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君影草  作者: 惠美子
第四十七章 いとしの君がいなければ
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 女性はか弱い。か弱く、許された権利の小ささゆえに、しなやかにしたたかに世の中を渡っていこうと知恵を働かせる。夫の暮らす未知の環境に飛び込んでいく若妻だって、右や左の区別も知らない幼女ではない。共に暮すならと夫を自分の領分に引き込む女性とている。愛情抜きで結び付く貴人の家柄だとて一方的に相手の出す条件を飲んで結婚の契約をするのではない。どちらも主張し合い、折り合いを付けていく。

 好きな人の為なら何でもすると誓いを立てたとしても、それは奴隷になると宣言したのと同義ではまったくない。

 俺が傲慢だったのだ。季節が廻り、また春が来たとて同じ春の眺めが現れるとは限らない。変わらぬ愛情で染め上げた布地にも、心の揺れの濃淡が出てこよう。

 時間を掛けてベルナデットの心を解きほぐし、俺も部署の異動を申し立てるなりをすれば、また違った未来を作れたかも知れない。

 終わってしまった。

 許されるならば、時間とともに落ち着き、二人で向き合って語り合いたい。この先道が交われるように。俺の命が続く限り、希望を杖に生きていく。

 いつまで生きていられるか。己が健康であれば気にしないだろう。成長期の子どもが老人になるのを想像できないのと違った意味で、俺は自分が年老いた姿になるのを想像できない。そもそも俺はあとどれくらい普段と変わらぬ生活を送れるのだろう。発熱や倦怠、何よりも体力の低下で物も考えられず、体も思うように動かせなくなったらと、想像すると息苦しくなりそうだ。

 これまでは成長し、経験を積む(たび)に物を知り、様々なことができるようになって、気力も体力が充実していく喜びがあった。それが静かに歩み寄る老いではなく、病や怪我で急に不自由が多くなるのは誰しも(おそ)れるものだ。小さな頃は怖かった梯子を楽々登っていたのが、手足が利かず目も眩むと手も掛けられなくなったらどんなにかなしく口惜しいか。

 ゴルツ大使は己を蝕む病巣を除去する手術を受けた。ナポレオン3世の厚情あってフォンテーヌブロー宮を使い、養生の日々を過している。戦場の治療所とは段違いの徹底した消毒を行った衛生的な環境を保ち、寝台に縛り付けられるのも、数人がかりで押さえつけるのもなく、切除箇所を焼け火箸や焼き鏝で止血する必要もなく、麻酔薬を使って外科医は慎重に病巣を切除し、傷口を縫い合わせて閉じた。

 手術が成功したと聞いた時は大使館に勤める者はみなほっと胸を撫でおろした。術後の容態が安定するまでは気は抜けないが、ひとまずの安心だ。

 病巣を切り取って全快ならば喜ばしい。だが病巣も我が身の内。舌の一部を切り取れば、今後発話に苦労するのは予想できる。外交官が上手く喋れないでは伯林は不安を抱く。駐仏大使の交代は遅からず決定されるだろう。

 俺の胸を切り開いて病変部を取り去れるのだろうか? 

 埒もない。胸には呼吸器のほかに心臓や肋骨がある。機械の故障箇所の修理交換とはいかない。切除の手術ができたとしても元に戻れるのか、それさえ判らない。きっと戻れはしない。肺の一部を切り取って生きながらえても、すぐに息が切れるようでは行軍に付いていけなくなる。巴里や伯林で愛想を売りつつ、机仕事をしているのが関の山か。いや、いっそのこと配置換えか療養を申し出るべきか。ベルナデットから別れを告げられた以上、北ドイツに帰った方が未練を抱かずに済む。プロイセンには生え抜きの士官が多数いるのだ。カレンブルク出の士官が役に立つと我が身で証明できないのは悔しいが、俺が異動すれば伯林からの辞令で後任者がすぐに着任する。

 所詮軍人などかけがえの効く組織の一部だ。

 大使館でハウスマン少佐が俺の顔を見て言った。

「一手どうかねと声を掛けようかと思っていたが、元気がなさそうだ」

「フェンシングですか? そうですね、申し訳ありませんが今日の所はご勘弁を」

 ゴルツ大使の容態やら何やら、心配事で頭を悩ませるよりは軍人は体を動かすのが性分に合っているのだが、今の俺には乗らない方が賢明だ。また咳が出たり、息切れがひどかったりしたら気にされるし、俺も入れろとシュタインベルガー大佐が言い出したら厄介だ。こちらは得意じゃないのだから。

 若い者にはまだまだ負けないと年長者を威張らせるのは経験の差だけでいい。体を動かすことで勝てたとしたり顔をされるのは癪に障る。

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