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君影草  作者: 惠美子
第四十七章 いとしの君がいなければ
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 ベルナデットを見送り、独りに戻った。物思いにふけることくらいは己に許そう。愛の喜び瞬く間に過ぎ行くが、悲しみは大河の流れのように続く。

 愛しい(ひと)よ、男が森に去るのを嘆くなかれ。あなたの為に太陽は輝く。

 冬が春へと居場所を譲ろうかという頃、伯林(ベルリン)から内示が伝えられた。大使館の駐在武官の任を来月一杯で解く、療養のための長期の休暇を認めるとある。

 内示を伝える文書を指し示しつつ、シュタインベルガー大佐は告げた。

「巴里に来たがる者は文官・武官問わずいるし、外交の場での情報の重要さは大使館の誰もが心得ている。貴官は職務を全うしたいとか、引継ぎをしっかりしなくてはとか、考えるな。任が解かれる日までのんびりしているがいい」

 俺の性格を見越しての忠告だな。病気を抱えた人間があちこち動いて、急に動けなくなったと連絡がきたら大使館員や伯林の参謀本部が困る。

「はい、承知しました。大使館にある私物を少しずつ片付けます」

 異動する日の目途が付いたなら、アンドレーアスやディナスにそれとなく知らせられるし、寄宿先の契約解除の期日も決められる。諜報の仕事をせずとも済ませておかなければならないことは多々ある。それにゴルツ大使にも挨拶をしておきたい。

 ゴルツ大使の容態は芳しくない。病変部を切り取ったが、病は既に身体の深部を侵していたらしい。大使は生まれ故郷に戻ることを願った。

 ゴルツ大使は伯林郊外のシャルロッテンブルクへ、俺は(プレヤデン)へと帰る。扉越しとなってよいからお会いしておきたいと申請し、訪問を許された。今の俺にとってはフォンテーヌブロー宮の庭園や壮麗な建築は目を奪うものではなかった。入って良いと医師も大使も言うので、戸惑いながら病室に足を入れた。

 体を起こして俺に視線を向ける大使の姿に驚きを隠すのが精一杯だった。

「久し振りだね」

 と聞こえるか聞こえないかの声がした。

「お久し振りです。アレティン大尉です。この度、小官は退任することとなりましたので、一目でもお会いしたくて参上しました」

 ゴルツ大使はぎこちなく手を上げ、手招きをした。

「私の声が聞こえないだろう」

 と途切れ途切れにかすれた声が発せられる。

「いいえ、ここで失礼します。小官の病が大使のお体に障るといけません」

 大使は唇を動かした。どうやら笑いの表情らしい。また手招きをしてみせた。

「今更、どう障ると言うのだね」

 側に控える医師が肯いてみせるので、俺は歩み寄った。

「心残りはある。だができ得る限りの努力はしてきた。そうだろう?」

「はい」

「体を大事にしたまえ」

「はい。どうか大使も」

 ロベルト・フォン・デア・ゴルツ大使との最後の面会になった。ほどなくしてプロイセンは、北ドイツ同盟は、フランス帝国皇帝の信頼篤い外交官を失うことになる。

 シャン゠ゼリゼ大通りのラ・パイーヴァ邸にも別れを告げねばなるまい。昼間、玄関先で挨拶すればいいと思って訪問したが、女主人は客をとんぼ返りさせられないと言い張った。

「動き回ってばかりだと疲れてしまうでしょう? 一休みしてから帰ればよろしいわ」

 相変わらずにこやかでいながら強引だ。俺が来ると知って招待していたのだろう、レオニー・レオン嬢もいた。

「ブルターニュ発祥の、バターと砂糖のたっぷり入った焼き菓子を作らせたから、食べていってちょうだい。おみやげに持っていっても構わないわ」

 弱っている身には消化するのに負担になりそうな気がするが、滋養があるからとラ・バイーヴァは善意で勧める。こちらは有難うございますと、返すしかない。

「正式に異動が決まり、故郷に戻ります。実に名残惜しいです」

「ムシュウのお陰でこちらへとのご縁ができましたのに、故国にお戻りになるなんて寂しいですわ」

 とレオン嬢はやさしげな風情を崩さず言った。

「ええ、本当に何がきっかけになるか判りません。でもマドモワゼルにはお好きな方ができたのでしょう?」

 まあ、とレオン嬢は小娘のように両手で顔を隠すようにした。

「小官にはムシュウ・ガンベッタがどのようなご仁か判りませんが、マドモワゼルが心惹かれるくらい魅力的な男性なのでしょう」

 そうよねえ、とラ・パイーヴァは笑った。

「大尉さんがいらっしゃらなくなるから、その代わりに絶対ムシュウ・ガンベッタとお知り合いになってここに連れてきなさいなとマドモワゼルに言っているの」

 共和派の弁護士をラ・パイーヴァの屋敷に引っ張り込めたら大したものだ。

「それは興がありそうですね。ムシュウ・ガンベッタが身だしなみに構わないのは仕事熱心の為でしょうから、マドモワゼルとマダムとで着こなしなどお洒落を教えて差し上げたら?」

 嫌がられないかしら? とレオン嬢は尻込みするが、議員選挙に出るなら見た目も大切だとあなたが教えて差し上げれば感謝されますよと言っておいた。

 ラ・パイーヴァ邸は駐仏プロイセン大使館員にとって重要な情報収集場所であり続ける。今後もフランス陸軍将校の遺児であるレオニー・レオンが出入りし、帝政に反対する共和派の弁護士まで訪問するようになれば情報はまた多彩となる。後任者に苦労は掛けまい。

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