三
定時の報告を終えてから、俺が退任するとなったらどこまで整理が必要かと考えた。大使館で起居することもあるので私物を置いているし、案外要らない物も溜め込んでいるかも知れない。急ぎはしないが、見直しておこう。
寄宿先の近くの店に立ち寄り、夕食を摂ることにした。注文の品を待つ間、男女の諍いの声が聞こえてきた。
「僕は君にうんざりしているんだ」
「そんなひどいことを言わないでちょうだい」
「付き合ってしばらくになるからと、君を親しい上級生や恩師に紹介してみたらとんだ恥さらしだ。相手が手を取って接吻したからといって、抱きついて顔に接吻するなんて、初めて会った人に対して礼儀がなっていない。「どう? 仕事は上手くいっているの?」だの知りもしないのに訊くものじゃない。魚の骨を皿に骨を吐き出す奴がいるか、歯に詰まったからといってカトラリーでせせるだなんてみっともない」
「あたしが礼儀を知らないからといって責めないで」
「君が母親と一緒に市場で魚を捌いて暮らしているのをどうこう言うつもりはない。僕は以前に食事時にしてはいけないことを教えたじゃないか。君は覚えていないし、直す気もないんだ」
「きちんと直すから、もう言わないで。あの時は緊張していて上手にできなかっただけ」
がちゃんと物が落ちる音。
「言ってる傍からすぐそれだ。拾ってもらうか、自分で拾うのなら席を立ったらどうなんだい。離れた所に落ちたのに座ったまま床に手を伸ばしたら不恰好だし、ひっくり返りかねない」
「ごめんなさい、ごめんなさい」
「口ばっかりだ」
店員が落ちたカトラリーを拾い、代わりを置いてくれたらしい。男性は優しい声音で礼を伝えた。女性は泣き声になっている。察するに市場で働く下町の女性と、育ちのいい学生の取り合わせか。
「愛してるの。あなたが怒らないように、恥ずかしい思いをしないように、悪いところを直すから、もう言わないで」
「どうしてもと言うからまたこうして会っているけれど、やっぱり僕は君を見ると、かれらに紹介した時の気持ちがよみがえってきて平静でいられない。君も惨めったらしい顔をしていないで、背筋をしゃんと伸ばして淑女らしい振る舞いをしてみたらどうなんだ」
「一度に求めないで。少しずつ覚えて直すからどうか許してちょうだい。あなたを愛しているの。出会った頃みたいに沢山あたしのいいところを言ってもらえるように頑張る。愛しているから」
「僕は飾り気のない君が好きになった。でもそのままじゃ結婚できない。だから礼儀や振る舞い方を教えているんじゃないか。愛していると口にする割に君に変化がないのは、僕に対する愛情が薄いからじゃないのか?」
悲嘆の叫びともいうべき声が響いた。学生街で、学生と交際相手の愁嘆場はたまに見掛けるが、ここまで盛大なのは初めて出くわした。弁の立つ奴は褒めるも貶すも両方上手い。
泣き止んだ女性が涙を拭き、鼻をかむ音が聞こえた。
「ハンカチは返さなくていい」
「でも……」
「もう君に会う気はない。この始末じゃ親兄弟に君を紹介するどころじゃない。僕も君もこの店に二度と入れないよ」
「待ってよ、あなたを愛しているのよ。行かないで」
憤然と席を立つ男性に追い掛ける女性。そのまま外に行ってしまった。
店内はやれやれと肩をすくめる者もいれば、男が一方的過ぎると呟く者もいた。




