十一
「なかったことにだなんて、俺は……」
望んでいないと、続けられなかった。
「わたしが長くもないけれど巴里で積み重ねてきた生活の一切合切を置いて、あなたに付いていこうと真剣に訴えている。あなたはそれをどこまで真面目に聞いているのかしら? 汚れ仕事だし、俺の職務だから関わるな、でも愛している、一緒にいたい。
わたしはもうどうしたらいいか判らなくなってきた。辛いとか、気に入らないこともあるからと言って、たやすく仕事を投げ出せないのは誰だって同じ。元々は別の所で生まれ育った人間が結び付いて共に暮らすには、お互い長所だけでなく短所だって受け入れなければならないし、譲らなければならない条件だって出てくる。
わたしはあなたに我が儘ばかり言っているかしら?」
これまでを思い返し、首を振った。俺の為に、と彼の女は主張する。極端に感じる部分もあるが、俺に寄り添おうとしてくれる。
「あなたにはいつも驚かされてばかりだ」
有難う、とベルナデットは笑った。
「あなたの譲れない条件についてこれまでずっと話してきたわよね。そしてわたしがあなたと共にいたら、――プロイセン陸軍士官の妻だろうと愛人だろうと――、世間的にはあなたの付属物、北ドイツに行けばフランス女、異邦人と指差される。だからあなた言う汚れ仕事に関わろうと何だろうと変わるものではないの。でもあなたと一緒なら耐えられる。あなたが耐える力を授けてくれる。
共に大海に漕ぎ出そうとするのに、甲板のここまで来ていいけれど、ここは駄目とあなたから線を引かれても、愚かなわたしには区別が付かない。二人で櫂を持つのに、していいことと悪いことに何の違いがあるのか、見当が付かない。
言いたいことは判るでしょう?」
ああ、と俺は肯いた。
「あなたも外国女を妻にしたと軍での立場が不利になるかも知れない」
「いいや、いいや、あなたがそんなことを心配しなくていい」
無理に微笑もうとして、泣き出しそうな眉の動きに、思わず肩を抱き寄せた。
「あなたは優しい。いつもわたしを守ろうとしてくれる」
「当然だろう」
「でもね、聞いて。
あなたがわたしを守るといっても、あなたは神様でもなければ父親でもない。できることに限りがあるし、夫と妻は一対で支え合うもの。あなたがわたしを仕合せにしてくれるように、わたしもあなたを仕合せにしたい。それなのにあなたはわたしの決意を認めない。
わたしは無力な幼児ではないのに」
「それは……、あなたが巴里を離れることとなったら……、ああ、それこそあなたの言う通り、あなたがこの地で積み重ねてきた一切合切がなかったことになる。だからこそ」
「だからこそ、あなたがすべてになり……」
愛すればこそ、引き受けなければならないだろう。両親のようにならなければいいのだ。いつか醒める夢でなければいい。努力すれば花は枯れない。次の言葉にはっとさせられた。
「祖国と、親とも友とも隔たる」
俺といれば不幸でも孤独でもない。ベルナデットは口にすることでそれを真実にする魔法に掛けようとしている。
「申し訳なさそうな顔をしないで。あなたは何も譲らないと言い張るのだから。もし一つでも譲ってくれるというなら、わたしとの仲を終わりにして。わたしを解き放って」
「解き放つ? 俺はあなたを縛っていない」
「いいえ、あなたが気付いていないだけで、わたしはあなたに囚われている。あなたを想い、あなたの為にすべてを投げうって、付いていこうと考えていた。
判らない? ただの従兄妹同士になれれば、もうそんなことは考えもせず、最新型のミシンを買うなりして『ティユル』に投資してくれないかって話をするだけで済むのよ。わたしは巴里のお針子、あなたはプロイセンの駐フランス大使館付きの武官さんのままでいられるの」
もう理解不能とはいえない。彼の女の発する言葉の一つ一つが突き刺さってくる。




