及んだ。

「お父様が馬車から降りる時につまずいてしまって、みんな慌てたわ。なんでもなかったから安心したけれど、もう若くないのだから足元に気を付けないと姉からまで言われて、しょげていたわ」

「あなたの姉上というと、ホルバイン子爵夫人?」

 アグラーヤは苦笑いしながら首を振った。

「アレクサンドラではなくアデライーダ、ローデンブルク伯爵夫人よ」

「てっきり夫君と外交で忙しいのかと」

「わたしより実家に顔を出しているわ。令夫人としてご夫君と共に動き回っているようだけど、流石にくたびれるそうよ。実家に戻ってくると我がまま気ままな娘気分で過すって」

 まあ、気晴らしの手段は人それぞれだから。

「結婚が決まった時は大丈夫かと誰しも心配したけれど、アデライーダに合った相手と婚家の環境だったね、と、母やアレクサンドラと話して、今は安心しているの」

 女性の心理を慮るのは不可能だ。何も言わないでいた方が平和でいられる。結婚で当人が幸福になれるかどうかなんて判らない。一人でいてもいい時も悪い時もある。健やかなる時も病める時も互いに助け合うと、口では何とでも言える。実際の苦難に直面した時にこそ人は試される。

「ホルバイン子爵夫妻は息災かな?」

 アグラーヤは一呼吸置いて答えた。

「ええ、二人とも元気で、あれからまた男の子が生まれたわ」

 自分が大きく息を吐く音を聞いた。

「アガーテは男兄弟に囲まれているのか。騒がしそうだ」

「ええ、実際そうよ」

「アガーテは大きくなった?」

 黒い髪に緑の目をした、泣き虫の娘。俺の記憶の中にあるのはそれだけ。

 アグラーヤは肯いた。

「背も伸びたし、何本か歯も生え変わって、どんどん成長している。音楽が好きで、ピアノを習っているわ」

「そうか……」

 彼の女と再会してからずっと考えていた。

「近々遺言を書き直さなくてはならないと考えている」

 アグラーヤははっと顔を強張らせた。

「もう少し落ち着いてからでもいいでしょう」

 きちんとした判断ができるうちに大切な事柄を決めておきたい。容態が好転したらしたで文書をまた書き直せばよいのだ。

「商売上のことはアンドレーアスにおおむね任せられるがそれ以外、この家屋敷や父から受け継いだ商会の名義や財産。その分与であれこれと悩んでいる。長年この屋敷で働いてきたディナスたちに報いたいし、巴里の親戚にもまとまった財産を渡したい」

 何故俺がこんなことを言い出したのかと、彼の女は量りかねている。

「どういった名目ならあなたとアガーテに財産を残せるだろうか」

 アグラーヤは目を見開いた。

「アガーテとわたしのことを思ってくれていると知っただけで満足です。わたしにはそれなりの財がありますし、アガーテにはホルバイン家とハーゼルブルク家が付いています」

 彼の女は難しい数学の問題を突き付けられたような顔をしている。

「少しは喜んでもらえるかと思ったが、俺の思い上がりだったか」

「いいえ、いいえ。嬉しいわ。嬉しい気持ちに偽りはありません。でもわたしとアガーテが受け取る理由がありません」

「あなたがそう言うだろうとは予想していた。もしかしたらあなたを怒らせると思ったが、こうも思案した」

「怒るって?」

「もし、もしあなたと法律的な結婚を成立させたら、あなたは俺が死ねば財産を受け取れるし、あなたの姪に何らかの財産を譲るのも不自然ではない」

 アグラーヤは困惑の度を深めた。

「あまり賢くないですよ。結婚してしまったらラ・ヴァリエール家に行く財産が減ってしまうでしょう? 病が治ったら離婚するの?」

「それはそうなんだが」

「気が弱くなっているから、そんな考えが浮かぶんです」

「しかし……」

「それ以上言うと、自分が悪い人間になってしまいそうだからやめてちょうだい」

 人間、欲深くできているのよ、とアグラーヤは諭した。ちらつかされて無欲でいられるほど聖人ではないのだから二度と口にしないで、と仕舞いには睨まれた。

「判った。二度と口にしない」

 恥じ入るしかない。

「気の迷いも病の所為よ。くよくよ考えないで、良い空気に当たって、気分よく過せば元気になれるわ」

 アグラーヤは優しい微笑みを浮かべた。

 口に出したことは取り消したとしても耳に残る。やはり彼の女の気持ちを害しただろう。休暇の日にちは残っていたはずだが、我が屋敷に訪れが無くなった。

 アグラーヤの訪れをいつの間にか心待ちにしていた自分に気付かされる。


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