八
手を伸ばしてみると滑らかな黒髪に触れた感覚がある。それから頬にと手が動いた。ベルナデットの白い手が俺の手を取り、そっと口付けた。
「こんにちは」
「夢じゃないのか」
ベルナデットが口角を下げた。
「大丈夫、オスカー? わたしがここにいるのは現実。夢じゃないわよ」
どうやら夢や幻ではなさそうだ。ベルナデットの手を握り直し、生きている温もりを確かめる。
「どうしてここに? 俺から何も連絡していないし、『ティユル』からも便りを受け取った覚えはないが……」
疑問はすぐに解けた。
「この家の女中さんよ。あなたの様子が心配で、またいつかみたいに寝込みかねないと知らせてくれたの」
以前頼んだものだから、『ティユル』を気軽な連絡先にしてしまったな。厄介事を担当したくないマダム・メイエや女中の気持ちも判らないではないが、思わぬことでベルナデットと再会してしまった。
「大袈裟だ。あなたこそ仕事が忙しいのではないのか? 謝肉祭や復活祭に向けての衣装の注文があるだろう?」
お遊びの衣装でも需要は多いはずだ。涼しい顔で彼の女は言った。
「意匠の考案と生地の裁断は終わったから、縫い合わせてもらっているわ」
「仮縫いは?」
「昨日終わったから本縫いなの」
本当かどうか判らないが、口では敵わない。素直に謝意は示しておこう。
「来てくれて有難う。だがあなたが心配するようなことは何もない。安心してくれ」
心から信じてはくれなさそうだ。それほど痩せてもいなければ、顔色が悪いわけでもないと思うのだが、他人がどう見るかはやはり自分では判らない。ベルナデットじっと俺を見詰め続ける。
「このまま帰るのも詰まらないだろうから、もし時間があるのなら、どこかの店で一服しないか? それとも夕食も一緒に?」
できるだけ明るく話し掛けてみる。それでも彼の女の顔から不安の色は消せなかった。
「わたしが扉を叩いたり呼び掛けたりしても返事がなくて留守なのかと思ったけど、マダム・メイエに頼んで鍵を開けてもらってお邪魔したの。そうしたらあなたがいるじゃない。うたた寝しているあなたの隣に座っても気が付かないから、どうしようかと焦ったわ」
居眠りの間抜けた面を見られてしまった。
いや、それよりも物音や気配をまったく覚らず眠っていたとは、俺の加減が大分おかしくなっている。情けない気分で視線を落とすと、ベルナデットは両手で俺の顔を挟んだ。
「ちゃんと眠れている? 食事を摂っている? 仕事が辛いの?」
青い瞳が今にも泣き出しそうになりながら、必死に訴えかけてくる。
「食事は摂れている。ただどうしても仕事の時間が不規則になりがちで、昨日も遅かったから、つい寝入ってしまった。心配は無用だ」
「本当? 嘘だったら承知しないから」
嘘を吐きたくない。だが真実をすべて告げて益する所があるだろうか。
ベルナデットが俺の顔から自分の手元に視線を移し、俺の首を見た。すっと彼の女の目付きが変わった。
「痛くないの?」
首の腫れが見付かった。
「今は痛くない」
視線で痛覚を刺激されそうだ。彼の女は彼の女で思い当たることがあるようだった。
「首にこんな腫れがある人を見たことがあるわ」




